ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ゆるしてくれますか?』 創世記9:8〜17、ローマの信徒への手紙5:12〜21

礼拝メッセージ 2018年11月4日

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【死ぬ前の不安】

 今日は、召天者記念礼拝です。いつもと違って礼拝堂の前に、亡くなった方々の写真がズラッと並んでいます。これは別に、今から怪しげな儀式をしようというのではありません。私たちが地上の教会に集まってきた今日、亡くなった方々も天において、一緒に礼拝していることを思い出すためです。

 

 私たちは写真の方々のように、いつか必ず死を迎えます。神様のもとへ向かいます。生まれてから死ぬまでの間、私の全てを見てきた方、心のうちまで聞いてきた方の前に立たされます。ちょっと恐ろしく感じるかもしれません。人には知られたくないあんなことやこんなこと、生涯隠し通してきたことでさえ、全て知られているわけですから。

 

 私が死んで、神様の前に立たされるとき、果たして神様は天国へ迎え入れてくださるだろうか? 神様は私をゆるして、受け入れてくださるだろうか? そんな不安を覚えている方が、ここにもいるかもしれません。私はクリスチャンじゃないし、毎週礼拝に来ているわけじゃないけれど、大丈夫だろうか? 洗礼を受けてはいるけれど、正直、敬虔な信者じゃない自分を、神様は受け入れてくださるだろうか?

 

 あるいは、既に先立った人を思い浮かべ、落ち着かない気分になっている人もいるでしょう。あの人は神様のもとで平安に過ごせているだろうか? 違う宗教を信じていたけれど、受け入れてもらえただろうか? 解決できない問題を抱えたまま亡くなったあの人は、神様にゆるしてもらえただろうか?

 

 誰一人避けることのできない「死」という出来事を前にしたとき、私たちは「ゆるし」という問題にぶち当たります。死ぬまでの間、自分が犯してしまった罪や過ち、愛する人が亡くなるまで抱えてきた問題……それらは精算できるのか、どうすれば解消できるのか、心が騒ぎ立つのは自然です。

 

【残された者の不安】

 「ゆるし」それは必ずしも、神様と自分、神様と故人との間にだけある問題ではありません。人と人との間、すなわち、亡くなった人と自分との間にも、ゆるしという問題は、深く根を下ろしています。案外、それは神様と人との関係以上に、厄介に感じるものかもしれません。

 

 結局あの人は、死ぬまで私をゆるしてくれなかった。あるいは、私自身があの人のことを亡くなった今もゆるせていない……そんなモヤモヤした状況もあるでしょう。亡くなった人のことで、今なお、悩みを覚えている、傷ついている方にとっては、なおさら酷な話です。死んでしまったからこそ、もう取り返しがつかないからこそ、ゆるし難い状況も生まれてきます。

 

 死によって和解する機会を奪われた今、その隔たりは決定的に思えるでしょう。もう回復は見込めない、解決しようとさえ思えない、そんな現実が立ちはだかります。「キリスト教において、死は終わりではありません」……前夜式や葬儀で、私が繰り返し語ってきた言葉も、場合によっては呪いのように聞こえてきます。

 

 たとえ、天の国であの人と再会することができても、自分がゆるしてもらえるとは思えない。あるいは、その人をゆるせるとは思えない。「再会できる」という希望が、自分には励ましに聞こえてこない……キリスト者であっても、クリスチャンであっても、そんな思いを抱えることがあるのです。正直に言いましょう。牧師をしている私でも、喧嘩したまま死に別れた人がいます。大切な人なのに誠実に別れの時を持てなかったことがあります。

 

 ゆるされるかどうか、ゆるせるかどうかを考えるとき、もうしんどくなって、ふと、こう考えることがあるかもしれません。「私なんて消えてしまえばいいのに」「全て無くなってしまえばいいのに」……神様、あなたは聖なる方でしょう? 誰よりも正しく悪いことを見逃さない方でしょう? それならいっそ、罪深い私のことを、複雑な問題にまみれたこの世界を、全て綺麗に消してしまったらどうですか?

 

【全部無くなれ】

 そんな自暴自棄な思いに応えるかのごとく、聖書には、神様が世界を洪水で一掃した話が出てきます。創世記に記された「ノアの箱舟」の話です。神様は、せっかく自分が造った美しい世界に、どんどん悪が満映していく様子を見て、この世界を洪水で滅ぼそうと決意します。

 

 「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」……衝撃的な言葉です。まるで私たち人間が自分の失敗を後悔して、何もかも消えてしまえと考えるように、神様も後悔してしまった話が書かれているのです。

 

 しかし、神様は地上から全てをぬぐい去ろうと言いながら、ノアとその家族、またあらゆる生き物を一つがいずつ箱舟に乗せ、彼らにだけは生き残るよう促します。確かに、ノアはその世代で唯一、神様に従う無垢な人でした。神様も自らそう認めていました。しかし、40日40夜、雨が振り続けた後で、神様は生き残った彼らにこう言われます。

 

 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」……まるで、悪いことを犯す人間が、これからも出てくるかのような言い草です。生き残っている人間は、神様が自分に従っていると認めた、無垢なノアたちしかいないのに、正しい人しか残っていないはずなのに……

 

 ところが、続きを読んでいくと、神様に従う人間であったはずのノアが、あっさりと罪に陥る出来事が登場します。なんと、ノアは自分で作ったぶどうで酒を作り、酔っ払って裸になってしまったのです。しかも、たまたまそれを見ていた自分の息子を呪い、彼の子どもに、兄たちの奴隷となるよう言い残す始末でした。

 

 洪水で生き残ったノア自身、酔っ払って裸を見られたときはさすがに、「自分なんて消えてしまえばいいのに」「全部無くなってしまえばいいのに」と思ったに違いありません。そうやって、周りまで呪ってしまったことがありました。無垢で正しいとされているノアでさえ、このような過ちを犯す姿を見せられると、人間誰しも、自分にはどうしようもできない罪があることを思わされます。

 

 しかし、神様は酔っ払って裸になり、自分の孫を呪ってしまったノアに対して、新たに罰を下すことはありませんでした。彼の子孫に対しても、ノアの行為ゆえに滅ぼすことはありませんでした。なぜなら、神様は洪水のあと、幼いときから悪いことを思い図ってしまう人間に対し、こう約束したからです。

 

 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる……わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」と。私などいなくなってもいい、周りのものも全部無くなればいい、そんな思いに駆られる私たちに、神様は「あなたを滅ぼすことは決してない」と宣言されるのです。

 

 さらに、そのしるしとして、神様は「雲の中にわたしの虹を置く」と言われました。ここで「虹」と訳されている言葉は、本来「弓」を表すのが普通です。古代社会において、虹は、神様が携えている「弓」というイメージでした。つまり、「虹を置く」ということは神様が携えている「弓を置く」、戦いの道具を手放すことを意味しました。

 

 罪を犯した人と徹底的に争うのではなく、弓を置いて和解する、平和の道を共に歩む……それが、神様の新しい姿勢だと言われたのです。ゆるされることも、ゆるすこともできない人間、愛する者を呪ってしまうことさえある人間に、神様は滅びではなく救いをもたらします。罪によって滅ぼされるはずの人々に無罪を宣言し、ご自分のもとへ招いてくださるのです。

 

【全てを赦す行為】

 今日はもう一箇所、ローマの信徒への手紙5章を読みました。冒頭の12節に、全ての人が罪を犯したから、全ての人に死が及んだと記されていました。一方で、たった一人の死によって、有罪を言い渡されるはずだった全ての人にゆるしがもたらされ、無罪の判決が下されるとも言われていました。

 

 そのたった一人の方とは、神の子でありながら人としてこの世に生まれ、全ての人が受けるべき罰を代わりに受け、十字架にかかってくださったイエス・キリストです。イエス様は、神様に救われるはずがないと思われていた罪人や娼婦、神様に見向きもされないと考えられていた異邦人や子ども、神様に罰を受けたと見なされていた病人や障害者を癒し、ご自分を信じるように導きました。

 

 そして、信じる者が永遠の命を受け、神の国に受け入れられることを約束してくださいました。一方で、信じない者は結局滅ぼされてしまうのか、神の国に受け入れてはもらえないのか……という不安も覚えさせられます。しかし、イエス様は、私たち一人一人が「はい、信じます」と答えるまで、どこまでも呼びかける方です。

 

 ルカによる福音書7章11節には、イエス様と出会ったことのない、イエス様を信じる前に死んでしまった人物と、そのお母さんの話が出てきます。この母親は、ちょうど息子の遺体を墓に納めるため、町外れの墓地に移動していく途中でした。彼女は既に夫を亡くし、一人息子にも先立たれてしまったため、悲しみのどん底につき落とされていました。

 

 当時の感覚から言えば、神様に呪われた、あるいは見放された女性と見なされても、おかしくない状況でした。イエス様は、そんな彼女の様子を見て憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われます。そして、遺体の入った棺に手を触れ、死んでいる彼女の息子に向かってこう命じたのです。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」

 

 普通、死んだ人にいくら言葉をかけても、返事を聞けるはずがありません。もう手遅れです。生きているときでさえ、イエス様と出会わなかった、イエス様を信じなかった人間が、死んでから声をかけられて起き上がるなんて、私たちの常識では考えられません。しかし、声を聞けないはずの青年は、答える力がないはずの若者は、その場で、イエス様の呼びかけに答えて起き上がり、ものを言い始めたのです。

 

 神様もイエス様も、私たちをロボットのように操作する方ではありません。必ず、自らの意志で応答することを求めます。しかし、その呼びかけは、私たちが答えるまで止むことはありません。死んだ者でさえ、神様はご自分に立ち返って、永遠の命を受けるよう、起き上がるまで呼び続けるのです。時間は限られている、さあ、私を信じてくれ、答えてくれと急かしながらも、辛抱強く、もう2000年以上語り続けてきたのです。

 

 あなた自身も、あなたの愛する人も、あなたをゆるさなかった、あなたがゆるせなかった人さえも、神様のゆるしから漏れることはありません。私たちキリスト者は、どこまでも諦めず、どこまでも人への期待を捨てない神様の愛を知ったとき、共に呼び続ける者となることを選びました。これだけ神様が、イエス様が、一生懸命呼んでくださっているから、あなたにも振り返って答えて欲しい……そうやって、洗礼を勧めてきたのです。

  

【聖餐と宴席】

 ローマの信徒への手紙を書いたパウロ自身も、救われるはずのなかった、もう手遅れという状況で、復活したイエス様の幻と出会い、新しい命を与えられた人間でした。彼は、もともとキリスト者を迫害する側の人間でした。クリスチャンを殺すために、老若男女を問わず捕まえて回り、ステファノを石で撃ち殺すことに賛成した過去もありました。

 

 パウロがキリスト者と和解する、キリスト者と同じ食卓につく関係になるなんて、とても考えられないことでした。なにせ、彼の手によって、既に死に渡された人々がいたのですから……ゆるされない行為をしたのですから……しかし、イエス様はあり得ない和解をもたらしました。

 

 自分の仲間を傷つけ、迫害してきたパウロを弟子として遣わし、他の仲間と一緒に宣教の働きへと送り出しました。共にテーブルにつくことが考えられなかった人々、敵対し、傷つけてしまった人々と、共に食事をする仲になりました。既に死んでしまった人でさえやがて来たる神の国で、共に食事をする関係になることを、パウロは信じるようになりました。

 

 キリスト教における「死は終わりではありません」という希望は、亡くなった人と、いつかまた会えるという、単なる再会の希望ではないのです。再会し、かつては考えられなかった関係になる、思いもよらなかった和解に至ることを、神様が約束してくださるという希望なのです。

 

 来週、この教会では、月に一度の聖餐式が行われます。聖餐式は、神様への信仰を告白した者が、イエス様の十字架と復活を思い起こし、みんなでパンとぶどう酒をいただく儀式です。同時に、いつか全ての人が神様のもとで食卓に招かれ、共にテーブルにつく日が来ることを信じて、待ち望む食事でもあります。

 

 ゆるすこと、ゆるされることができない関係にある人たち、死によってそれが徹底的になってしまった人たちにさえ、神様は和解と回復をもたらします。共に食卓へつく関係に至らせます。愛する者に先立たれ、悲しみと寂しさを覚えている人、どう扱うべきか分からない感情を抱えている人、あなたにも、神様はこの食卓へと招かれます。その呼びかけに答えるときが、一人一人整えられますように。