ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『この儀式に何の意味が?』 ヘブライ人への手紙9:15〜28

聖書研究祈祷会 2019年4月3日

 

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【ありえない契約】

 「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」……なかなかおどろおどろしい表現です。赦されたいなら血を流す努力をしなさい。それ相応の代償を差し出しなさい。

 

 この部分だけを切り取って聞けば、そう言われていると聞こえてもおかしくありません。もちろん、これをそのまま捉えようとするのは間違っていますし、危険でしょう。

 

 罪の赦しを求める人に、神の裁きを恐れる人に、「何かを犠牲にしなければ、あなたは赦されることがない」という脅しのような教えを語る……そんなこと、聖書全体が求めているわけじゃないからです。

 

 むしろ、厳密に考えると、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」という記述は正確じゃありません。

 

 聖書には、人間と神双方について、赦しに関する多くの出来事が書かれています。その中には、「死」や「犠牲」なしに、神様が人を赦す例も出てきます。

 

 手紙の著者がここで言おうとしているのは、「罪を赦されるためには犠牲を払うべきだ」という話ではなく、「あなたの罪を赦すために、最も高い代償を払った方がいる」という話なんです。

 

 それが、全ての人の罪を背負って十字架にかかってくださった神の御子、イエス・キリストです。古い契約に代わって、新しい契約をもたらした神と人との仲介者……ここではそのように表現されます。

 

 「契約って何のこっちゃ?」と思うかもしれませんが、聖書の中では人間の救いに、この神と人との契約が大きく関わってきます。

 

 人々が神の民とされ、守ってもらえる応答として律法の遵守を求められる。それがモーセの時代に、神と民との間で交わされた古い契約です。

 

 「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」……人々はこれらの掟を守り、神様は人々のことを守る。

 

 それが神と人との双方で、守るべき条項が設けられた最初の契約でした。ただし、本来この契約は、まず結べるはずがなかったものでした。

 

 なぜなら、神様がこの掟を与えようとしたのは、人々が金の子牛の像を作って、自分以外のものを神として礼拝したのが発覚したとき!

 

 エジプトで奴隷状態だったイスラエルの民を、助けてあげた直後だったのに……神様は、人々と契約を結ぼうとしたまさにそのとき、裏切られてしまったんです。

 

 普通、自分の信頼が裏切られた後に、その相手とすぐに契約をしようとする馬鹿はいません。だって、また裏切るのが、約束を破るのが目に見えていますから。

 

 しかし、神様は「もうお前たちなんか知らない」「助けてやることは二度とない」なんて言い出さず、「今度こそ、私とあなたとの関係を大事にするか?」と人々に問いかけ、愚かにも契約を結ぶんです。

 

【怪しい儀式】

 ヘブライ人への手紙の著者は、この古い契約が結ばれたときから、神様が大きな代償を払って、人々を救おうとしてきたことを訴えます。「契約」という語は、同時に「遺言」という意味も持っています。

 

 人が自分の死を覚悟したとき、誰かのために残す言葉……神様は最初から、自分を裏切り、大事にしてくれない人々のために、死ぬような痛みを心に負いながら、それでも約束を守るよう期待して契約を結んでくれたんです。

 

 そのことを表すために、ヘブライ人への手紙は、何だかよく分からない謎の儀式に言及します。

 

 「モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体に振りかけ、『これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である』と言った」「また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけた」

 

 礼拝する人々に血を振りかける。儀式に使うあらゆる器具に血をかける……まるで呪いの儀式やカルト宗教を思わせる、相当怪しい儀式です。

 

 何も知らずに読んだら、「キリスト教ってやっぱりやべぇ」と思われてしまう危険な箇所! そもそも、「血で何かを清める」という表現自体、私たちの背中をゾワゾワさせます。

 

 ヘブライ人への手紙は、起源60年から95年頃、キリスト者の迫害が激しかった頃に書かれました。読者の中には、人々から公然と虐げられ、財産を取り上げられるといった、深刻な危機に直面する人もいました。

 

 そんな中、こんな怪しい儀式について書かれた手紙……ちょっと心配になってきます。これを見て余計に怪しく感じる人、「邪教だ」「カルトだ」と思う人が、絶対出てきたはずだからです。

 

 そもそも、モーセの時代に神様と人とが契約を結んだとき、本当にこんな儀式が行われていたんでしょうか? 

 

 注意深く見てみると、出エジプト記24章3節以下では、モーセが神様から受け取った律法を読み上げたとき、イスラエルの民は雄牛を犠牲として献げたとあり、雄山羊のことは書かれていません。水や緋色の羊毛やヒソプも、契約締結の場面には出てこないんです。

 

 これらが出てくるのは、人々が年に一度、共同体全体の罪を赦してもらうため、神様に犠牲をささげる日「贖罪日」の記述です。古い契約の話とは本来何の関係もないんです。

 

 しかも、モーセが契約のとき血を振りかけたのは、「契約の書自体と民全体」にではなく、「人々と祭壇」に向かってでした。

 

 21節にも、「彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけ……」と出てきますが、この契約が定められたとき、「幕屋」はまだ存在していませんでした。

 

 後にそれができてからも、幕屋とその中にある全ての物に注ぐよう命じられたのは、「血」ではなく「油」だったんです。

 

 そう、お気づきのとおり、手紙に出てくるこれらの儀式は捏造されているんです。捏造はここだけじゃありません。

 

 17節に、「遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません」と出てきますが、ラビの律法によれば、実は生きている間に遺産を分け、自分の子どもに相続させることは可能でした。

 

 ルカによる福音書15章11節以下では、実際にイエス様が「放蕩息子」のたとえで、父親が生きているうちに息子2人へ財産を分けた話が出てきます。

 

 どうも、この手紙はだいぶ無理やり、遺言や契約の儀式を持ち出して、イエス様の死とつなげているようです。

 

 実際には、あらゆるものに血をかけるような、おどろおどろしい儀式はありませんでした。手紙を読んだ人たちも、そのことは知っていたはずです。「いやいや、こんな怪しい儀式、昔も今もしてないよ……」と。

 

【あの世の儀式】

 にもかかわらず、ヘブライ人への手紙は今に至るまで正典として読まれるほど、キリスト教の中で大事にされてきました。事実でもない、捏造された、怪しい儀式……いったい、この儀式に何の意味があるんでしょう?

 

 どうやら手紙の著者は、事実を書こうとしたのではなく、何か別の意図を持って、契約締結の儀式を描いたようです。

 

 その意図は、モーセが契約の書と民全体に血を振りかけたとき言ったとされる「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」という言葉に凝縮されています。教会に通っている人なら、何度も聞いた覚えのある言葉です。

 

 そう、キリストの十字架と復活を思い起こす聖餐式で、繰り返し読まれてきた言葉。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこれを行いなさい」という、イエス様が最後の晩餐で弟子たちに語った言葉です。

 

 実際には、本当にイエス様の血が飲まれたわけではなく、代わりにぶどう酒が配られました。現在教会で行われる聖餐式も、人間の血が飲まれるわけではなく、ぶどう酒やぶどうジュースが渡されます。

 

 これらは、私たち一人一人の罪が赦されるように、神の子であるキリストが、自ら十字架にかかって血を流してくれたことを思い出す儀式です。

 

 ヘブライ人への手紙は、この聖餐式と神と人との契約を結びつけます。人間が約束を破るゆえに不完全だった古い契約を、イエス様が新しく、完全な契約に置き換えてくださったと語るんです。

 

 それは、イエス様が私のために血を流してくださったと信じる人に、永遠の命を与えられるという約束です。

 

 イエス様を信じる人は、罪を赦してもらうため何かを犠牲にするのではなく、既に自分のためにイエス様が犠牲を払ったことに感謝して、新しい命を生きるんです。

 

 犯した罪があまりに重く、他にも犠牲を献げなければならないとか、さらに代償を払わなければならないとか、そういう話じゃないんです。

 

 イエス様はただ一度、自分自身の命を献げて、私たち全ての罪を赦されました。かつて、イスラエルの祭司は、共同体の罪を償うため、毎年犠牲を献げることが求められましたが、イエス様は違います。

 

 何度も繰り返し献げなければならない不完全な犠牲ではなく、一度限りの完全な犠牲を献げたからです。

 

 ヘブライ人への手紙は、この「ただ一度」ということを強調します。イエス様はただ一度、この世で自分の命を献げられた。この犠牲に勝る献げ物はなく、この犠牲に購えない罪はない。そして二度目に、イエス様がもう一度この世にやって来るときが訪れる!

 

 陰気な説教者であれば、二度目にやって来るのは、罪人を蹴散らし、断固とした処置で懲罰を下すイエス様だと言うでしょう。恐ろしい裁きのイメージです。

 

 しかし、それとは対照的に、この手紙の説教者は、イエス様の再来が良き音信であることを語っています。「二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れる」

 

 イエス様が血を流し、十字架にかかった出来事は、私たちを脅すためにあるのではありません。

 

 イエス様は多くの人の罪を負い、その裁きを自ら引き受けました。神様が自分を裏切った人たちのために、なお契約を結んだように、イエス様は私たちを滅ぼすためではなく、救うために戻ってきます。

 

 罪人を痛めつけるためではなく、罪を赦された私たちを、兄弟姉妹として自分の家へ、神の国へ連れて行くために戻ってくるんです。

 

 宗教改革者マルティン・ルターは、信仰者の善き行いについてこんなことを語りました。かつて人々は、自分の罪が赦されるように、自分が救われるために隣人へ手を差し伸べていた。

 

 しかし、行いによってではなくキリストを信じるゆえに義人とされ、救いを約束された私たちは、もはや自分の救いのために隣人を助ける必要はなくなった。純粋に、隣人のために手を差し伸べられるのだ。

 

 キリストがもたらした新しい契約は、新しい命を私たちに与えます。今までできなかった、新しい生き方を私たちにもたらします。私たちは誰かに裁かれることを恐れて、何かを犠牲にして生きるのではありません。

 

 既に、自分のために犠牲となって、永遠の命を与えてくださったイエス様を思い、未だ死を恐れている人のために行動するんです。

 

 古い生き方を捨てて、新しい生き方をしているか? 恐れと不安からではなく、感謝と喜びから行動しているか? 

 

 本当に、私は神様の赦しと救いに信頼して、今この時を歩んでいるか? 未だ滅びと死を恐れて歩んでないか? 受難節第4週目に入った今、もう一度、自分自身を見つめていきたいと思います。