ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『心に責められることがない?』 ヨハネの手紙一3:11〜24

聖書研究祈祷会 2019年2月6日

 

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【兄弟と愛し合えない】

 ヨハネの手紙で「互いに愛し合いなさい」という教えについて記した箇所……その中でも、ここでは特に「自分の兄弟を愛すること」が言われています。あなたにとっての「兄弟」、あなたにとって最も身近な者を愛しなさいという話。一見、知らない人、苦手な人を愛することより、ずっと易しい教えが語られている。そう感じるかもしれません。

 

 しかし、この教えを本気で実行しようとすれば、割と絶望的な気分になってきます。なぜなら、「兄弟だけど愛せない」「兄弟だけど憎んでしまう」自分自身の姿を突きつけられるからです。私には双子の弟がいます。お互い牧師をしているので、よく相手のことをメッセージの中で取り上げます。

 

 「兄貴は昔こんなことをしていた」「弟はこんなエピソードを持っている」……割と容赦無く、お互いの過去を持ち出しては、メッセージのネタにしてしまう兄弟です。信徒さんのLINEなら、なるべく早く返事をするのに、兄弟から来たLINEなら、一週間くらいほっておくこともざらにある。実は、牧師である私たちが、最も蔑ろにしている相手が、兄弟という存在なのかもしれません。

 

 皆さんはいかかでしょうか? 自分の兄弟、あるいは姉妹と互いに愛し合うことができるでしょうか? もう何年も疎遠になっている。連絡を取り合おうとさえ思えない。それどころか、実はあることがきっかけで何十年も憎んでいる。どうしても許すことができず、仲直りしようと思えない。そんな関係の兄弟だっているでしょう。

 

 なんなら、喧嘩した友達と仲直りするより、憎み合った兄弟と円満になる方が、よっぽど難しいかもしれません。近しいからこそ、憎み合っている関係を、愛し合う関係へと変化させるのは、ほぼ不可能に思えます。

 

 また、同じ信仰の仲間を「兄弟姉妹」と呼び合う教会で、私たちは互いに愛し合っているでしょうか? 教会から離れる、教会にいられなくなる理由の9割が人間関係……そう、兄弟姉妹という関係が、憎み合う関係に発展するのは日常茶飯事の光景です。

 

【憎んだら人殺し?】

 なるほど、互いに愛し合うこと、とりわけ自分の兄弟を愛することは、思っていたより難しい……そう気づかされた私たちに、さらに容赦ない言葉が突きつけられます。15節を見てみましょう。こうあります。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」……人殺し、あまりにもオーバーな話に聞こえますが、これはマタイによる福音書で、イエス様自身も言っていることです。

 

 5章の21節以下、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる……」

 

 なんて無慈悲な言葉でしょう。言葉どおりに受けとめるなら、人類のほとんどは最高法院で有罪を言い渡され、火の地獄に投げ込まれてしまいます。自分の弟を殺し、史上初の殺人事件を起こしたカイン……兄弟を憎む者は、彼となんら変わらないと言われてしまうのです。

 

 いやいや、きっと聖書は、もうちょっと優しく、穏やかな言葉を続けてくれるに違いない。そう期待する私たちへ、ヨハネの手紙は追い打ちをかけるように続けます。「人殺しには永遠の命がとどまっていません」と。

 

 これは大問題です。兄弟を「ばか」と言い、「愚か者」と言い、憎み合って許すことのできないキリスト者が、永遠の命をどれだけ求めても、もはや救いようがない……そう思わされる言葉です。どうやら私たちの大半が、既に永遠の命を失っているみたいです。ヨハネの手紙は、「互いに愛し合いなさい」という教えを「福音」(良い知らせ)として語っていますが、どうも今の私たちには「良い知らせ」というふうには聞こえてきません。

 

【そこまでできない!】

 しかし、もしかすると、「私は兄弟のことを憎んでないし、みんなと仲良くしているから大丈夫!」という人もいるかもしれません。羨ましい限りです。しかし、この手紙は、愛していても「そこまではできない」という要求まで突きつけてきます。たとえば、こんな言葉です。「わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」

 

 相当ハードルを上げてきました。兄弟のために命を捨てる場面なんて、人生でそうそう出てこないと思いますが、いざ誰かのために犠牲になれと言われたら、「分かりました!」なんて即答できませんよね。たとえ、相手がどれだけ親しく、愛している人であったとしても。

 

 さらに、こんな言葉も続きます。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう」……教会でお金に困っている隣人を、あなたは知っているかもしれません。親戚で、苦しい生活を送っている人に、心当たりがあるかもしれません。

 

 だからと言って、すぐに手を差し伸べられるものではないでしょう。お金を渡してもすっきり解決することなんてそうありません。期待していた用途とは別のことに使われる。何度も頼られるようになり、共倒れになってしまう。あるいは、相手のプライドを傷つけて、かえって関係が壊れてしまう……そう、必要な物に事欠く人を助けるのは、一筋縄ではいかないのです。

 

 「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」……18節にはそう書いてありますが、私たちは素直にこれを「そうですね」と言えません。むしろ、度々、無理難題をつきつけてくるこの手紙、実はここに書いてあることこそ、口先だけの綺麗事でないか? と疑いたくなってきます。

 

【そんな人一人もいない?】

 実際、手紙の後半も「本当にそうか?」と感じる話が満載です。手紙の著者は大胆にも19節でこう言います。「わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます」……「自分が真理に属している」なんて、大きく出ましたよね。聖書の言葉を知っている、イエス様の教えを信じているから、私は思いっきり安心できる! そう言い張るのだとしたら、この人はよっぽど完璧超人です。

 

 なにせ、「互いに愛し合いなさい」という教え一つ、私たちは守れず、苦しんでいるのに……この教えを知っていたところで、実行できなければ、自分は大丈夫なんて安心できません。むしろ、安心できる人なんているのでしょうか? 21節ではこうも言っています。「わたしたちは、心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。」

 

 神様に願ったことは、何でもかなえられる人……そんな人本当にいるのでしょうか? いたら逆に怪しく感じます。「祈ったことは何でもそのとおりになった!」と言って、熱心に自分の宗教へ勧誘してくる破壊的カルト、至る所にありますよね。たぶん、健全な教会なら、「あなたが祈ったことは何でもかなえられる!」という言い方は、そう簡単にしないでしょう。

 

 手紙の著者も保険をかけてか、「心に責められることがなければ」という一文を入れています。いやいや、心に責めのない人なんて、世の中に一人もいないでしょう? 「私たちは皆罪人です」と告白するキリスト者が、いったい何言っているの?……という話です。どうも納得できません。この手紙の著者は、敢えて私たちが「自分は救われようがない」と感じる言葉を突きつけながら、それを「福音」として語っています。

 

 この世には一人として、救われる者はいないと思わせながら、「安心できる」「何でもかなえられる」と言ってきます。どういうつもりでしょう?……そう、実はこの手紙、「永遠の命」を受け取れないはずの私たちへ、「互いに愛し合えない」私たちへ、必要な力と変化をもたらす、「良い知らせ」をも教えているのです。

 

【愛し合えなかった兄弟たち】

 「互いに愛し合いなさい」という教え、これはもともと、ヨハネによる福音書でイエス様が弟子たちに命じた言葉でした。ちなみに弟子である12人のうち、ペトロとアンデレ、ヨハネとヤコブ、実に3分の1に当たる人間が、兄弟関係にありました。その他にも、もともと別の人の兄弟弟子であったり、友人同士であったりと、イエス様に会う前から、身近な関係でいた人が多くを占めていたのです。

 

 それならば、最初から仲良くやっていけただろうと思いきや、彼らは兄弟同士、仲間同士でけっこう憎み合っていたようです。彼らの中心人物であったペトロは、ある時イエス様にこんな質問をしています。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

 

 ようするに、もうそろそろ許したくない兄弟がいる……という話ですよね? 七回まで我慢したなら、むしろよくやったというべきです。何回も裏切られて、相当はらわたが煮え繰り返っていたでしょう。また、弟子たちは互いに誰が一番偉いかを、よく議論していました。議論するだけならまだしも、そこから言い争いにも発展していました。

 

 愛し合う関係とは言い難い兄弟だったわけです。さらに、弟子の中にはもともと徴税人であったレビ、あるいはマタイという人物もいました。彼はたくさん富を持ちながら、民衆からさらに税を取り立てるという立場であった人物です。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない」……そんな暮らしをしていました。

 

 新約聖書の中で、多くの手紙を書き残した宣教者パウロなんて、もともとキリスト者を捕まえて処刑していた、正真正銘「人殺し」だった人物です。イエス様の弟子になったほぼ全ての人たちが、ヨハネの手紙で言う「神の子」よりは「悪魔の子」に属するタイプの者でした。なんなら、イエス様の弟子になってからも、けっこう長い間、彼らは愛し合えず、憎み合い、対立を繰り返していたのです。

 

【死から命へ移っていく】

 本来なら彼らこそ、最高法院に引き渡され、火の地獄に投げ込まれるはずでした。しかし、実際に最高法院へ引き渡されたのは、彼らではなく、イエス様でした。十字架につけられ、地獄のような苦しみを受けたのは、イエス様でした。心に責められることがなかったにもかかわらず、十字架にかかりたくないという願いを捨てて、「御心のとおりになりますように」と祈り、自分の命を差し出した……それが、この方だったのです。

 

 そのイエス様が、復活してから弟子たちにかけた言葉は、断罪でも裁きでもなく、「あなたがたに平和があるように」という言葉でした。愛し合えない者たちをも、愛してくださるイエス様の姿がありました。彼らはやがて、少しずつ、少しずつ、今までとは違った生き方へと変えられていきます。

 

 自分の命が惜しくて、イエス様を見捨ててしまった彼らが、自分の兄弟姉妹のために、命をかけて伝道していく。互いに愛し合うよう、その口で教えるようになる。信じられない変化ですよね。彼らは確かに、ふさわしくない者だったのに、永遠の命を与えられた者として、新しく歩みを始めたのです。

 

 最初に出てきた悪い者、兄弟殺しのカインはどうだったのでしょう? 彼はもう、人を殺した罪により、新しい命も、新しい生き方も与えられないのでしょうか? 創世記4章を見てみると、彼は確かに、アベルを殺してしまった後、二度と自分の手で土から作物を得られないという罰を受けてしまいます。

 

 しかし、彼の命は最後まで、神様によって守られます。カインはやがて結婚し、子どもが生まれ、町を建造する人物にまで上り詰めます。そして、自分が建てた町とその子どもに対し「エノク」という名前をつけます。エノクとは、「従う者」という意味の名前です。弟に嫉妬し、神様に背いてきた人間が、その後も神様に命を守られ、「従う者」へと変わっていく。

 

 神様と出会い、イエス様の言葉に触れた人たちは、このように「死から命へと移って」いきました。本来は「人殺し」のまま、「死にとどまっている」人たちを、主は命へと引き戻します。この方が、私たちを「愛せない者」から「愛し合う者」へと変えてくださいます。だから、私たちは神様の前で、安心することができるのです。

 

 今ここで話をしている私にも、皆さんに対し「互いに愛し合いましょう」なんて教える資格、ないでしょう。どの口が言うか! と怒られてしまうでしょう。しかし、手紙の著者が愚かにも、こうやって書き記しているように、私もまた、自分自身に変化をもたらすイエス様を信頼し、皆さんに命じていきたいと思います。互いに愛し合いましょう。言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合いましょう。