ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『病は罪から、癒しは信仰からですか?』 ヨハネによる福音書5:10〜16、9:13〜17

2020年3月7日

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【罪人は癒されない?】

重い病にかかったとき、悲惨な事故にあったとき、私たちはしばしば「何か悪いことしたせいかな……?」と考えます。日頃の行いが悪かったか? だらしない態度をとっていたか? 何か不敬を働いたか、心当たりを探します。もしかしたら、神様の気を損ねていたかもしれないと。

 

そして、今度は良い人間になろうとします。悔い改めて、反省して、病が癒してもらえるように、事故から立ち直れるように、「もう罪人じゃありません」とアピールします。

 

だって、悪人は癒されないでしょう? 罪を犯している人は、顧みてもらえないでしょう? 神様が回復してくれるのは、思いやりと良心をもつ、まともで正しい人のはずだから。

 

そう、私たちは「自分が悪人のままだったら、きっと良くしてもらえない」という恐怖心を持っています。自分の悪を正さなければ、このままどんどん悪くなる、もっと悪い目に遭ってしまう……そんな不安に駆られます。

 

この状況をもたらしたのは、いったいどんな罪なのか、早く突きとめ、直さなければ! そう思って、焦る人だっているでしょう。

 

けれども、結局何が原因なのか、あれやこれや考えても分からないことが多いです。あのときのことが原因なら、なぜ自分だけこうなるのか? この前のことがきっかけなら、なぜこうしても治らないのか? 心を入れ替え、態度を改め、あらゆる罪を反省しても、良くなる兆しが全然見えない人もいます。

 

むしろ、悪いことなんてしてないのに、「いつまで心を病んでいるんだ?」「どうして治る努力をしない?」と責められてしまう人もいます。「祈って癒された人もいる」「悔い改めて回復した人もいる」そんな話を聞く度に、やっぱり自分が悪いんだなと思わされる。

 

祈りも反省も足りない罪人に、治してもらう資格はない……そんな地獄と隣り合わせの私たちに、今日読んだ2つのエピソードは、ちょっと違和感を持たせます。病は罪から、癒しは信仰からだと思っていたのに、どうも様子が変なんです。

 

【後味が悪くなる事件】

この2つは、どちらもとある池の前で、イエス様に癒された人の話です。一人は、ベトサダの池の前で、38年病気に苦しみ、「床を担いで歩きなさい」と言われて起き上がった人。もう一人は、シロアムの池で目を洗って、生まれつき見えなかった目が見えるようになった人。

 

2人を並べて読んだとき、両方癒されていることが不思議に感じなかったでしょうか? 最初の人は、安息日の掟を破って、自分を治してくれた人を、敵対するユダヤ人に告げ口してしまいます。

 

「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」「いえいえ、これは私のせいでなく、私を治した人が『床を担いで歩きなさい』と言ったんです!」……とんでもないですよね? せっかく治してくれたのに、この男は自分を癒した人間が誰かも確認しないまま、感謝も口にすることなく、恩人を売ってしまうんです。

 

咄嗟だったから仕方がない……そう思うかもしれませんが、彼はこの後、別のところでイエス様と出会い、わざわざユダヤ人たちに「自分を癒したのはあの人だ」と密告してしまいます。紛れもなく、この男は善人ではなく悪人でしょう。「罪人」という言葉が似合います。

 

けれども、その次に出てきた人は対照的です。彼も、最初の男と同じく、安息日の規定を破って、イエス様が癒してくれた人間です。もともと目が見えなかったので、イエス様から離れたところで治った彼は、恩人が誰だか分かりません。しかし、掟に違反したイエス様を探しにやって来た人たちから、懸命にイエス様を庇います

 

彼は、取り調べ中、イエスの名前を一切口に出しません。さらに、「お前はあの人をどう思うのか?」という質問に対し、「あの方は預言者です」という衝撃的な返事をします。

 

イエス様を預言者だと告白するのは、ファリサイ派をはじめとするユダヤ人にとって、自分たちの敵対している者こそ、神に属する人間だと言うたいへん不都合な主張でした。

 

下手すれば、敵を擁護する者として自分が命を狙われかねない。それなのに、「あの者は罪ある人間だ」と主張してくるユダヤ人に、この人は「神は罪人の言うことはお聞きにならない」「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはず」と答えるんです。命がけで恩人を守る態度。まさしく「善人」と言えるでしょう。

 

ところが、イエス様を庇った彼は、「お前は全く罪の中から生まれたのに、我々に教えようというのか」と激しく非難されてしまいます。そういえば、イエス様の弟子たちさえ、最初に彼を見つけたとき、「この人が、生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したからか、両親が罪を犯したからですか?」と聞いていました。

 

イエス様は、最初からこれを否定して「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と答えましたが、目が見えるようになった後でさえ、人々の評価は変わりません。

 

2つのエピソードはどちらも後味の悪いものでした。癒される前から愚痴を言い、癒された後も恩人を裏切ってしまった人の話と、癒されて恩人を庇ったにもかかわらず、罪人と見なされ続けた人の話……単純に、悪人は癒されないとか、善人は癒されてハッピーになるとか、そういう話じゃなさそうです。

 

【罪人の願いを聞く方】

重要なのは、「どちらの人も癒された」「どちらも回復した後、再びイエス様が出会われた」という事実です。見えなかった目が見えるようにされた人は、とても重要なことを言っていました。「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています」

 

この言葉が正しければ、最初に出てきた38年病気に苦しんでいた人は、願いを聞かれないはずでした。彼は紛れもなく「罪人」でした。38年も周りの人にほっとかれるほど、人との関係も壊滅的で、もしかしたら、みんなに嫌われていたかもしれません。罪人の願いを神様は聞かれない。

 

にもかかわらず、彼は病を癒してもらえました。誰が聞いてくれたんでしょう? それは、他ならぬ救い主、神の子であるイエス様です。「良くなりたいか?」罪人であるなら、聞かれるはずのなかった希望を、この人は聞いてもらえます。この後、恩人を裏切ってしまうにもかかわらず、彼は助けてもらうんです。

 

同じように、イエス様を裏切って見捨ててしまったにもかかわらず、救われた多くの人がいます。イエス様が捕えられたとき、散り散りに逃げ出した弟子たちもそうです。「イエスのことなんか知らない」と言ったペトロもそうです。彼らも、イエス様に罪をなすりつけた病人のように、再びイエス様と出会います。

 

死を超えて、復活して会いに来られたイエス様に……「助けてください」と祈りながら、誰かを傷つけたり、保身に走ったりする全ての人がそうなんです。たとえ裏切っても、見捨てても、この方は私たちの生き方を良くするために会いに来る。

 

イエス様は、聞かれるはずのない、私たち罪人の祈りを聞いてくださるお方です。罪を繰り返す人間にも、何度も出会って、「もう罪を犯してはならない」と粘り強く語り続けるお方です。

 

周りから「罪を犯したせいで酷い目に遭った」と見なされている人たちも、「癒されないのは私自身が悪いからだ」と自分を責めている人たちも、イエス様は確かに祈りを聞かれます。

 

あなたが何者であろうと、イエス様は出会い、語られ、触れてきます。何度も、何度も会いにきます。あなたが癒され、生き方が変えられていくように。その呼びかけは止みません。

 

イエス様の担われた十字架と苦しみを思い起こし、自らの罪を悔い改める、受難節第2週目となりました。私たちのためにイエス様が十字架にかかって、復活されるときまで、あと5週間……もう一度、この方の呼びかけに耳をすませていきましょう。

 


『病は罪から、癒しは信仰からですか?』ヨハネによる福音書5:10〜16、9:13〜17