ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『イエス様亡霊説』 イザヤ書51:1〜6、ルカによる福音書24:36〜43

2019年5月5日

 

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【復活したけど霊っぽい】

 本当にあった怖い話って、皆さんも読んだり聞いたりすることがあるでしょうか? 子どもの頃、みんなで肝試しに行った帰り、確かに5人で来たはずなのに、1人だけいなくなってしまった。

 

 それなのに、その1人が誰なのかどうしても思い出すことができない。一緒に行った全員が、その子の顔も名前も思い出せない……いったいあの子は誰だったのか?

 

 よく聞くタイプの話です。他にも、こういう話を耳にすることがあるでしょう。ある人が友人とお茶をしていると、突然電話が掛かってきて、その友人が数時間前に亡くなったと教えられる。

 

 「いやいや、そんなはずはない。今一緒に話しているよ」と言って電話を代わろうとすると、いつの間にか自分の前から姿を消していた。さっきまで話していたのは幽霊だったんだろうか?

 

 あるいは、こっちの方が頻繁に聞く話でしょうか? ある日ふと、夜中に窓を眺めていたら、目の前を知らない人が横切っていった。けれど、よく考えてみたらそこは2階で、ベランダなんてないし、人が通れるはずはない。

 

 慌てて窓から外を覗くと、やっぱりそこには誰もいない。いったい自分は、何を見てしまったんだろうか?

 

 別に今日は、これから延々と怖い話を続けていくわけじゃありません。先生、いきなりオカルトですか? と思った人もいるかもしれませんが、私たちはよく似た話を教会の中でも聞いてきました。

 

 何のことかと言えば、十字架につけられて死んだ後、復活したイエス様の話。

 

 死んだはずの人間が、親しかった人たちの前に現れる。聖書はこの話をイエス様の復活として記していますが、それにしてはけっこう曖昧な現れ方です。はっきりと生き返ったことが分かるわけでもなく、むしろ幽霊だと思われてしまう現れ方。

 

 たとえば、お墓にあるはずの遺体がなくなっていた出来事……これって普通に聞けば「復活」という二文字より、「ゾンビ」や「化けて出た」といった表現の方が、しっくりくると思います。

 

 また、先週の礼拝で読んだところ、エマオの途上で2人の弟子に現れたイエス様の話。一緒にいる2人は、自分たちと話しているのが死んだはずのイエス様だと気づきません。そして、ようやく気づいたときには、もう見えなくなっている。

 

 まるで、さっき話した怪談のよう。一緒にいたのが誰か分からない、気がつくと姿を消している。

 

 この出来事も、普通なら復活した人間ではなく、亡くなった人の幽霊に出会ったと思う話でしょう。今日のタイトル『イエス様亡霊説』は、別にふざけて考えたわけじゃないんです。

 

 わりと大真面目に、イエス様の復活を、弟子たちが亡霊に遭遇した出来事として捉えてもおかしくない。事実、彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました。復活したイエス様が弟子たちみんなの前に現れたとき。

 

【手足を見せて触らせる】

 空の墓の前で天使たちに「あの方は復活なさった」と告げられ、シモン・ペトロに死んだはずのイエス様が現れ、2人の弟子がエマオの途上で復活したイエス様と出会う。そしてついに、弟子たちみんなの前にもイエス様は姿を現します。

 

 もうこれで3回目の「復活」を示す出来事。既に何人もの人が言っていました。「イエスは生きておられる!」「本当に主は復活した!」けれども、ここに来てなお、彼らは思います。「イエス様の亡霊が現れた!」「死んだ人が化けて出た!」と。

 

 今更そう思うのは不自然でしょうか?

 

 いえいえ、彼らは家の中にいたんです。ドアを閉めきった家の中に……他の福音書ではご丁寧に、戸には鍵をかけている状態で、イエス様が突然部屋の真ん中に現れたことが書かれています。普通にドアを開けて入ってきた方が、まだ安心できたでしょう。

 

 気がつくとイエス様は、閉めきった部屋の真ん中にヌッと現れて立っています。そりゃ幽霊だと思いますよ。生きている人間の現れ方じゃありません。敵に殺されたヒーローが帰ってくるときだって、もっとまともな現れ方をします。

 

 どうだ、私は生き返ったぞ。みんなのもとに帰ってきたぞ。そう言ってドアをぶち破って入ってきた方が、ずっと受け入れやすいです。

 

 そう言えば、イエス様は度々弟子たちを怖がらせる方でした。十字架につけられる前も、突風が吹き荒れる中、湖の上を歩いてきたことがありました。あの時も弟子たちは「幽霊だ」と言って怯え、叫び声をあげました。

 

 なるほど、ある意味、イエス様らしい現れ方なのかもしれません。

 

 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」あのときそう言ったように、今回も弟子たちに告げられます。

 

 「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」

 

 肉や骨があるなら、どうやって壁を突き抜けて部屋に現れたのかは置いといて、イエス様は弟子たちを安心させようとします。亡霊じゃない、死者じゃない、私は確かに生きている。その目で見て、その手で触れて、確かめなさい。

 

 こう言って、手と足を見せるイエス様。弟子たちは恐る恐る近づきます。言われたとおり、触れてみた人もいたでしょう。

 

 でもこれって、ふと考えると、かなり生々しい話ですよね。昨日まで死体だった人の体に手を触れる。死体に触れると自分も汚れると言われていたイスラエル社会では、ためらいなくできる行為ではなかったでしょう。

 

 しかも、イエス様が弟子たちに見せたのは手と足です。十字架の上で釘付けられ、穴の痕が残っている痛々しい手足……それを見せ、それに触れろとおっしゃられる。

 

 しかも、その傷は自分たちがイエス様を見捨てたゆえに、助けなかったゆえにつけられた傷です。「ごめんなさい」「もう許してください」と言いたくなります。

 

 殺された人が、自分を見捨てた仲間のもとへやって来る。そして、「これがあの時つけられた傷だ」と自分の手足を見せてくる。怪談や怖い話なら「お前だ!」「お前がやったんだ!」と絶叫されて終わりです。

 

 そう、死んだはずの人から手足を見せられるというのは、さらなる恐怖がやってくる前触れです。本来なら……けれども、弟子たちはイエス様の手足を見て、触れて、喜びを感じ始めます。

 

 なぜなら、イエス様は自分の手足を見せる前から、彼らにこう言っていたからです。

 

 「あなたがたに平和があるように」……復活して、自分を見捨てた人たちのもとへやって来て、第一声がこれでした。

 

 なぜ私を見捨てたのか? どうして逃げてしまったのか? 普通なら恨み言が出てくるはずなのに、イエス様はみんなの真ん中に立ってそう言われます。

 

 謝ることも、赦しを乞うこともできなくなったはずの人、自分が見捨てて死んでしまったその人が、目の前で言ったんです。

 

 「あなたに平和があるように」と。それは、不可能なはずの和解が宣言された瞬間でした。この方は、赦されることを諦めていた私のもとへ、自らやって来てくださった。

 

【目の前で魚を食べる】

 けれども、彼らは喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていました。無理もありません。死ぬ前に謝れなかった相手が幽霊になって、「あなたのことは赦しているよ」と言ってくれるなら分かりますが、イエス様は復活して、肉体を持って現れたんです。

 

 それなのに、壁を通り抜けてきたかのように、閉めきった部屋へ突然現れる。本当に主は復活したのか? 幽霊じゃないのか? 半信半疑の弟子たちに、イエス様はこう言います。

 

 「ここに何か食べ物があるか?」……彼らのうち、3分の1は元漁師です。家の中には焼いた魚がありました。弟子たちは急いでそれを持って来て差し出します。イエス様はそれを取って、彼らの前で食べました。

 

 何だかシュールな光景です。みんなの前で、一人の男が、一切れの焼き魚を食べる。それを全員がじっと見守っている。

 

 人によっては笑いが込み上げてくるでしょう。何だ、この光景は? けれども実はこのシーン、ルカによる福音書10章で、イエス様が宣教のために弟子たちを派遣するとき語った言葉と重なってくるんです。

 

 「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす」「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」

 

 「その家に泊まって、そこで出される食べ物を食べ、また飲みなさい」「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」

 

 エマオの途上でイエス様と出会った2人は、自分たちのためにパンを裂かれる姿を見て、イエス様だと気がつきました。かつて、十字架につけられる前、最後の食事で同じようにパンを裂き、分けてくださったことを思い出したからです。

 

 ここでも、弟子たちは思い出します。かつて、自分たちを送り出すとき、イエス様が語った言葉。その言葉どおりに、イエス様は自分たちのもとへ派遣され、平和を願い、食事をされた。

 

 神の国は近づいた……私を見捨てたあなたにも、家に閉じこもっていたあなたにも、私を信じられなかったあなたにも、神の国は近づいた。こうして、私が近づいて来たように。

 

 イエス様は、半信半疑の弟子たちに食事を持って来させ、自らもてなしを受けました。彼らに平和がとどまるように。戸惑い、恐れ、どうしたらいいか分からない弟子たちに、自分を迎え入れるよう導きました。喜びが確かになるように。

 

【復活したイエス様との食事】

 今日はこの後、聖餐式が行われます。聖餐式は、十字架につけられる前、イエス様が弟子たちと最後にした食事であり、復活後に、弟子たちの目を開いた食事でもあります。

 

 この食事は、信じなかった者が信じる者へ、恐れていた者が喜ぶ者へと変えられる食事です。

 

 どうしたらいいか分からない私たちに、イエス様を迎え入れさせ、赦されることを諦めている者に、平和を宣言させる食事。

 

 この食事の最中、パンとぶどう液をまだ受け取れない方もいらっしゃいます。信仰を告白していない、洗礼を受けていない方。しかし、その方のもとにも、イエス様は近づいてきます。

 

 エマオの途上でイエス様からパンを受け取った2人は、最後の晩餐でパンを受け取った12使徒ではありませんでした。

 

 彼らはイエス様が死ぬ前に、直接パンを分けてもらうことはできませんでした。しかし、エマオの途上で、知らず知らずのうちに復活したイエス様と出会い、食事へ招かれた2人は、あの時受けられなかったパンを受け取りました。

 

 今、パンと杯を受け取れない方は、復活の主とエマオの途上を歩いている人たちです。今日、私たちがパンを食べ、杯を飲む者と共に過ごすとき、ここにイエス様がおられます。

 

 恐れと恐怖に支配された者。裏切り、見捨て、逃げてしまった者たち。主はあなたのためにパンを裂き、あなたのために、この部屋の真ん中に現れました。

 

 どうぞ思い出してください。この方が、あなたのもとに遣わされ、あなたに平和を宣言し、あなた自身も平和のために、この世へと遣わされることを。

 

 ありえない回復、ありえない和解がもたらされ、神の国の訪れが知らされることを。行きなさい、あなたがたはこれらのことの証人となる。