ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『あなたの神は誰の神?』 歴代誌上11:1〜9

聖書研究祈祷会 2018年10月17日

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【どうして同じ話が?】

 どういうわけか、聖書の中には同じ出来事が2回も3回も繰り返し書いてあるところがあります。新約聖書では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4つの福音書が、それぞれイエス様の生涯を書いていますし、旧約聖書では、サムエル記、列王記、歴代誌の中で、同じ王についての重なる記述が出て来ます。一般的な文芸書なら、読者を退屈にさせる非常にくどい書き方です。

 

 どうして、わざわざ同じことを繰り返し書いているのだろう? 同じことが何回も起きたのか、違う書き方をしているだけなのか、紛らわしいじゃないか! 皆さんの中にも、疑問に思われた方がいるかもしれません。聖書一冊全てを読み切ろうと思って通読を開始したら、「あれ? これ前にも読んだことがある」「また同じ話を繰り返している」と気がついて、萎えてしまった体験も珍しくはないでしょう。

 

 しかし、注意深く読んでみると、同じ話を書いているところでも、少しずつ違う表現が使われていたり、なんなら完全に矛盾する書き方になっていたりします。先ほど読んだ歴代誌上11章1節から9節の話も、同じ出来事を記したサムエル記下2章1節から7節とは、ところどころ違う話……いえ、むしろ大幅に改稿したような話になっていました。

 

 歴代誌上は、そもそもサムエル記下をもとにして、捕囚期以降に新しく書かれた書物だと言われています。かつて、イスラエルの全盛期に王として活躍していたダビデ王を、非常に理想的な人物として描き、バビロンからエルサレムへ帰還したばかりの人々に、信仰の模範となる姿を示そうとしたものです。

 

 そのためか、サムエル記下で語られているバト・シェバとの浮気や、彼女の夫ウリヤをわざと死へ追いやったこと、その罪を叱責する預言者ナタンの言葉など、ダビデにとって不名誉な出来事は、全て省かれてしまっています。ちょっと都合が良すぎるかな……とも思いますが、実は歴代誌においても、ダビデ個人の功績を称えるだけの、人間礼賛を勧めているわけではありません。

 

 むしろ、ダビデを中心に起こされた出来事が、決して彼個人の意志によって果たされたものではないこと、人間の功績に見えるものが、神様の意志によって、イスラエル全体のために導かれていたことを、繰り返し思い起こさせるのです。同時に、共同体と指導者との間にある微妙な問題をも浮き彫りにします。今日はサムエル記と歴代誌を見比べながら、共に御言葉を味わっていきたいと思います。

 

【個人と共同体】

 まず、先にサムエル記下2章の記述を少し思い出してみましょう。ここでは、初代イスラエル王であったサウルの死後、ダビデがユダの町へ行き、神様のお告げを受けて、ヘブロンの町々へ移り住んだことが記されています。「ユダの人々はそこに来て、ダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした」……4節にそう書かれていました。

 

 しかしまだ、全イスラエルの王としては、サウルの息子であるイシュ・ボシェトの方が生き残っていました。サウル王の家臣であった者たちは、もちろんイシュ・ボシェトの方につき、ダビデは2章から4章にかけて、彼らと戦わねばなりませんでした。そして、イシュ・ボシェトを倒した後、5章になってようやく、南ユダと北イスラエルを含む、全イスラエルの王として油を注がれることになります。

 

 けれども、歴代誌下11章では、サウルの死後、いきなり全イスラエルの人々が、ダビデのもとに集まって、彼を王として迎え入れようとします。まるで、サウル王の息子なんて生き残っていなかったかのように、物語は急激に展開していきます。もともとは、ダビデの方からギレアドに使者を送って、自分を王と認めるよう促す記述があったのに対し、歴代誌では全住民の方から、彼を王として立てると言い始めたのです。

 

 サムエル記のダビデが、自ら努力を積み重ねて、全イスラエルから認められていく様子を描かれているとすれば、歴代誌のダビデは、むしろ周りからのとりなしを受けて立てられた王であることが見て取れると言うこともできるでしょう。しかも、人々がダビデを王として受け入れた理由は、彼個人の功績や努力ではなく、神様の意志を汲んだからということが11章2節に記されています。

 

 「これまで、サウルが王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。あなたの神、主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがわが民イスラエルの指導者となる』と」……さらに、3節では、「主がサムエルによって告げられたように」長老たちがダビデに油を注いだことが語られています。

 

 つまり、ダビデの活躍は全て、神様によって導かれたもので、彼個人のためではなく、イスラエル全体のために導かれたものであると、共同体全体から告白されているのです。そして、物語はクライマックスに入っていきます。王として立てられたダビデが、イスラエルの首都となるエルサレムへの侵略を開始するのです。

 

 エルサレムはもともと、エブス人という民族の住み着いている土地でした。サムエル記下5章6節以下では、「王とその兵」、すなわち、ダビデと彼の個人的な近衛兵だけで、エルサレムを攻め落としたことが記されています。いわゆる少数先鋭による占領です。ところが、歴代誌下2章4節以下では、ダビデとすべてのイスラエル人が、共にエルサレムへ向かったと書かれています。

 

 これも、エルサレム攻略がダビデ個人の功績ではなく、神様の意志に従って彼を王として立てた共同体全体の働きであることが強調されています。ちなみに歴代誌では、ダビデを侮ったエブス人たちが、「お前はここに入れまい」としか言わなかったのに対し、サムエル記では「目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ」とも言っていたことが書かれています。

 

 ダビデはそれを聞いて、エブス人の障害者たちを全員撃つよう近衛兵たちに指示します。さらには、「このために、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった」とまで言及されていました。最も弱い者たちが、第三者の発言と、それに腹を立てた侵略者によって、とんだトバッチリを受けたわけです。

 

 歴代誌では、ここが綺麗に省かれています。時代が流れ、第二神殿の頃にはもう、この言い伝えに問題を感じる人々がいたのかもしれません。なにせ、身体障害者になった者が礼拝から排除されてしまうわけですから、共同体の姿勢を大きく問われることになるわけです。

 

 サムエル記と歴代誌を比べてみると、このように同じ出来事に関しても、強調点が神様と英雄との関係から、神様と共同体全体との関係へと、次第に変わってきています。そして、民と指導者との関係も、サムエル記では指導者から民を従わせようとする形だったのに対し、歴代誌では民の方から指導者をとりなして立てていく様子も記されます。

 

 私たちは、ダビデのような聖書に出てくる英雄の話を聞くと、ついつい「彼のように」忠実で、立派で、力強く生きるようにと、自分や他人に求めてしまうときがあります。しかし、歴代誌では、英雄の功績が個人の努力ではなく、神様の意志と、それに従う共同体全体の働きであったことを思い出させます。このことは、伝道や牧会において、個人を讃えてしまいがちな教会においても、非常に重要なことだと思うのです。

 

【共同体と指導者のとりなし】

 さて、日曜日の週報では、今日の聖書研究祈祷会のタイトルを「あなたの神は誰の神?」としていました。なぜ、そんな題名をつけたのか、気になった方もいたと思います。これは、イスラエルの民がダビデに向かって語った台詞、「あなたの神、主はあなたに仰せになりました」という歴代誌上11章2節の言葉からつけたものです。

 

 始めにこの台詞を読んだとき、私はちょっと引っかかっていました。なぜ、イスラエルの民は「私たちの神はこう言いました」ではなく、「あなたの神は」と言ったのか? ダビデが信じている神様と、同じ神様を自分の神として信じているはずなのに、こんな他人行儀な言い方になったのか、不思議だったのです。

 

 そして、この言い方は、サムエル記上15章30節で、神様から徹底的に離れてしまったサウルの姿を思い出すのです。「わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、イスラエルの手前、どうかわたしを立てて、わたしと一緒に帰ってください。そうすれば、あなたの神、主を礼拝します。」

 

 これは、神様の命令に従わなかったサウル王が、預言者サムエルから見捨てられようとしたとき、必死にすがりついて言った言葉です。もはや彼は、「わたしの神」「わたしの主」と言うことができなくなり、イスラエルの神を自分から切り離して、「あなたの神」と呼んでしまっています。

 

 そのサウルの次に立てられたダビデに向かって、念を押すように「あなたの神が仰せになりました」と語っている民の姿は、まるでサムエルに代わる預言者のようです。事実、彼らの語った「わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがわが民イスラエルの指導者となる」という言葉は、かつて預言者ナタンを通して語られたものでした。

 

 ダビデは民全体から呼びかけられ、イスラエルの神に向かって「わたしの主」「わたしの神よ」と答えることが求められています。新しく立てられる王が、以前の王のように神様から離れることのないよう、イスラエルの民全体で、自分たちの指導者をとりなす預言者的働きを、ここで担っているのです。

 

 ふりかえって、私たちの教会はどうでしょうか? 神の民として与えられている使命、預言者的働き、あるいは、祭司的とりなしを、共同体全体で行えているでしょうか? それらを個人的な務め、牧師の仕事、役員の仕事、委員の仕事として小さく捉えていないでしょうか?

 

【共におられる主】

 華陽教会では、今年の年題聖句をペトロの手紙一2章9節から選んでいます。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」……これは、宗教改革において、全信徒祭司制、いわゆる万人祭司の原則の根拠となった聖書箇所の一つです。

 

 イスラエルにおいても教会においても、指導者となる者、代表者となる者は、共同体全体のとりなしを受けて、選び出されます。その働きは個人の働きではなく、神様の導きを受けた共同体全体で担う働きであり、一人一人に、預言者として、祭司としての使命が与えられているのです。

 

 9節では、「ダビデは次第に勢力を増し、万軍の主は彼と共におられた」と書かれていました。実は、「万軍の主」という表現は、歴代誌でたった3回しか使われていません。エルサレム占領という業績が、民全体による王の任職と、この珍しい表現とに挟まれて置かれていることは、まさに、彼一人の働きではなく、神様に導かれた共同体としての働きであることを思わされます。

 

 聖書は、私たち一人一人に、「あなたの神が、あなたにこう仰せになりました」と伝えてきます。ダビデに語られたこと、預言者に語られたこと、イスラエルの民に語られたことは、あなたにも、私にも言われたことなのです。私とは違う、遠い世界の誰かに言われたことではないのです。あなたが「わたしの神よ」と答えるべき主から、語られていることなのです。

 

 今、自分にどのような励ましが語られているか、どのような警告が発されているか、どのような使命が与えられているか、これからも、聖書を通して、共に聞いていきたいと思います。