ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『信仰によってないでしょ!』 出エジプト記2:11〜22、ヘブライ人への手紙11:23〜28

礼拝メッセージ 2018年10月14日

f:id:bokushiblog:20181014143102j:plain

【信仰によって生きなさい】

 信仰によって生きなさい……教会にいれば、耳にタコができるくらい聞いてきた言葉、くどいほどメッセージのタイトルで見てきた言葉、聖書にも繰り返し出てきた言葉です。皆さん、お馴染みのテーマがやって来ました。今日の話は、もう決まったようなものですよね。教団から与えられた聖書日課の主題にもこう書いてあります。『信仰による生涯』!

 

 だいたいこれを聞いただけで、ベテランの信徒は、今日の説教の内容に想像がつくでしょう。どうせ牧師が、「誰々は信仰によってこう生きました。皆さんも彼のように、信仰を持って生きましょう!」とか言って終わるわけです。たいして新しい発見はないはずです。20分間寝ていたところで、あたかも全部聞いてきたかのように、今日の話を要約できるかもしれません。

 

 信仰によって、力強く行動する。勇気のある選択をする。謙虚に、誠実に生きていく。そんな話を、私たちはけっこう色んなところで耳にしてきました。ナチスに抵抗したキリスト者、人種差別に立ち向かうキング牧師、酒や薬に溺れていた生活から劇的に立ち直ったクリスチャン……信仰があれば、困難な問題や、大きな試練も乗り越えられる。普通ならできないようなことも、実行することができる……

 

 私だって、そんなふうになりたい。信仰によって大きく人生を変えられたい。そう願ったことのある人は、ここにもたくさんいるはずです。神様を信じて洗礼を受けるとき、これから自分は、大胆に、力強く生きていくんだと、期待に胸を膨らませた人もいるでしょう。けれども、それからしばらく経って、思っていたような変化は訪れなかった、目標としていた生き方に届かなかったという感想も、けっこう多いのではないでしょうか?

 

 いまだ昔と変わらず、勇気ある行動や選択ができていないということは、まだまだ信仰によって生きることができていないということだろうか? 神様を信頼する気持ちに揺るぎが生じ、疑ったり、不信感を持ったりするのは、信仰によって生きることができていない証なのだろうか?

 

 正直私も、自分のことを棚に上げて、皆さんに対し「信仰によって生きなさい」とは言いづらいものがあります。辛いことが起これば、神様に感謝する気持ちは薄れますし、どんなことにも恐れず、神様を信頼して進んでいける! というほど揺るぎない人間でもありません。

 

 できれば、私に代わって「こう生きなさい」と指し示す人が欲しいところです。信仰によって生きた人のお手本を見せて欲しいところです。ありがたいことに、ヘブライ人への手紙にはちゃんと「信仰によって生きた人」が紹介されています。旧約のアブラハム、イサク、ヤコブに続いて、奴隷だったイスラエルの民をエジプトから脱出させたモーセ……彼のことが、今日読まれた箇所に書いてありました。

 

【モーセは信仰によってない?】

 ついさっき読んだ箇所を見れば分かるとおり、モーセに関する話だけで、「信仰によって」という言葉が5回も出てきます。この言葉が本当なら、モーセこそ、信仰によって生きた人です。けれども、実際に旧約聖書を読み直してみると、「本当にそうか?」と引っかかってしまう記述がいくつも出てきます。

 

 「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです」……手紙にはそう書いてありますが、出エジプト記の2章を見てみると、モーセを隠して育てる両親の話に、「信仰」という言葉はひと言も出てきません。

 

 彼の父親は、祭司の家系であるレビ人だったにもかかわらず、神様に助けを呼び求める姿も、祈った様子も描かれません。淡々と、「その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた」とだけ記されます。「神」という言葉さえ、ひと言も出てこないのです。やがて、大きくなって隠しきれなくなった赤ん坊は、母親の手でナイル川に流され、それを発見したエジプトの王女、ファラオの娘に保護されることになりました。

 

 「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選びました」……24節の言葉も疑わしいものがあります。なにせ、そんなふうには出エジプト記に書かれていないからです。むしろ、モーセと言う名前は、ファラオの王女がつけたものであり、彼は生涯その名を名乗ったのです。王女の子と呼ばれることを拒んだなんてありません。

 

 また、モーセは信仰によって、同胞のイスラエル人と共に虐待される道を選んだのでしょうか? いえいえ、彼がエジプト人から追われる身になったのは、仲間を虐待しているエジプト人を見て憤り、殺人を犯してしまったからです。しかも、その犯罪を隠そうとします。

 

 たいていの人は、モーセが殺したのはイスラエル人に暴力を振るうエジプト人だったという理由でスルーしますが、紛れもなく犯罪を犯したことがきっかけで、モーセはファラオに命を狙われるようになったのです。信仰によって、自ら虐待される側に回った……というには苦しいところです。

 

 手紙には、さらにこう続けられていました。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました」……いえいえ、しばらく祈祷会で一緒に出エジプト記を読んでいた人なら覚えているでしょうが、モーセはファラオのもとへ行くことをめちゃくちゃ恐れ、拒んでいました。

 

 「どうして私がファラオのもとへ行かなきゃいけないのですか?」「どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか?」そう文句を言いながら、なんなら仲間のイスラエル人だって、自分を信じるはずがないと訴えます。「私がいるから大丈夫だ」と再三語る神様に対して、モーセは何度も、「いえ、どうか別の人間に」「私じゃない他の誰かに」と言い続けます。恐れ知らずの信仰なんて、彼は持ち合わせていませんでした。

 

 さらに、つっこみだらけの手紙はまだ続きます。「信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、子羊の血を振りかけました」……エジプトに下された十の災いのうち、最後の災いを過ぎこしたモーセの様子が語られます。しかしそれまで、イナゴやカエル、疫病や雹といった神様の下す災いを九つも見てきたわけですから、今更「信じる」「信じない」の話ではありません。

 

 神様の言葉を聞いて、絶滅を免れようと従うのは当たり前です。むしろ、これだけの災いを見てきた後でも、神様に信頼せず、不平を言い、民と共に不満を漏らす姿が、実はあちこちに描かれているのです。

 

 「信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました」……出エジプト記で一番有名なエピソードが、手紙の方でも語られます。しかし、これも14章を見ると、「信仰によって」とは言い難い民の姿が描かれています。

 

 彼らは、海を渡る直前に、後ろから追いかけてきたエジプトの軍勢を見て、「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか……荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです」とまで漏らします。さらに、モーセも同じように不安になって叫んだことが、神様ご自身の口から言われていました。どう見ても、神様に信頼している姿じゃないですよね?

 

 「信仰によって生きた」と言われるモーセやイスラエルの民は、どちらかと言うと「信仰から度々離れた」人たちでした。確かに、彼らは最後まで神様についていきますが、自ら進んで従っていったと言うより、親に自由研究を手伝ってもらう子どものように、どこまでも面倒を見てもらった結果、神と共に歩むことができた人々でした。

 

【信仰によって生きれない?】

 そう、モーセの生涯を通して気づかされるのは、私たちが「信仰によって生きることのできない」姿です。こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、私はモーセが神様に忠実だった人間とは思えません。もとから強い信仰を持っていたとも思えません。むしろ、ヘブライ人への手紙に出てくる「信仰によって生きた」人たちは皆、信仰的な生き方から外れがちな人たちでした。

 

 少し前に出てくるアブラハムは、年老いた自分に子どもが生まれるという神様の約束を聞いて、すぐには信じられず、笑ってしまった人間でした。イサクは、外国の王を恐れて自分の妻を妹と偽り、父親と同じ過ちを犯した人間でした。ヤコブは、自分の兄であるエサウを騙し、神様に大丈夫と言われてなお、その報復を最後まで恐れていた人間でした。

 

 彼らはとことん、神様に信頼することのできなかった、神様に従う道から逸れやすかった人たちでした。けれども、道を逸れる度に「わたしがあなたと共にいる」と神様に呼びかけられ、語りかけられ、叱咤されてきました。常に外から、神様の方から、信仰に引き戻され、生かされる人生を歩んできました。

 

 決して揺るぎない信仰を持っていたわけではありません。脅威を前にしては心が揺れ動き、情けない姿を晒してきた人たちです。恐れ多くも、私たちはそこに、自分自身の姿を発見します。神様を信じて出発したのに、試練を前にすると、すぐに信頼を捨ててしまう。祈っても、祈っても、成長しない自分、強くならない自分に失望し、神様は助けてくださらないと感じてしまう。信仰によって生きられない自分に、何の期待も抱けなくなる。

 

 しかし、そんな私にさえ、神様は再び呼びかけてきます。「わたしがあなたと共にいる」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」……今、信仰によって生きられない私たちに、神様は信仰を与えてくるのです。道から逸れた私たちを引き戻し、「さあ、行きなさい」と繰り返すのです。

 

 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、あなたの前にも現れます。信仰的でない私の前にも、モーセを導いた神様は姿を現し、どこまでも共にいてくださるのです。

 

【幼児洗礼】

 昨日、幼稚園の運動会がありました。開会式で最初にみんなで唱えた聖句が、先ほどから何度も言っている神様の台詞、「恐れるな。わたしはあなたと共にいる」という使徒言行録18章9節の言葉でした。出エジプト記から、何度も人々に語られてきた、神様の約束と救いの言葉、それを暗唱している子どもたちの多くは、神様への信仰を、まだはっきりとは告白していません。

 

 小さい頃、幼児洗礼を受けた子どもも、自覚的に信仰を持って、洗礼を受けたわけではありません。けれども、私たちはみんなそうです。自ら進んで、信仰を持ったわけではありません。いつも、神様の方から呼びかけられ、なんならしつこく絡まれて、ようやく信仰を告白するようになった。そんな経緯を持っています。

 

 牧師になった私自身、自ら進んで、神様に仕えようと決心できたわけではありません。何度も道を逸れて、その度に神様からグイッと引っ張られて、信仰によって生きる道へと導かれてきました。私たちは、その経験と体験から、子どもたちを信仰へと導かれる神様に信頼し、幼児洗礼を授けます。

 

 「私を信仰に導いた神様に、この子も信頼することができるよう、教会の信仰の中で育てる責任を引き受けます」……会衆一同でそう約束し、まだ小さな子どもたちへ、水に濡れた手を置いてきたのです。その中の一人、かつてこの教会で幼児洗礼を受けた子どもが、クリスマスに洗礼を受けることが、先週の役員会で承認されました。

 

 この子もまた、大きくなるにつれ、信じることの難しくなってきた聖書の記述にモヤモヤし、揺れ動き、様々な葛藤を経験してきました。しかし、中部教区のバイブルキャンプを通して、同じ悩みを持つ同世代の子どもたちと出会い、もう一度、聖書を捉え直す機会が与えられました。

 

 信仰によって生きる道が、私たちの教会で育ってきた子どもにも備えられ、整えられてきました。その子の歩み、その子の姿を通して、皆さんもまた、新しく、信仰によって生きる道へと、引き戻されようとしています。沈黙する者ではなく語る者へ、隠れる者ではなく表す者へと促されています。

 

 聖書の言葉と、自分の生き方とのギャップに悩み、はっきりと語ることのできなかったこの私も、堅信しようとする者の証に、力を与えられています。だから今、改めて言わせてください。ここから出て行く皆さんに、私の口から言わせてください。「信仰によって、生きなさい。」