ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『こんなところが?』 エフェソの信徒への手紙1:15〜23

元旦礼拝 2019年1月1日 

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【新しい気持ち?】

 「新しい年を迎えて、新しい歌を歌おう」「過ぎ去った日々の悲しみ、様々な憂いは全てキリストの御手に委ねよう」……年の始めによく歌われる讃美歌ですが、皆さんはこの言葉どおり、新年を迎えて、新しい気持ちになっているでしょうか? 今年は今までと違う新しい生き方をしよう! 過去に振り回されないで、これからを生きていこう! 

 

 あるいは、全く逆の気持ちでしょうか? 新しく生きていくなんて力、私にはない。あれもこれも悩むこと、モヤモヤすることがあって、憂いを捨てきれない。周りは2019年を迎えて、新しいスタートを切ったけれど、私は立ち止まったままだ。どうしたら、自分を一新できるのだろう?

 

 何となくここへ来てみれば、礼拝に出てみれば、新しい気持ちになれるかもしれない……そう思って、教会へやって来た。そんな人もいるかもしれません。どうでしょう皆さん? 礼拝堂に入ってみて、新しい気持ちになれたでしょうか? エフェソの信徒への手紙を書いた人は、こう言っています。

 

 「教会はキリストの体であり、すべてにおいて、すべてを満たしている方の満ちておられる場です」……非常に特別な空間、何かすごいエネルギーが満ちている。そんなふうに受け取れる言葉ですが、正直私は去年までと変わらない、いつもどおりの気持ちです。なにせ皆さんと違って、ほぼ一週間ずっと過ごしている空間なので、特別新しい気持ちになるということはありません。

 

 少し前に、日本各地のパワースポットがブームになりましたが、教会もある意味そういうところかと思って来てみたら、建物の一部は改築中で、年の始めで人は数人しか来ておらず、何かに満たされているどころか、スカスカな空間……こんなところが、キリストで満たされている? 神様の力に溢れている? 何とも疑わしい話です。

 

【エフォソの教会】

 けれども、この手紙が送られた、エフェソの教会をはじめとする小アジアの教会も、こことたいして変わらない、あるいはもっと酷い有様でした。当時の教会は、今のように西洋風の十字架が立った「いかにも教会」な建物ではなく、一般信徒の家を解放した、ただの家屋で礼拝していました。

 

 ユダヤ教や、ギリシャ・ローマの多神教が圧倒的多数であった時代、キリスト教会は各地で疎まれ、様々な論争が起きていました。エフェソの信徒への手紙も、著者が獄中で囚われているときに書かれたものではないかと言われています。彼のように捕えられた者もいたでしょうし、迫害を恐れて去っていった信徒もいたでしょう。時には、教会がスカスカの状態で礼拝をささげる日もあったはずです。

 

 そんなところが「満たされた場所だ」と言われる……ちょっと言い過ぎではないでしょうか? けれども、この手紙の送り主と受取人が、何やら不思議な力に満たされてしまったということは確かです。なぜなら、憂き目の多かったはずの彼らが、神様に感謝し、仲間のためにとりなし、心からの信仰告白をしていくからです。

 

【感謝の応答】

 今日は受付で「礼拝案内」という冊子を配らせてもらいました。そこでは、キリスト教会の礼拝が、「神の招き・神の言葉・感謝の応答・派遣」という4つの要素からできていることを説明しています。ここでは、その「感謝の応答」にあたる部分が、祈りの言葉で表されていました。

 

 「絶えず感謝しています」……獄中という場所で、悲しみと憂いに満ちた場所で、彼は仲間が礼拝している様子を聞いて感謝をささげます。実を言うと、著者はエフェソの信徒たちを、直接は知りませんでした。自分が伝道した人たちによって、遠いところでできた新しい教会。そこでも、自分と同じイエス様を信じている人たちが、傷つき苦しんでいる人のために、神様の愛を宣べ伝えている……

 

 自分ができないことを、違う場所でやっている人たちがいる。自分も彼らのために、祈ることができる。本来なら、「お前は無力だ」「彼らと違って何もできない」と、押し潰されそうな状況です。しかし彼は、新しい使命と力を与えられていました。神様は、私を「無力だ」「何もできない奴だ」と言って捨てられない。むしろ、彼らのために祈ってくれと、私に求め、期待し、頼ってくださる。

 

 そうして、自分だけでなく他の人たちのために、とりなしの祈りをささげます。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、……心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものが、どれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださいますように。」

 

 寒さと心細さでいっぱいの獄中から、神様に希望と力を与えられたという彼の祈りは、確かに、エフェソをはじめとする多くの教会で、信徒たちを励ます言葉となりました。無力で何もできなかったはずの彼は、本当に、新しい力で満たされたのです。

 

【新しい力を与える主】

 ちょうど、クリスマスの夜、彼のように憂いと悲しみに満ちた場所、寒くて汚い家畜小屋で、人々の前に現れた救い主がいました。神の子でありながら人の子として、貧しい大工の夫婦に生まれたイエス様です。キリストは、宿屋に泊まることもできない無力な人たちのもとで生まれました。救い主をこんな所で産むなんて! と怒られそうな人たちに「あなたが必要なんだ……わたしを抱き上げ、温めてほしい」と頼られました。

 

 私たちは繰り返し、その出来事を礼拝の中で確認します。教会の礼拝は、自分の無力、情けなさ、愚かしさを感じているあなたに、「いやいや、あなたが必要なんだ」「あなたには私を助ける力が出てくるんだ」……そう神様が呼びかける空間です。あなたの中に、新しい命が芽生え、新しい使命と生き方が与えられます。すべてにおいて、すべてを満たしている方は、あなたをも満たして、外の世界へ遣わすのです。

 

 御言葉に励まされつつ、今、出て行きましょう。