ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『いいとこ取りをさせよう』 ヨハネによる福音書4:27〜42

聖書研究祈祷会 2018年11月7日

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【信徒の証って何?】

 華陽教会では今度の日曜日、信徒立証礼拝が行われます。文字通り「信徒が証を立てる」礼拝なので、この日は牧師のメッセージではなく、信徒の証が語られます。証というのは、誰かに向かって自分の信仰を語ることです。どうしてキリスト教を信じるようになったのか? 信じて何が変わったのか? 信じる中で自分に何が起きているのか? それらを自分の口で、自分の言葉で語ることを証と言います。

 

 もっと別の言葉で言えば、周りの人に、自分がイエス様と出会った話をすることだと言えるでしょう。初めてイエス様を知ったとき、何かの折に、改めてイエス様と出会ったとき、私たちは何度も心を新たにされ、行動を変化させられます。その新しい生き方自体が、周りの人に自分を導くイエス様の力を証しすることになります。

 

 また、私たちが人生の終わりを迎えるときも、葬儀という場面で、自分の生涯を通した最後の証が行われます。今年度に入って、華陽教会では2回葬儀が行われ、先日の日曜日には、召天者記念礼拝の後、みんなで墓前礼拝に出かけました。どちらも出席していた方は、葬儀で語られた故人の歩み、神様に出会った者として墓碑に刻銘された方々の名前が確かに、キリストの証になっていたことを知ることができたと思います。

 

 洗礼を受けて、神様を信じますと告白した者は、そうやって自分が出会ったイエス様の話を、生涯人々に伝えていく働きに遣わされます。今日も先ほど読んだ箇所で、イエス様と出会ってすぐに、町の人々へ話をしに行った女性のことが出てきました。ヨハネによる福音書4章に記されたサマリアの女性の話です。皆さんと読んだのは27節からですが、1節の初めの方から話していきたいと思います。

 

【サマリアの女性】

 ある時、サマリアの町に入ったイエス様が、旅に疲れて井戸のそばに座っていると、女性が水を汲みにやって来ます。イエス様は彼女に向かって、「水を飲ませてください」と頼みますが、彼女は驚いてこう言います。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」

 

 実は、ユダヤ人とサマリア人はたいへん仲の悪い関係でした。ユダヤ人がサマリアの町を通ることになっても、まず彼らに声をかけることはないほど、お互いに接触を嫌がっていました。しかも、女性が水を汲みに来たのは正午過ぎ……普通、水汲みは朝の涼しい時間帯に行います。昼過ぎにやって来るということは、他の人たちと鉢合わせしないように人目を避けて生活する、何か後ろめたいものを抱えている人物だと分かります。

 

 そんな相手に対し、イエス様は空気を読まずに声をかけ、しかも頼みごとをされたのです。さらに彼女に向かって、「私に水を飲ませてくれたら、あなたに生きた水を与えよう」と不思議なことを言われます。生きた水……それは飲んだ者が決して渇くことなく、永遠の命に至ることができる水だと言われます。当然、女性はその水を欲しがります。

 

 「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」……すると、イエス様は女性一人だけでなく、彼女の夫も連れてきなさいと言われました。しかし、女性は「わたしには夫はいません」と答えます。それを聞いたイエス様は、驚いたことに、初対面で知っているはずのないことを口にします。

 

 「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」……現代なら、5回結婚して5回離婚したのかと思うところですが、当時は女性の方から離婚することはまずできませんでした。毎回、子どもができずに夫の方から結婚を破棄されるか、結婚する度に夫が先立っていくか、どちらかのパターンしか考えられませんでした。

 

 マタイによる福音書22章23節〜33節には、イエス様とサドカイ派との問答で、子ができずに死んだ夫の兄弟と、次々に結婚し、最後まで子どもができないまま、7回夫に先立たれた女性の話が出てきます。普通考えられない話ですが、似たような状況をサマリアの女性は経験していたのかもしれません。不吉な女、呪われた女……そんな評判が立ったのだとすれば、今連れ添っている相手との結婚も許されずにいたと考えられます。

 

 イエス様が自分のことを言い当てるのを聞いて、彼女は最初、「この人は預言者だ」と考えました。しかし、色々質問するうちに、「この人は救い主、メシアかもしれない」と思うようになります。ちょうどそこへ、食べ物を買うため町へ行っていた弟子たちが戻ってきました。彼らはイエス様がサマリアの女性と話しているのを見て仰天します。

 

 最初に言ったように、サマリア人とユダヤ人はたいへん仲が悪かったのもありますが、それだけではありません。ユダヤ教の指導者たちは、自分の妻を相手にするときでさえ「女とは多く語るな」と言うほどに、男性が女性と話をすることはぶしつけだと考えていました。女性と一対一で、それも昼過ぎに水を汲みに来るような、怪しげな相手と会話する様子は、彼らから見てかなり異質な光景だったに違いありません。

 

 しかし、「何をこの人と話しておられるのですか?」と間に入って邪魔する者はいませんでした。弟子たちは度々、イエス様について来る女性を追い払おうとしたり、集まって来る子どもたちを帰らせようとしたりしますが、この場面では、ただ見守っているだけでした。なぜだったのでしょう? それは、彼女の姿が、初めてイエス様と出会ったときの自分たちと重なっていたからではないでしょうか?

 

【女性と弟子たち】

 先日の聖書研究祈祷会で、私たちはちょうど、弟子たちが初めてイエス様に出会ったときの記事を読みました。ヨハネによる福音書1章35節〜51節です。そこでは、先にイエス様と出会ったフィリポが、友人のナタナエルに、「自分が出会ったナザレの人イエスは、モーセや預言者が預言している人物だ」と語ったことが記されています。

 

 フィリポは、「ナザレから良いものが出るだろうか」と疑うナタナエルに対し、「来て、見なさい」とイエス様のもとへ連れて行きます。彼の台詞は、「さあ、見に来てください」と、町の人々をイエス様のもとへ案内するサマリアの女性と重なってきます。また、フィリポに促されてイエス様と出会ったナタナエルは、自分がいちじくの木の下にいたことを言い当てられ、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と告白します。

 

 同じようにサマリアの女性も、「わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と町の人々に紹介します。驚いたことに、町の人々は彼女の言葉を聞いてすぐ、イエス様を信じます。弟子たちは仲間の証言を聞いた後、イエス様を見てから信じますが、サマリアの町では、イエス様と出会った人の話を聞くだけで信じた人たちがいたのです。

 

 彼らは、イエス様のもとへやって来て、自分たちのところに留まってくれるよう頼みます。これも、一番初めにイエス様と出会った2人の弟子たちと同じ反応です。1章38節で、アンデレともう一人の弟子が、イエス様にどこに泊まっているかを尋ね、自分たちも一緒に泊まったことが記されています。

 

 その後、最初の弟子たちに出会ってから三日目に、イエス様はガリラヤのカナへ出かけて、水をワインに変える最初のしるしを行われました。同じく、イエス様はサマリアで二日間滞在された後、三日目にガリラヤへ出発し、役人の息子を癒す奇跡を行います。

 

 このように、サマリアにおけるイエス様と女性の出会いは、ガリラヤにおけるイエス様と弟子たちの出会いと重なっており、彼女の証が、12使徒の選びに用いられたアンデレやフィリポの証言と同等、あるいはそれ以上に用いられたことが示されています。

 聖職者は、使徒の使命を継承する者として、按手という任職式を行われますが、サマリアの女性のように、使徒でない者、聖職者でない者も、キリストを証しする者として同じように遣わされているのです。

 

【復活の主と出会う】

 また、サマリアの人たちが、イエス様と出会う前に、女性から話を「聞いて信じた」ことは、2章23節でエルサレムの人たちが、イエス様の奇跡を「見て信じた」ことと対比されます。奇跡や癒しという不思議な業を見て喜ぶだけの信仰は、表面的な信仰として、イエス様も歓迎されませんでした。

 

 一方で、イエス様を見ないで信じる人々は聖書の中にほとんど出て来ません。弟子たちも全員、イエス様を見て信じた人たちでした。他の町でも、たいていイエス様の行う奇跡や癒しを見て信じる人が大半です。サマリアの町は、イエス様の奇跡を見ないで信じる人たちが現れた珍しいところなのです。

 

 そして、「見ないで信じた」人々の話は、イエス様の復活後の出来事を想起させます。前回も少し触れましたが、弟子たちが初めてイエス様と出会った場面は、後に復活したイエス様と出会った彼らの行動を先取りしています。1章で、一番初めにイエス様と出会ったアンデレは、「わたしたちはメシアに出会った」と言い、最初は疑いつつも後からイエス様を信じたナタナエルは「あなたは神の子、イスラエルの王です」と告白します。

 

 このシーンは、20章24節以下で、復活したイエス様と出会った弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言い、その言葉を疑っていたトマスが「わたしの主、わたしの神よ」とイエス様に告白するシーンと重なってきます。イエス様は、自分を見て信じたナタナエルにもトマスにも「わたしを見たから信じるのか?」と問いかけ、見ないで信じるよう求められます。

 

 そして、福音書の中で唯一、イエス様を見ないで信じた人たちは、さらに多くの人とイエス様のもとへ行き、直接その教えを耳にします。彼らはやがて女性にこう言います。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 

 見ないで信じた人々の群れが、イエス様を本当に見るようになる。イエス様を「世の救い主」と告白するようになる。それは、今現在、イエス様を直接見ることのできない私たち、イエス様を見ないで信じる私たちに、大きな希望をもたらします。わたしたちもまた、今はこの目で見られないイエス様を、やがて見ることができるようになる。将来訪れる神の国で、直接会うことができるようになる。

 

 このように、人々がイエス様に出会った最初のシーンは、今は見えないけれど、やがては直接見ることのできるイエス様、復活の主と出会えることを予告しているのです。

 

【足りないし、報われない】

 さて、先週発行した週報のお知らせでは、今日の聖書研究祈祷会のタイトルを「いいとこ取りをさせよう」というふうにしていました。これは、38節に出てくる言葉、「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」から取ったものです。

 

 自分が労苦しなかったものから実りを得る……まさに、「いいとこ取り」と言える話ですが、イエス様は弟子たちに、ひいては現代まで続く信徒の群れに、「あなたたちにいいとこ取りをさせよう」とおっしゃるのです。

 

 いやいや、日本ではクリスチャンの人口は1パーセントを切ったし、牧師をする人も奉仕をする人も減ったし、労苦せずに刈り入れを迎えるどころか、労苦しても刈り入れができない日々を送っている! そう言いたくなるかもしれません。実際のところ、「今が刈り入れのときだ」と言っているイエス様自身、常に苦労の連続で、報われない日々を送っていました。

 

 女性に水を求めたとき、イエス様は長旅で疲れているにもかかわらず、食べ物がなく、飲み物がなく、これまでの労苦に見合った報いを受けているとは言い難い状況でした。しかも、自分と話をした女性は、水がめを置いて町へ行ってしまうので、結局何も飲ませてもらえなかったのです。このままでは空腹と水不足で倒れてしまいます。

 

 にもかかわらず、イエス様に悲観的な様子はありません。むしろ、なぜか満ち足りた様子です。食べ物を買って戻ってきた弟子たちが「食事をどうぞ」と言ったときも「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言って、今、その食事にあずかったのだとでも言うように、満足した様子を見せています。

 

 おそらく、この会話の背景には、申命記8章3節に出てくる「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という考えがあるのだと思われます。イエス様は、自分との出会いを町の人々へ語り始めた女性を見て、いつの間にか、渇きも空腹も満たされていたのです。

 

 本来の目的であった、水を飲むことは達成されませんでした。女性に自分のことを証したイエス様の働きは、物質的には報われませんでした。しかし、水がめを置いて走り去った女性によって、確かに神様の御心が行われていると感じていたのです。やがて、彼女の話を聞いて、町中の人がイエス様のもとへやって来ました。イエス様の満たされた感覚は、間違っていませんでした。

 

 お金がない、建物は古い、人も少ない……そんな足りないものだらけの現状を生きる今の教会も、「いいとこ取りをさせよう」と言うイエス様の恵みに、なお、あずかっているのです。私たちは、誰かが蒔いてくれた種によって、イエス様と出会いました。見たことのないイエス様を信じる道を示されました。

 

 私たちも、自分では刈り入れることのない種を蒔きます。私の知らないとき、知らないどこかで、イエス様と出会う人のために、証を続けていくのです。だから、私も少しずつ周りに呼びかけたいと思います。「さあ、見に来てください」と。