ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『私が何だって言うんです?』 出エジプト記3:1〜15

礼拝メッセージ 2018年11月18日

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【なぜか選ばれてしまった】

 以前、私が牧師になるための試験を受けるとき、推薦を受ける教区の教師からこんな質問を受けたことがあります。「あなたは神様からちゃんと召命を受けていますか?」……召命というのは、キリスト教において神様から選ばれ、自分が呼ばれたという確信を意味します。転じて、牧師や神父などの特別な使命、聖職者になる導きを与えられたという意味で使われます。

 

 「あなたは神様から、牧師になる使命を与えられたという自覚がありますか?」そういう意味で問われたこの質問に、私は「はい」と答えて、すぐ詰まってしまいました。その教師は、教区の中でも、まあまあ怖い先生として有名で、私は極度に緊張していました。重要な質問に「はい」の一言だけじゃ突っ込まれるかもしれないと思った私は、頭をフル回転させて、後に続ける言葉を必死に考えました。

 

 あなたの目から見たら、私は軟弱者で自信がなく、教師として立つのにふさわしくないかもしれません。実際、気が弱い人間ですし、人前で話すのは得意じゃありません。勉強不足で、まだまだ未熟なのは自覚しています。牧師に向いてないと思ったことは何度もありますし、人からそう言われたこともありました。けれども、神様はそんな私に、なぜかこの道を歩ませてきたのです……

 

 頭の中で言葉をまとめ、そう答えようとしたとき、「それでは次の質問です」と話は流れてしまいました。幸い、教区の諮問会が終わった後、私は無事に試験を受けるための推薦を受けることができ、何とか正教師検定試験に合格することができました。けれども、あの時自分が答えようとしていた内容を思い返すと、答えなくて正解だったかもしれないなと思います。

 

 なにせ、牧師になるための試験で、いかに自分が牧師に向いていないか、ひたすら話そうとしていたわけですから。その時の私と似たような様子になる人を、教会でもよく目にします。

 

 たとえば、初めて役員に選出され、その役割を引き受けるとき。教会学校の先生として、初めて子どもたちに向かってお話しするとき。みんなの前で、自分の信仰について証をすることになったとき……「こんな私がなぜか選ばれてしまった」という戸惑いから、言葉を始める人が多いです。

 

【何者でもないモーセ】

 「召命」という言葉は、聖職者になる人に使われることが多いですが、もちろんそれ以外の人も、様々な使命のために、神様から選ばれ、遣わされ、用いられます。しかし、たいてい自分には荷が重いと感じる人が多いです。もっとふさわしい人がいる、もっとふさわしいタイミングがあると言い訳し、何とかその使命から逃れようとする……そんな経験が、皆さんにもあるかもしれません。

 

 先日の信徒立証礼拝で、役員の一人が証をしてくださいました。その中で、彼女からこんな体験が語られました。−―神様はお用いになる時「それを今するんですか?」とか「私がですか?」といったシチュエーション、タイミングであっても、「今しなさい、あなたがするんです」とおっしゃいます。個人的には「今は勘弁してほしいけどな」という時であっても「今でしょ!」なんです−―

 

 まさに、そんな経験をした人のことが、今日読んだ出エジプト記3章に出てきました。記事の冒頭にも、「モーセの召命」という見出しがつけられています。モーセと言えば、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を導き、神様が約束した土地まで、みんなを連れて行った指導者です。人々に神様の言葉を取り次ぐ、預言者の先駆けとなった人物……そんな彼も、神様から選ばれて最初に出てきたのは「なぜ私が?」という戸惑いでした。

 

 「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」突然語られた神様の言葉に、「いやいや、聞いていませんよ!」と、モーセは慌てて口を挟みます。

 

 「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出せねばならないのですか?」モーセがこう言うのにはワケがありました。彼は、自分が何者か分かっていませんでした。生まれたのはイスラエル人の家です。しかし、エジプトのファラオの命令で、イスラエル人の男子は生まれてすぐ殺されることになっていました。

 

 彼は、3ヶ月の間両親に隠され、もはや隠しきれなくなった後、ナイル川の葦の茂みに捨てられます。運良く、そこにファラオの娘が通りかかり、彼女に拾われ、王女の子として育てられるようになりました。ところが、彼は成人したとき、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐待されている現場を見てしまいます。

 

 彼は周りに誰もいないのを確かめて、そのエジプト人を打ち殺し、死体を砂の中に埋めてしまいました。後日、今度はイスラエル人同士が喧嘩している現場に遭遇しました。彼が止めようとすると、仲間を殴っていた方が「お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返します。

 

 モーセは、同胞を助けるために殺人を犯し、それを見た同胞に脅されてしまいました。やがて彼は、密告を受けたファラオから命を狙われるようになりました。「王女の子」という肩書きは失われ、イスラエル人も「仲間」と呼べなくなりました。モーセはファラオの手を逃れて外国の地にたどり着き、そこに住む娘と結婚し、しゅうとエトロの羊を飼って暮らすようになります。

 

 もはや彼は、イスラエル人にもエジプト人にもなれない存在でした。どちらも、彼の命に危険をもたらす存在でした。彼は人殺しで、同胞から売り渡され、ファラオから狙われる、帰る場所のない人間でした。考えてもみてください。モーセは、自分を売り渡した同胞を助ける義理なんてなく、わざわざ命の危険を犯してエジプトに帰る理由なんて、これっぽっちも、なかったのです。

 

 「わたしは何者でしょう? エジプトへ帰っても、イスラエル人を助けても、そこにわたしを受け入れてくれる場所なんてありません。わたしが何だって言うのです?」モーセの正直な気持ちは、そんなところだったのではないでしょうか。彼には自分の味方をしてくれる者がいませんでした。エジプト人も、イスラエル人も、彼と一緒にいてくれる仲間ではありませんでした。

 

【私はあなたの神となる】

 ところが、一緒にいてくれる仲間のいないモーセに対し、神様はこう答えます。「わたしは必ずあなたと共にいる」……もちろん、これはモーセが何者かを答える言葉ではありません。彼がイスラエルの人々を導き出さねばならない理由を答えたものでもありません。

 

 「私が何だって言うのです?」モーセの問いに、神様は正面から答えません。しかし、彼の求めていた言葉を、確かに答えられたのです。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」帰る場所、受け入れてもらえる場所のないあなたと、私はどこまでも一緒にいる。イスラエルから切り離されたあなたを、イスラエルの神である私が回復する……そう答えてきたのです。

 

 自分を孤独から救おうとする神様の言葉を聞いて、モーセは答えざるを得ませんでした。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。」私を売り渡した彼らのもとへ、ボロボロに関係が壊れてしまった同胞のもとへ、今、帰ります……しかし、この後モーセは、「やっぱり私には無理です」という言葉を繰り返し神様に漏らします。

 

 彼は口下手でした。弁が立つ方ではなく、人々を説得できる自信がありませんでした。また、エジプトの王女に育てられた自分が、イスラエルの人々に信頼してもらえるとも思えませんでした。「お前を遣わした神の名は何と言うのか答えてみろ。」「主がお前などに現れるはずがない。」そう言われることを恐れていました。

 

 そんな彼に対し、神様は再び答えます。「わたしはある。わたしはあるという者だ……イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」ここに出てくる「わたしはある」という有名な言葉は、旧約聖書全体の中でも、特に訳すのが難しいところです。

 

 「わたしは有るところの者である」とか「わたしはなろうとする者である」とかいう言葉で訳されますが、根本的には次のような意味に捉えられます。「わたしはあなたのために神になるであろう」「わたしはあなたのために神になる者だ」……それが、民全体に伝えるべき、神様の名前だと言われたのです。

 

 神様は、モーセだけでなく、一人一人に対して、「わたしはあなたの神になる」「わたしはあなたのために共にいる」と語られます。さらに、神様は念を押して、自分は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われます。これが、「とこしえにわたしの名」「世々にわたしの呼び名」であると。

 

【生きている者の神】

 毎週『信徒の友』をご覧の方は、この言葉が、イエス様によって語り直されていることを、既に読まれているでしょう。マタイによる福音書22章31節〜32節で、イエス様は人々にこうおっしゃっています。「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」

 

 11月に入ってから、私たちは召天者記念礼拝や信徒立証礼拝で配られた『葬儀の備え』などを通して、死によって隔てられた人々のことを考えてきました。モーセは、自分とイスラエル人との間に、大きな隔たりを抱えて外国の地に住んでいました。自分が再びイスラエルの民として、共同体の一員として、生きていく望みはありませんでした。

 

 私たちも、「死」という隔たりを前にしたとき、愛する者と再び出会うこと、彼らと共に生きていくことは、もう叶わないように感じます。しかし、神様は死んだ者の神ではなく、生きている者の神として、全ての人と共にいます。創世記で、「先祖の墓に葬られた」と記されるアブラハム、イサク、ヤコブたちも、ただ死んでいる者ではなく、神様から永遠の命を与えられ、終わりの日に復活する者として記されます。

 

 モーセは、自分との間に、徹底的な隔たりを抱えたイスラエルの人々のもとへ帰っていきました。彼らの指導者となり、共同体に回復されました。私たちが死によって隔てられた人々も、私たちが今一緒にいられない人たちとも、神様は共におられ、和解と回復を実現されます。一人一人に永遠の命を与え、やがて来たる神の国で、再会する場所を用意するのです。

 

 神様は、私にも、皆さんにも、重要な使命を与えます。あなたを選び、あなたを遣わして、愛と平和の業に用います。そこにはたいてい、何らかの隔たりや壁があります。「あなたはふさわしくない」「あなたがその使命に遣わされるはずがない」……そういった言葉や態度に直面します。中には、そのとおりだとしか思えないような、自分の問題も指摘されます。

 

 けれども、神様はあなたに対して、「わたしはあなたのために神になる」と語られます。あなたのために共にいて、あなたが帰る場所、あなたが受け入れられる場所を回復されます。ありえない変化と和解をもたらします。あなたにはできなかったはずの使命を達成させてしまいます。あなたの行く手が阻まれるとき、あなた一人が孤立するとき、あなたの心が揺さぶられるとき、神様が共にいて、守られますように。