ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『信じる人をはりつけにする?』 ルカによる福音書14:25〜27、ガラテヤ6:14〜18

礼拝メッセージ 2019年9月22日

 

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【カルト教祖みたい】

 イエス様が自分に従おうとする者へ語った言葉。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」

 

 これって、かなり狂気じみた発言ではないでしょうか? 持ち物を捨て、血縁を断ち、親しい者を敵にしてでも私の言うことに聞き従いなさい……まるでどこかのカルト教祖みたいです。

 

 実際、ある破壊的カルトは、入会したメンバーを脱会させようとする家族のことを「サタン」と言って憎むよう教育し、親子の仲を引き剥がします。

 

 組織のためなら、リーダーのためなら、周りとの関係や自分自身の命を削ろうとかまわない! そういう態度になっていくよう、次第に人格を変えられる。

 

 財産をささげ、奉仕に励み、厳しいノルマも厭わない従順な弟子に変えられる。たとえ睡眠を削ろうと、体を壊そうと、自ら進んで苦労すること、辛い思いをすることが、弟子として当然だと思わされる。

 

 そんなマインド・コントロール、イエス様がしていたとは思いたくありません。でも、「お前たちは苦労しなきゃならないんだ」「きつい思いをするのが当然なんだ」……とでも言うように、その後の言葉が続きます。

 

 「自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」

 

 旧約聖書に、アブラハムという人物が、自分の息子を献げるように、神様から命じられた話が出てきます*1。老齢になってからようやく生まれた妻との子ども、その子を焼き尽くす献げ物として献げなさいと命じられる。

 

 「神様なんてこと言うんですか?」「自分の子どもを殺せと言うんですか?」……普通、多くの人がそう非難するでしょう。

 

 でも、アブラハムは神様の言葉に従って、息子イサクを縛り付け、一言も抵抗しないままその子を刺し貫こうとします。

 

 一応この話は、アブラハムが息子を殺す直前に、天の使いから止められて、彼の信仰は認められ、「めでたし、めでたし」で終わります。

 

 でも、私たちには疑問が残ります。神様に従うって、自分の家族に手をかけることさえ厭わないことなのか?

 

 正直、まだキリスト教を信じていない人たちに、特に自分の家族や友人に、この話はあまりしたくありません。だって、こんなとんでもないこと命じる神様信じてる……なんて言ったら、まともな人は止めるでしょう。

 

 いやいや、そんな教えの宗教間違っている。冷静に考え直せば分かるでしょ? それとも、あなたはもうマインド・コントロールされていて、分からなくなってるの?

 

 いや、違うんだ。そうじゃないんだ……色々弁解したくなりますが、私でもなかなか答えられません。

 

 ちょっと危ない、怪しい宗教にハマったかわいそうな人……家族や友人からそんな目で見られるようになる。ある意味、「はりつけにされている」気分を味わったことのある人が、この中にもいるかもしれません。

 

【洗脳されたみたい】

 実際、ルカによる福音書の後に読まれたパウロの言葉、ガラテヤの信徒への手紙には、マインド・コントロールを受けた信者と思われても、仕方のないような言葉が続いていました。

 

 「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」

 

 十字架って、イエス様がいた時代、最も残酷と言われた処刑方法です。周りから罪人として侮辱され、痛めつけられる、耐え難い苦しみの象徴です。それを自分の「誇り」とするなんて、どういう神経してるんでしょう?

 

 「私は苦しむことを誇りにしています!」「世に対してはりつけにされること、晒し者になることを厭いません!」「たとえ、自分を犠牲にするとしても……」

 

 こんな人周りにいたら、皆さんでも「大丈夫?」って思いますよね。誰かに利用されてないか、不健全な支配を受けてないか、確認したくなりますよね。

 

 それは自然で正しい反応です。自ら苦しみに向かう道、不幸になる道を進んでいく……そんな隣人がいたら止めなきゃなりません。その先には破滅が待っているからです。

 

 でも、教会に来ている人は、逆に周りからこう思われるわけです。「あなたも全てを捨ててキリストに従うと言うの?」「二千年前に処刑された人を信じるなんて、その人にならって生きていくなんて、痛い目に遭うだけじゃない?」

 

 さあ、皆さん反論できますか? 上手く言葉が出てきますか? 私はすぐに出てきません。だって、私も悩み続けています。

 

 神様の言葉、イエス様の教えを守ろうとすれば、色んな壁とぶち当たります。偽善者と言われることも、頭が固いと言われることも、空気が読めないと言われることも出てきます。

 

 「素直に周りに従いなさい」「目立つ行動は避けなさい」「あなた一人の信念で、周りに迷惑かけないで……」

 

 学校でも家庭でも職場でも、聖書の教えを実行しようとすれば、かえって誰かを傷つける、周りに迷惑をかけてしまう……そんな状況が出てきます。

 

 日曜日の礼拝を守るには、部活やバイトを休まなきゃならない。友達から初詣に誘われたけど、自分だけ手を合わせない。会社の不正を正したいけど、他のみんなに「余計なことするな」と怒られる。

 

 イエス様と弟子たちも、仕事をしてはならない安息日に、病人を癒して怒られました*2

 

 「医者でもこの日は仕事しないんだから、平日になるまでなぜ待たない!?」「どうしてわざわざ罪人や汚れた者と食事をする!?*3」「お前は世の中の秩序を乱す異端者だ!」

 

 当時の常識に照らしてみれば、イエス様とそれに従う弟子たちの行動は、理解し難いものでした。怪しい集団のそれでした。

 

 昨日まで大人しく会社に勤めていた人が、ある日突然、社内の常識に抵抗します。「残業代を払ってください」「労働時間を守ってください」「女性にお茶汲みを強要しないで」

 

 ……何言ってんだ? 面倒臭い労働組合ができたのか? あちこちから白い目で見られることになるでしょう。

 

 おや?……最初に考えていた「苦しみを厭わない」ことと、ちょっと様子が変わってきました。

 

 イエス様やパウロが言った「自分の十字架を背負いなさい」「キリストの十字架を誇りなさい」という言葉……それぞれ、いったいどういう苦しみを負うことなのか、私たちは慎重に考えるべきかもしれません。

 

 よく見てみれば、それは決して、組織のために、教祖のために、どこまでも自分や家族を犠牲にせよ……という話にはならないんです。

 

【家族を憎ませた?】

 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」

 

 最初に出てきた「家族を憎め」という言葉。これを命じたイエス様って、弟子たちに、自分の家族を憎ませたり、縁を切らせたりしたんでしょうか?

 

 確かに、イエス様に従った弟子たちの多くは、「わたしに従いなさい」という呼びかけにすぐ応え、父親も母親も仕事も捨てて、その場でイエス様に従いました。

 

 置いていかれた家族たちは、どんな気持ちだったんでしょう……でも、続きを読んでいくと、弟子たちの家族は、その後も彼らとの関係を保っているんです。

 

 ペトロには妻がいました。ある日、2人の家へ、イエス様が食事にやって来ました。そのとき、彼の妻の母親は、高熱を出して寝込んでいました*4。当時、高熱が出ると言ったら、いつ死んでもおかしくない状況です。

 

 でも、ペトロは自分からイエス様に「今は家族が大変なので来ないでください」とは言いません。「私の姑を癒してください」とも言いません。

 

 彼からしてみれば、「弟子になる」ということは、家族を放っておいても、イエス様をもてなすことだったのかもしれません。

 

 けれども、イエス様は他の人たちから、「どうか彼女を癒してやってください」とお願いされ、すぐに手を置いて癒します。

 

 高熱の人に手を触れる、それも食事に来ているとき……医療が発達してない当時、汚れが移るとされていた時代、この行動は畏れ多いものでした。

 

 ペトロはギョッとしたに違いありません。でも、イエス様の願いは、ペトロが家族を犠牲にしたまま、自分をもてなすことではありませんでした。

 

 ペトロと同様に、「わたしに従いなさい」と言われて、すぐ従ったヤコブとヨハネ。この兄弟も、父親と一緒に漁をしている時だったにもかかわらず、家族も仕事も放り出して、直ちにイエス様に従いました*5

 

 父親に対して、なかなかひどい扱いですよね……きっと、両親からひんしゅくを買ったことでしょう。

 

 2人にとっては、「イエス様の弟子になる」ということは、家族と縁を切ることも厭わない行動だったのかもしれません。

 

 ところがこの後、イエス様のもとに「捨てた」はずの2人の母親が姿を現します。それも、息子を連れ戻そうとするためでなく、「一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に置いてください」とお願いするために……*6

 

 いつの間にか、ヤコブとヨハネが「捨てて」きた家族との間に、信頼関係ができています。ここに至るまで、イエス様と彼女との間に何があったんでしょう? 様々なやりとりが想像されます。

 

 ヤコブとヨハネは、何もかも捨てて従いましたが、イエス様はその後、家族との関係を切らせたり、壊したりすることはなさいませんでした。むしろ、回復に努めました。

 

 たぶん縁を切ることより、イエス様の弟子でいることを認めてもらうことの方が、ずっと大変だったと思います。が、イエス様は、その弟子たちの家族とかかわることを、決して避けはしなかったんです。

 

 きっと、その過程で、弟子たちが家族と対立することも、怒鳴り散らされることも、友達と言い合いになることもあったでしょう。

 

 理解してもらえない間、しんどい時期があったでしょう。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹に対して、何で分かってくれないんだと、憎まずにはいられないこともあったでしょう。

 

 でも、イエス様は、その後回復をもたらします。黒か白かで生きようとする弟子たちに、新しい道を与えます。

 

 なかなか理解してもらえない家族との関係を、神様が必ず回復させてくださると、信じて語り続ける道……「自分の十字架を背負う」って、この道を歩む苦しみのことではないでしょうか?

 

【はりつけにさせた?】

 「キリストの十字架だけを誇りなさい」というパウロの言葉も同様です。パウロはこの後、当時激しい議論のあった掟の話をしています。

 

 「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」……割礼というのは、男性の生殖器の包皮を切り取る儀式です。これを受けなければ、イスラエルでは「神様を本当に信じている」とは認められませんでした。

 

 ユダヤ人であれば、神に選ばれた民として、割礼は生まれて間もない赤ん坊の頃、男性の誰もが受けています。

 

 しかし、外国人が成人になってから神様を信じ、イエス様を信じるようになった場合、当然、彼らは割礼を受けてません。

 

 そこで、「彼らも信じている証として、みんな割礼を受けるべきだ」と言う人たちが教会の中にもいたんです。

 

 ちょっと想像すれば分かるように、成人男性が割礼を受ける苦しみって、想像を絶する痛みです。実際、旧約聖書の中には、成人してから割礼を受けた男性たちが、数日の間、痛みでまともに動けなかったことが書かれています。

 

 このような苦しみを受けること、痛みを厭わないことこそが、神様を信じ、イエス様に従っている証である……多くの人がそう考えていたんでしょう。

 

 現在でも、神様を信じる証として、自分の趣味や持ち物を捨てさせる教会が残っています。信じた証に痛みを負えと……

 

 でも、パウロはユダヤ人の「常識」であったそれらの考えを覆して言うんです。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」

 

 新しく創造される……それは、組織に、リーダーに従っているしるしとして、分かりやすい苦しみを受けることではありません。ある意味、もっと困難なこと。

 

 この世に対し、イエス様から教えられた愛の掟を実践していく、神様の正義を実現していく、その道の先にある苦しみや困難を誇りつつ、歩み続けていくことです。

 

 「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」

 

 十字架にかかったイエス様を見て「本当に、この人は神の子だった」と口にした百人隊長のように、信仰者が愛と正義を実践するため、苦しみを厭わない姿を見て、「本当に、神様はこの人に働いている……」と示される人たちがいるんです。

 

 私たちは世に対して、はりつけにされる人間です。そんな私たちを見る世の中も、私たちを通して、新たな変化を促されるものとして、はりつけにされる世界です。

 

 その先には、思っても見なかった変化と回復が、神の国の到来が待っています。神様の言葉、イエス様の言葉を注意深く見つめながら、この道を共に歩んでいきましょう。

*1:創世記22:1〜19参照。

*2:ルカ14:1〜19参照。

*3:マルコ2:13〜17参照。

*4:ルカ4:38〜41参照。

*5:マタイ4:18〜22参照。

*6:マタイ20:20〜28参照。