ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

見えなくなる アモス書7:10〜17、使徒言行録13:4〜12

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2018年6月17日礼拝メッセージ  

        

【罰を受ける話】

 「見えなくなる」というタイトルのとおり、今日のメッセージは、ある人の目が見えなくされる話です。普段皆さんが、自分の身に起きてほしいとは思わないこと。自分とは関係ない話であってほしいと願うところです。本当なら一週間、様々な出来事で心身をすり減らした後、こんなところから話を聞くより、もっと救いになる話が聞きたかったでしょう。

 

 福音書を開けば、イエス様が目の見えない人たちを癒し、見えるようにされた話が次々と出てきます。まさに救いの出来事です。閉じていた目が開かれる、見えなかったものが見えるようになる。私たちが聞きたかったのはそういう話です。ただ、残念なことにこの箇所は、ある人が見えなくなる場面で終わっています。この後、見えなくされた人が再び見えるようになったという記述はありません。

 

 ここからどんな希望を受け取ることができるのか、私たちは若干の戸惑いを感じます。最初に読んだアモス書でも、その次に読んだ使徒言行録でも、記されていたのは、罪を犯した者が罰されるという記事でした。あなたは神の言葉に従わなかったから、剣に倒れ、捕えられる。あなたは神の道を歪めようとしたから、時が来るまで日の光を見なくなる……どうやら、今日の話からは私たちが期待する「救い」なんて受け取れそうにありません。

 

 いえ、違うのです……この物語は私たちを救います。しかも、他ならぬ「見えなくされた人」の姿から、希望を与えてくるのです……ちょっと先生、どうしたのですか? この聖書の記事が見えませんか? 悪い人が報いを受けて酷い目に遭った話、そこで終わっているでしょう? そう言いたくなるのも分かります。事実私も、最初はそれだけの話だと思っていました。

 

 アモスの預言を邪魔しようとした祭司アマツヤ、パウロとバルナバの伝道を邪魔しようとした魔術師エリマ、この2人が受けた罰について、罰を受けないためにはどうするべきかについて、それを語ることが今日の説教の目的だと思っていました。私も「救い」が見えていませんでした。しかし、神の言葉はこんなところから、私たちに光を照らしてくるのです。

 

【悪徳祭司と偽預言者】

 さて、物語はバルナバとパウロが、キプロス島へ宣教に出かけるシーンから始まります。2人が目的地に着いて島全体を歩いていると、あるユダヤ人の魔術師に出会います。彼こそが、この物語で目を見えなくされた人物です。「魔術師」というのは、あらゆる魔術や、迷信に基づく治療行為をしていた人々だとされています。

 

 聖書の中では、魔術や占いを扱うことは、神様の力に頼らない冒涜的な行為でした。この魔術師の場合は、「偽預言者だ」とも言われているので、パウロとバルナバから見て、相当問題ある人物だったようです。

 

 また、ややこしいことに、この魔術師は2通りの名前で呼ばれています。最初に「バルイエス」という名前で登場し、次に「エリマ」という名前で現われます。バルイエスという名前は、イエスという名前がついているように、「イエスの子」という意味があります。イエスという名前は、「彼は救う」という意味なので、バルイエスは「救い主の子」という意味です。

 

 当時、珍しい名前ではありませんでしたが、彼がイエス様の命じた伝道を邪魔したことを考えると、たいへん皮肉な名称です。また、エリマという名前はアラム語で「占い師」や「預言者」という意味のある言葉です。ここに記されているように「魔術師」をそのまま表す名前でもありました。一方で「救い主の子」と呼ばれ、一方で「魔術師」と呼ばれる彼は、いったいどう理解するべきなのか、なかなか厄介な人物です。

 

 彼は、この地方の総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していました。おそらく、総督の住み着きの占い師として雇われていたのでしょう。総督は、当時ユダヤ教の中で、新しい教えを述べ伝えていたパウロとバルナバの噂を聞きつけ、自分の家へと招きます。「彼は神の言葉を聞こうとした」と記されているように、総督自身は、神様の教えを知ろうとして、色々迷走していたのでしょう。

 

 しかし、これを見た魔術師は、パウロとバルナバに対抗して、総督がキリストの信仰へ導かれるのを邪魔しようとします。ある意味当然です。2人の教えに心を打たれ、総督が魔術から離れてしまえば、自分の仕事が無くなってしまうからです。

 

 一方、魔術師に邪魔されたパウロは、聖霊に満たされ、彼に向かって厳しい言葉を突きつけます。「あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしても歪めようとするのか。今こそ、主の御手がお前に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」

 

 これを聞いた魔術師の目は、たちまちかすんできて見えなくなります。何も見えなくなった彼は、歩き回りながら自分の手を引いてくれる人を探します。パウロとバルナバに対抗する恐ろしい魔術師の姿から、一転して、哀れな盲人の姿が私たちの目に浮かびます。

 

 この物語を読むとき、私たちは2つの問いに直面します。1つは、魔術師はこの後どうなったのか? 彼は再び見えるようになったのか? という問いです。もう1つは、私たちも何か過ちを犯してしまったら、魔術師のように見えなくされてしまうのか? 神様から罰を受けてしまうのか? という不安に満ちた問いです。

 

 魔術師の行為は、確かに神様から見て間違ったものでした。しかし、彼にとっては、自分が生きていくために精一杯やってきた仕事です。たとえ自分の仕事が、脱税のため、会社の経理をごまかすことであっても……添加物満載の惣菜をスーパーに並べることであっても……本来は安価な商品を2倍の価格で売りつけることであっても……失うわけにはいかないものです。

 

 偽り、欺き、不正、黙認……これらと一切関係ない仕事は、私たちの周りでもなかなか見つかりません。私たちの誰もが、どこかで魔術師と同じ過ちを犯し得ます。この魔術師に起きた出来事は、同じ過ちを犯し得る私たちへの警告なのでしょうか? 罰を受けた後は、もはや見えないままなのでしょうか? 

 

 不安が募るなか、パウロの最後の言葉が、私たちの心に刺さります。「お前は時が来るまで、日の光を見ないだろう」……時が来るまで……では時が来たとき、魔術師は再び見えるようになるのでしょうか?

 

【罰を受けた後】

 神様から目を見えなくされ、時が来て、見えるようになった人……そんな人物いるのでしょうか? 実は、もう何度も目の前の記事に出てきていました。その名はサウロ、またの名をパウロ……魔術師に向かって、お前は目が見えなくなると宣言した張本人です。そう、パウロ自身も、かつてはキリスト者の邪魔をし、目を見えなくされた人物でした。

 

 パウロはもともと、神の子であるイエス・キリストを偽物だととらえ、その信者を捕まえて回るユダヤ教徒でした。自分こそが、旧約聖書に記された律法を固く守り、神様の教えを正しく実践していると信じていました。イエス様ではなく自分こそが、人々を正しい道に導ける正しい人間だと思っていました。

 

 ところが、そんなパウロの思いは打ち砕かれます。イエス様の弟子たちを捕まえて殺そうと意気込んでいたパウロは、ダマスコへ行く途中、天からの光に照らされます。「なぜお前は、私を迫害するのか」神様の声が響き渡ります。光と声に圧倒されたパウロは、自分が間違っていたことに気づかされます。彼は立っていられなくなり、地面に倒れました。起きあがったときにはもう、見えなくなっていました。

 

 パウロは見えなくされてから、何ひとつできませんでした。当然、一人で歩くことも、飲むことも、食べることもできませんでした。それどころか、彼はこの後しばらくの間ずっと沈黙しています。自分には何ひとつ見えない中、周りからは何ひとつできない自分が露わにされていました。

 

 これまで、人々を正しく導けると思っていたパウロは、誰かの手を借りなければ何もできない存在でした。パウロは黙ったまま、人々に手を引かれてダマスコへ連れて行かれます。3日の間、彼は食べることも飲むこともできませんでした。私には、目の見えなくなったパウロが自分から、「食べさせてほしい」「飲ませてほしい」と言えなかった様子が思い浮かびます。

 

 人間は、見えなくなることを通して、自分一人でできないあらゆることが露わにされます。見えなくなった瞬間、私たちはまず一人で歩くことができません。一人で飲むことも、食べることもできません。誰かに助けを求めざるを得なくなります。ところが、自分が助けを求めるべき相手も見えません。

 

 暗闇で見えない相手に助けを求めるしかない。それはとても不安なことです。見えないもの、不確かなものに頼ることは恐ろしく、そんな自分が愚かに思えてしまいます。実は、私たちは普段から、見えているときからそうでした。見えない善意や好意、そういった不確かなものに頼ることを恐れていました。

 

 神学生だった頃、私は夏期派遣実習という伝道者を目指す学生の研修に行ったことがあります。鹿児島県の川内教会という幼稚園付きの教会で、一ヶ月実習を重ねることになっていました。私は限られた時間、精一杯学び、精一杯教会の役に立とうと意気込んでいました。ところが、実習先へ着いて間もなく、事件が起きました。

 

 牧師の子どもの一人から、「お兄ちゃん、縄跳びの二重跳びやって見せて!」とリクエストされ、良い格好をしようとした矢先でした。見事に左足をくじき、病院へ行くと、これまた見事に骨が割れていました。実習先へ来て、まだ5日目の出来事です。これから教会学校のキャンプが始まるという時に、残り3週間以上の間、私は足の不自由な状態で過ごさなければなりませんでした。

 

 若くて元気な自分こそが、教会の役に立つんだ! そう意気込んでいた私は、足が折れてからしばらくの間、なかなか人へ頼ることができませんでした。道を案内する人に少しゆっくり歩いてもらうこと、自分の荷物を代わりに持ってもらうこと、急な階段を上るとき手を貸してもらうこと……そんな一つ一つの場面で、どうしても自分から「助けて」と言うことができなかったのです。

 

 いつもなら、こんなことで頼らなくて済むのにというプライドもありました。役に立てない申し訳なさもありました。ですがそれ以上に、知り合ったばかりの人たちへ頼ることが怖かったのです。「助けて」と言って、必ず助けてもらえる保証はありませんでした。少なくとも気持ちよく助けてもらえるかは分かりませんでした。

 

 ある人は迷惑そうな顔をするかもしれません。ある人は面倒くさそうに頼みを聞くかもしれません。「この神学生は、一ヶ月何をしに来たんだ?」と思われるかもしれません。誰もが皆、善意を持って、好意的に助けてくれる保証はありませんでした。

 

 しかし、足が折れてしまった体験を通して、多くのことができなくなった時間を通して、私は「助けて」と言えるように変えられていきました。自分が助けを求めることにためらいを感じている間、実際は色んな人が助けに来てくれました。

 

 教会では、幼稚園の子どもたちが自分から私の荷物を運んでくれました。年配の方々は、私が追いつけるスピードで歩いてくれました。駅で出会った、見ず知らずの人が教会まで車に乗せてくれたこともありました。少しずつ、私は自分から「助けて」と言えるようになっていきました。自分が受け入れられ、必要とされていることさえ感じられるようになっていきました。

 

 見えないものを信頼して、頼れるようになるまで、本当に長い時間がかかります。何もできない自分が露わにされて、初めてできるようになることなのかもしれません。パウロもそうでした。自分が何もできないことを露わにされるまで、「助けて」と言うことはできませんでした。見えない神様に、心から頼ることはできませんでした。

 

 周りにいる人々からの見えない善意、見えない好意にも、すぐ反応できず沈黙してしまいました。あのパウロも、見えなくなった後、時間をかけて徐々に変えられていきました。見えなくなって初めて、心から見えない方に頼り始めたのです。

 

【見えないものに頼る】

 そして今度は、パウロ自身が魔術師エリマに、同様の体験をさせるのです。パウロから目を見えなくされた魔術師は、見えなくなってすぐ、誰か手を引いてくれる人を探し始めます。人々を魔術によって驚かしていた彼も、一人で何もできない姿を露わにされます。暗闇の中で、目に見えない誰かへ助けを求め、歩き出すのです。

 

 見えないものへ助けを求め、歩き出した彼の道は、もはや「歪んだ道」ではありません。目に見えない神様を探し求める「まっすぐな道」です。「魔術師」エリマと、もう1つの名で呼ばれる彼は、まさに「救い主の子」「イエスの子バルイエス」として歩む道へ、引き戻されていったのです。

 

 最初に読んだ旧約の記事でも、アモスの預言を邪魔した祭司アマツヤに、厳しい裁きが言い渡されていました。同時に、この裁きは、アマツヤと同じく神様の言葉を聞き入れなかったイスラエルに対しても下されることになりました。「イスラエルは、必ず捕らえられて、その土地から連れ去られる」……実際に、この預言の後、イスラエルの民はバビロニアに国を滅ぼされ、外国の地へ連れて行かれます。

 

 しかし、その長い長い捕囚の期間は、見失っていた神様への信仰を、もう一度取り戻す期間にもなりました。旧約聖書の大部分は、この時に記され、編集されます。さらに、神様はイスラエルの人々に向かって、お前たちは必ず故郷へ帰ることができると宣言されます。道を外れてなお、正しい道へ引き戻し、希望を、光を与えてくださるのです。 

 

【信仰に入る】

 さて、今日の話の終わりには、総督がこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入ったことが記されています。彼は、見えなくされたバルイエスを見て、信仰に入りました。バルイエスもまた、時が来れば、パウロのように信仰に入って、神様に従う者になると期待させられます。

 

 不思議なことに、キリスト教における「信仰」とは、特別に神様が見えるようになることではありません。確固たる何かを認識して、進んでいくことでもありません。むしろ、自分の手を引いてくれる、見えない方を探しながら、不安の中を進んでいくことなのです。そして、私たちが見ることのできないその方は、突然こちらの手を掴んで、思ってもみないところへ送り出します。

 

 バシャンと、水の跳ねる音がしました。私たちの手を引くその方は、息のできない、光の射さない水の中へと、皆さんを導き入れます。罪にまみれた古い体が死んで、イエス様と生きる、新しい命が与えられます。手を引いてもらわなければ何もできない、神様を知っているとはとても言えない、そんなあなたが、洗礼に招かれ、キリストの弟子の一人とされます。

 

 私がお勧めする道は、皆さんを道連れにしようとしているところは、決して安定した道でも、安全な道でもありません。きっと繰り返し、皆さんを不安にさせ、驚かせ、戦わせることになるでしょう。しかし、一つだけ保証できます。

 

 この道は、皆さんが期待することさえできなかった、ありえない変革と回復をもたらします。あなたができないことを、共におられる主が達成させてしまいます。どうぞ、私と一緒に、あなたもここで見られる数々の驚きと喜びを体験してください。あなたの手を引いてくださる主が、目の前で待っておられます。