ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『実は大丈夫じゃない』 マルコによる福音書2:13〜22

聖書研究祈祷会 2019年3月6日

 

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【大丈夫じゃない選び方】

 「スキャンダル」の語源を、皆さんはご存知でしょうか? もともとはギリシャ語のスカンダロンという言葉で、一般に「罠」とか「つまずき」とか訳される言葉です。聖書の中にも繰り返し登場します。「このように、人々はイエスにつまずいた」……と。

 

 イエス・キリスト……教会において「神の子」であり「救い主」と信じられる存在が、実は最もスキャンダラスな人だった。もしかすると、皆さんの中では、もっと違う印象かもしれません。イエス様と言えば、清く、正しく、美しく、誠実に人々を愛された方、ワイドショーやゴシップ誌で取り上げられるようなニュースとは、最もかけ離れた存在だと。

 

 ところが、2000年前のイスラエルにジャーナリストが存在したなら、間違いなく、毎週のように週刊誌に取り上げられていた人物です。先ほど読んだ箇所でも、面食らうことが書かれていました。「イエスは通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」

 

 この後イエス様は、レビの家に招かれて、レビと同じく徴税人をしていた人々、罪人と呼ばれる人たちと、一緒に食事を始めます。ようするに、当時仲間外れにされていた、嫌われ者と一緒に、同じ席で、食事をしたわけです。

 

 これだけ聞けば、学校で虐めに遭い、無視されている人と一緒に食事をする優しい生徒、あるいは、親や先生から見放された不良たちに声をかける、「親父さん」のような存在を思い浮かべるかもしれません。しかし、正直に言うと、それもまた違います。

 

 徴税人というのは、読んで字のごとく税を徴収する人のことですが、私たちの考える役所の人間ではありません。彼らは、ローマ帝国に相当の額を納めて、特定の地域から税を取り立てる権利を「買った」人たちです。同胞のイスラエル人から、支配者であるローマ帝国のために税を取る。そして、余分に取った金を自分の懐に入れる。この仕事を国から買い取った人々でした。

 

 なかなかの悪です。手段を選ばず、エリートになって、貧しい人々を困らせた人たち。無理やり命じられて、税金を徴収していたというのなら分かりますが、彼は進んで、その権利を買った人……そんな相手を、イエス様は弟子に選びました。家庭の事情でグレて、不良になっているところを拾われた、そんな「めでたし、めでたし」の話じゃありません。

 

【大丈夫じゃないレビ】

 この話はハッピーエンドに見えるけれど、実は全然そうじゃない……私たちを戸惑わせ、うろたえさせ、「やばいでしょ、それ!」と口にさせる出来事です。そりゃ、選ばれたレビにとっては、良い話だったかもしれません。嫌われ者の自分が、イエス様の弟子にしてもらえるんですから。

 

 いえいえ、よく考えてみましょう。レビだって、イエス様に選ばれて「大丈夫」だったわけがないんです。彼は自ら、徴税の権利を買い取って、この仕事をしていました。嫌々、徴税人をやっていたとは書いてありません。注解書によっては、レビのことを「徴税人が雇う下役の一人だった」と書いてありますが、私は違うと思います。

 

 彼はこの後、イエス様を自分の家に招いて食事をします。この家には、当たり前のように罪人や他の徴税人たちが集まってきます。レビは下役どころか、複数の徴税人たちを自分の家に呼び出せる、頭のような立ち位置です。そんな人間が、いきなりイエス様から「弟子になれ」と言われて、仕事を捨てていくなんて、ちょっと考えられません。だって、今までのリッチな生活ができなくなるし、下手したら借金を背負うことになります。

 

 徴税人たちは、徴収した税の過剰分は自分の収入にできました。が、定められた額が集まらなければ、不足分を自分で収めなければなりませんでした。つまり、イエス様に従うということは、収入がゼロではなく、マイナスになることを意味します。少なくとも、今月の徴収分は、自腹を切らなきゃいけません。

 

 なかなかに苦しい選択です。レビは、この先の苦しい生活を予想した上で、喜んでイエス様の弟子になったんでしょうか? そもそも何で、すぐに立ち上がってイエス様に従っていったんでしょう? 私はこの場面を想像するとき、実はレビにとって、逃げ場のない状況が出来上がっていたんじゃないかと思うんです。

 

 イエス様は、湖のほとりで大勢の群衆たちに教えを語っていました。どうも、ゆっくりと歩きながら人々に教えていた印象です。そして、通りがかりにアルファイの子レビが、収税所に座っているのを見かけて突然、「わたしに従いなさい」と命じます。

 

 座っていたレビはびっくりしたでしょう。イエス様に群がる群衆たちにとって、ローマの手先である自分は目の敵です。いつもなら、税金を取られないよう避けていこうとする人たちが、イエス様を中心に、群れを成してやって来たんです。ちょっと危機感を覚えますよね? 

 

 普段は敵である自分を、大勢のユダヤ人たちが取り囲んで、その真ん中で、イエス様が「仲間になれ」と言ってくる。これ、従わなかったらどうなるの?……という話です。いつものように、彼らから税金を徴収しようとしたら、それこそ袋叩きにされるかもしれません。レビはすぐさま立ち上がって、イエス様に従います。

 

 サラッと書いてあるレビの決断……これは、彼の信仰心や忠誠心の現れなんでしょうか? 彼自身の選択を賞賛する記事なんでしょうか? 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」……後に、イエス様が語るこの言葉を耳にするとき、私は「医者なんてかからなくて大丈夫!」と言っている人たちが、「いいから、診させなさい。さあ!」と聴診器を当てられる、あの状況を思い出すんです。

 

 レビは、自分の生き方が変わるべきだとは、最初思っていなかったでしょう。ユダヤ人に嫌われていようが、貧しい人から憎まれようが、別に大丈夫。生活はできるし、むしろリッチだ……そう言って、孤独に蝕まれていた彼のもとへ、イエス様は「大丈夫じゃない」事実を突きつけます。

 

 わたしに従いなさい、今のあなたはなかなかやばい……普段自分を避けている群衆たちが集まって、じっとこちらを見つめながら返答を待っている。しぶしぶ医者から診断を受けて、初めて自分が悪いものに侵されていると知った……そんな患者のような気分を味わいながら、レビは癒しの手を差し伸べるイエス様に、ついて行ったんだと思います。

 

【大丈夫じゃない弟子たち】

 ところで、この時もともとイエス様に従っていた弟子たちは、レビも自分たちと一緒についていくことになって、大丈夫だったんでしょうか? たぶん、大丈夫じゃなかったと思います。レビより先にイエス様の弟子になっていたのは、ガリラヤで漁師をしていた4人。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ……どちらかと言えば、彼らにとっても徴税人は好ましくない存在だったはず。はたして受け入れられたんでしょうか?

 

 昨日まで敵対していた相手です。さらに言えば、田舎で漁をする教養のない自分たちに対し、向こうはお金の計算や文字の読み書きができる教養の高い人間。ちょっと嫌らしい雰囲気ですよね? しかも、イエス様の取り巻きには、洗礼者ヨハネの弟子たちも何人かいました。荒れ野で貧しい生活をしながら、厳格に律法を守って生活していた彼らにも、徴税人を仲間に入れるというのは、印象が良くなかったでしょう。

 

 イエス様の弟子たちは、「自分はこの人に従っているから大丈夫!」と思いたいものの、なかなかそうは思えない状況を、次から次へと体験していました。レビが選ばれたことをきっかけに、彼らも考えたはずです。徴税人を弟子に? そりゃないでしょう……仲間に引き入れて大丈夫な人間じゃありませんよ! どんな理由で彼を選んだって言うんです?

 

 そして気がつきます。自分たちも、イエス様の弟子に「ふさわしい」「大丈夫」な人間ではなかったと。わりと最初の方からイエス様と一緒にいるけれど、イエス様の考えていることが分からない。病人や汚れている人に平気で触れて、罪深いとされる人に罪の赦しを宣言し、敬遠される人たちと関わっていく……この行動についていけない、大丈夫と言えない自分たち。

 

 イエス様の行う癒しには、いつも関係の回復が伴いました。ただ、病気が癒されて終わりではなく、家族のもとへ帰れなかった人が家に帰り、社会から隔てられた人たちが共同体に受け入れられる……そんな出来事の連続でした。にもかかわらず、未だ、ある人が自分たちの仲間になろうとするとき、それを拒絶し、関係を回復できない自分がいる。

 

 どうやら私も、医者が必要な、癒しが必要な人間らしい……イエス様に従いながらも、「実は大丈夫じゃない」自分自身と、弟子たちは常に向き合わされていきました。

 

【大丈夫じゃない群衆たち】

 さて、レビを弟子にするイエス様を、外から見ていた群衆たちはどうだったでしょう? 彼らもやはり、大丈夫ではなかったでしょう。イエス様が、レビの家にあがって食事をする風景も、多くの人にとって、つまずきだったに違いありません。16節には、徴税人だけでなく、「罪人」と呼ばれる人たちも、一緒に食事をしていたことが書かれています。

 

 この人々は、どういった人たちだったのでしょう? 徴税人の家は、貧しい人々の敵、正義感に溢れる人たちと対立する場所でした。お金がなくて犯罪に走ってしまうような人たち、障害を抱えて仕事につけないような、同情できる人たちが、この家に自ら入ろうとしたとは思えません。

 

 むしろ、徴税人と繋がりのある人々、ローマのお偉いさんと交流し、不正や天下り、賄賂に手をつけていた人々。今で言えば、悪い噂の絶たない経営者、悪徳企業を優遇する政治家、彼らに雇われたヤクザや暴力団といったところでしょうか? 聖職者がこの席に座っていたなら間違いなくスキャンダルです。

 

 皆さんから見ても、心穏やかには過ごせない場所……そこで食事をされるイエス様は、まさに人々をつまずかせる存在でした。当時、ユダヤ教の信仰を厳格に守ろうとしたファリサイ派の人々、その中でも特に、旧約の教えに精通していた律法学者もつまずきました。

 

 敬虔な彼らはつぶやきます。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」……本当にどうして? と言いたくなります。イエス様は貧しい人や病人、不正に苦しむ人たちの味方のはずでした。にもかかわらず、彼らの敵とも言える人たちの家で、食事をし、その一人を弟子にまでされました。意味が分かりません。

 

 イエス様の返事はこうです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」……なるほど、確かにイエス様は罪人を招きました。でも、罪人には反省して、厚生してから招いてほしいところです。だって、招いたところで、彼らはヘラヘラしているかもしれない……

 

 いえ、違いました。最初に声をかけられた罪人、アルファイの子レビは、決してヘラヘラしていられませんでした。収税所で、同胞のイスラエル人から金を取り立てていた人間が、その場で人生を変えられたんです。自分が国から買い取った仕事を捨てていくというやり方で……

 

 他の弟子たちも、決して金や地位に執着しないタイプの人ではありませんでした。むしろ、誰が一番偉いか言い争うこともありました。見返りを要求することもありました。もともと清く、正しく、心の美しい人たちではありませんでした。しかし、イエス様が声をかけると、彼らは変えられていきます。

 

 財産を共有し、貧しい人を助け、喧嘩を仲裁し、互いに愛し合うよう促す者へと……イエス様は、良い人へ声をかけるのではありません。良い人と食事をしてくれるのでもありません。イエス様が声をかけてくれるから、あなたは変わっていくのです。イエス様が共に食事をしてくれるから、良心を、勇気を、優しさを回復していくのです。

 

 イエス様は私たちに「つまずき」をもたらします。金に執着していた人が、その仕事を捨てるようなつまずきを。私が近寄るはずのなかった人と、同じテーブルに着くようなつまずきを。「大丈夫」だと思っていた自分自身が、決して「大丈夫」ではないことを気づかせてしまうつまずきを……

 

 今日から、キリストの十字架と苦しみを思い起こす受難節、レントに入ります。私たちも、「大丈夫じゃない自分自身」「罪人の一人である自分自身」を、見つめる機会が与えられます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」……共に、私自身を招く、イエス様の言葉を聞きましょう。