塚口教会交換講壇 2020年1月26日
【聞いてくれない?】
恥をかきたくない……たぶん、私が神様に祈る中で、最も多くを占めているのがこの願いです。神様、明日も何とかなりますように、恥をかかずに済みますように、誰かに叱られ、誰かを怒らせ、誰かから呆れられることのないように、私を恥から守ってください。
昨夜必死に祈ったのは、今日お話しする皆さんに、弟のメッセージと比べられて、「なんだ、お兄さんの方はそこまで心に響かないな」って思われないよう、ちゃんと話ができますように……という願いです。
告白しましょう。私は今日、ここで話したくありませんでした。普段、弟のメッセージを聞いている皆さんに、私のメッセージを聞かれて、「たいしたことない」って思われるのが怖かった。
「礼拝でそんなこと思いませんよ!」って言う人もいるでしょうが、皆さんだって、誰かの後で証をしろと言われたら、尻込みするでしょう?
口では「今日語るべき言葉を神様が与えてくれる」って言いながら、内心「どうしよう、あまり準備ができてない」「勉強不足がばれるかも」「格好がつかなきゃやばいよな」って思ってる。でも、きっと神様は、私が恥をかかないように、働きかけてくれるはず!
自分が悪いのは分かっています。私は情けない者です。だけど、みんなを失望させたくありません。迷惑をかけたくありません。空気を凍らせたくありません。神様、どうか私のそばにいて、最適な行動を取らせてください。
ほら、似たような祈り、あなたもしたことがあるでしょう? だって旧約の時代から、私たちは繰り返し祈ってきたんです。
神様、あなたは私に好意を示してくれますよね? 私を幸せにしてくれる方ですよね? どうか私が、嘲られ、侮辱され、打ちのめされることのないように、ずっとそばにいてください!
【一緒に行かない?】
お気づきのとおり、これは最初に読んだ出エジプト記33章に出てくる、イスラエルの指導者モーセの祈りです。彼は、何度も人々に文句を言われ、腹を立てられ、言うことを聞いてもらえなかったリーダーでした。
とうとう自分が留守にしている間、人々は言いつけを破って金の子牛の像を造り、勝手に拝んでしまいます。モーセと共に遣わされたアロンも、彼ではなく、民の言うことを聞いて偶像を完成させてしまいます。
神様から選ばれた指導者なのに、誰も自分についてこない。誰一人、言うことを聞いてくれない。ただでさえ、きつい状況の中、神様からこう言われます。
「あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたがたの間にあって上ることをしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」
神様が、自分の率いている民から離れてしまう。ある意味、指導者である自分から、神様が離れていくのと同義です。
だって、人々と神様の間をとりもつのが、モーセの仕事でしたから……下手すれば、自分の民からさらに失望され、諸国の民からも嘲られます。
あいつが率いている民は、神様に助けてもらったくせに、言うことを聞かないで見捨てられ、一人ぼっちになってしまった。いまや、神に選ばれた民でも何でもない。彼らに神はついてない。モーセが指導者として立てられたのは、間違っていたんじゃないか?
彼は必死に祈ります。主よ、あなたは私を名指しで選んだじゃないですか? 必ずあなたと共にいると言ったでしょう? 私に好意を示すと約束したはずです。
どうか、私から離れないでください。「あいつは神と関係ない」なんて言わせないでください。あなたが私と共にいることを、みんなの前で示してください。
すると、神様は答えます。「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」「あなたのこの願いもかなえよう」……ホッとひと安心。
これで恥をかかずに済むかと思いきや、神様はモーセに顔を見せません。一緒にいると約束したのに、「自分の顔を見たら死ぬ」と言ってくる。
私はあなたと一緒にいるが、あなたは私の顔を見られず、周りも私に気づかない。もはやそれって、「いない」と同じじゃないですか? 結局、何の証明にもならないじゃないですか?
神様は、確かにモーセと一緒にいましたが、彼は人々に疑われ、何度も辱められました。人々から確固たる信頼を得られたことって、実はほとんどなかったんです。
恥をかかないよう願ったモーセは、むしろ、恥ずかしい思いをいっぱいしました。しかも、それを旧約聖書に書かれました。
彼が民を率いているとき、どれだけ多くのクレームがあり、どれだけ指示を聞いてもらえず、どれだけ泣き言を言ってきたか、聖書は赤裸々に記しています。
同じように、文句を言われ、話を聞かれず、自信を失っている人たちに、神様は語りかけてくる。
あなたは私を見れないし、周りもそれを信じないが、私はあなたと共にいる……モーセはいつしか、自分の恥を取り去るよりも、今恥ずかしさでいっぱいの人に、神様が共にいることを知らせる者となりました。
【誰のための奇跡?】
後から読んだヨハネによる福音書2章も、婚礼の最中に若い夫婦が恥をかかないよう、イエスの母マリアが頼み事をするシーンから始まっています。「イエス、イエス、この家のぶどう酒がなくなりました!」
このままでは、自分たちを招いてくれた若い夫婦が、酒を切らしてしまったことで、大恥をかいてしまいます。
たとえるなら、披露宴に多くの人がやってきたのに、引き出物の数が足りなくて、後から来た人を手ぶらで返すような有様です……気まずいですよね。
けれども、イエス様は言うんです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」……母親に向かって何て言い方でしょう?
マリアの気遣いに対し、イエス様のドライなこと! まあ、なんだかんだ言いつつ、イエス様は困っている人たちを助けるために、かめの中にあった水をぶどう酒に変え、杯をみんなに行き渡らせます。
しかも、新しく出てきたぶどう酒は、最初に出回っていたものより、美味しかったみたいです。何も知らない世話役は、花婿を呼んでこう言います。
「だれでも、初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」
イエス様は、足りなかったぶどう酒を満たした上に、さらに良いものを与えてくれた! そう喜びたくなるところですが、実際はどうでしょう?
この良いぶどう酒を受け取った人たちって、もう酔っ払っている人たちですよね? 酒の味も分からなくなった、ヘロヘロでふらついている酔っ払い。
あるいは、婚礼に遅れてやってきた人たち、給仕を後回しにされていた人たち。ようするに、時間を守れなかったり、身分が低かったり、宴会の隅で目立たないよう、追いやられていた人たちだった。
「こんな良いぶどう酒を、先に来た人たちじゃなくて、後から来た人に出すんですか? 行儀の良い人たちじゃなくて、遅れたり、酔っ払ったりしている人に出すんですか? あなた、どうかしてますよ?」
世話役のつぶやきは褒めているというより、皮肉を言っているように感じます。そう、イエス様が起こした奇跡は、若い夫婦が恥をかかないためだったのか、私は甚だ疑問です。
むしろ、酔っ払って隅に追いやられた者、後から遅れてやって来た者、後回しにされていた者が、イエス様からもてなしを受ける……そんな奇妙な話に聞こえるんです。
たぶん、花婿は世話役の言葉を聞いて恥ずかしくなったでしょう。「非常識だ」と言われたようなものですから。今からでも、良いぶどう酒を引っ込めて、劣ったぶどう酒に変えてしまいたいかもしれません。
教会でも、同じようなことがある……最初から礼拝に来ていた人、大人しくメッセージを聞いている人のためじゃなく、礼拝に遅れて来る人、大人しくできない人たちのために色々な配慮がなされていく。
あんなキャピキャピした人が、うちの教会に来るなんて! あんな大声を出す人が、礼拝に集まってくるなんて! 格調高い言葉を避けて、子どもにも分かる平易な言葉を使うなんて! これじゃあ、教会の質が落とされる。この教会が恥をかく。
でも、イエス様って容赦なく、私たちに恥をかかせます。私自身が、かつて遅れてやって来たのに、最上のぶどう酒を与えられた、あの小さな者だったことを思い出させます。
あなたも、そうだったんですよ……酒の味なんて分からない、酔っ払ってフラフラだった者。宴会の隅に追いやられ、後回しにされた者。そのあなたに、イエス様は杯を渡されました。
【回ってきた葡萄酒】
恥をかきたくない、大人しく縮こまっていたい、みんなの前に出たくない。自分を安心させてくれる、疲れた心を慰める、優しい言葉だけ聞いていたい。そして、極力何もしたくない。
私の本音と皆さんの本音は、どれくらい近いでしょうか?
もう一度言います。私は今日、ここに立ちたくありませんでした。みんなの前でお祈りしたくない、役員なんてやりたくない、初めて来た人のサポートなんてとても無理!……という人と、たぶんとっても似ています。
似ているからこそ、正直に言いましょう。私は謙遜しているんじゃありません。恥をかきたくないんです。弱さを見せたくないんです。批判されたくないんです。
思い煩ってばかりです。少しも神に委ねてません。それなのに、イエス様は最上のぶどう酒で私をもてなし、「わたしが自ら同行する」と言うんです。私は遅れてやって来たのに……。
困りましたね……もう、どうするべきか見えています。弟子たちはこの後、イエス様を信じてついていきました。私も、あなたも、出ていくときが来ています。
礼拝の最初に、こんな言葉が聞こえていました。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」……今度こそ、心からそれを信じて歩んでいきたいと思います。