聖書研究祈祷会 2019年7月17日
【特別な力を求める】
皆さんは、他人と違う不思議な力を持ってみたいと思ったことはあるでしょうか? 今まで感じたことのないパワー、霊性が満ちていく不思議な感覚、スピリチュアルな体験や経験……誰もが一度は、憧れたことがあるんじゃないかと思います。
私だって洗礼を受ける前は、「もしかしたら頭に水を垂らされた瞬間、身体中を駆け巡るすごいエネルギーを感じるんじゃないか?」「自分には特別なことが起こるんじゃないか?」そう期待したこともあります。
牧師が頭に手を置いたら、聖霊が自分に降って力が湧き、悩みや不安が吹っ飛んで、今までできなかったこともできるようになる……そんな劇的な瞬間を思い浮かべたこともありました。
まあ実際のところ、洗礼を受けたときに身体が熱くなったとか、涙が止まらないほど喜びに溢れる経験をしたとか、私の場合はなかったんですが……
もしかするとそれは、「あなたは水によるバプテスマを受けたけれど、聖霊によるバプテスマは受けなかったのね」と言われてしまう話かもしれません。
もちろん、私と違って洗礼を受けたとき、頭に手を置かれたとき、今までにない喜びに満たされ、心が、体が、暖かくなった経験を持つ人もいるでしょう。中には、以前の自分なら考えられないような、変化や成長を経験した人もいるでしょう。
ある人は劇的に新しくなり、ある人はそんなに変わらない。「力を受けた者」と「受けていない者」がいる……そんなふうに見えてしまうことも度々あります。
教会に訪れる人の多くは、前者のような変化を求めて、心のどこかで期待して、今も過ごしているんじゃないでしょうか?
洗礼を受け、神学を学び、牧師になるための按手を受けるとき、私もやっぱり期待していました。今度こそ、自分に大いなる力が注がれて、あの人もこの人も信仰へ導けるような、特別な働きができるだろうか?
色んな人が、自分の話を聞いて、「聖霊を感じられました」「神様を信じます」と言い始める。自分が行った教会で、たくさんの人が洗礼を受け、特別な体験をするようになる。
そんな活躍ができる力……非常に「俗っぽい」考えですが、私だって、そういう力を求めていたんです。
皆さんも、自分の話を聞いて、自分の生き方を見て、誰かが憧れを感じ、「何か特別なものを感じる」「私も同じになれるなら、あなたのように洗礼を受けたい!」そう言われたらって……ちょっと考えてしまいません? 私だけですかね?
【魔術師シモン】
聖書の中にも、私が期待したのと同じように、特別な「力」を求めた人がいます。彼の名は魔術師シモン、宣教者フィリポがキリストを宣べ伝える以前、サマリアの町で魔術を使って、人々を驚かせていた人物です。
彼は自分こそ「偉大な者」と称して、民衆の注目を集めていました*1。おそらく、その活動には、民間療法による病の癒しや、精神の回復も含まれていたでしょう。
フィリポが来る前は、心や体を病んだ人、解決困難な悩みを抱えた人を癒し、励まし、支える働きをしていました。彼はその「職業」ゆえに、私たちで言う「医者」や「カウンセラー」と幾分似ている名声を得ていたことでしょう*2。
もちろん、魔術師という肩書きは、キリスト教において、明らかにアウトな響きです。魔術とは、ある種の技術や秘密の呪文を用いて、神の力を統制する、利用する試みと言えるため*3、旧約においても、忌むべき行為とされていたからです。
他の箇所でも、魔術師と呼ばれる者が、預言者や宣教者と対立した話が、繰り返し、繰り返し出てきます。
ところが驚くべきことに、魔術師シモンは、サマリアの人々がフィリポに従ってキリストを信じていったとき、彼自身も信じてバプテスマを受けたとあります*4。
彼にとって、自分以外の者が「偉大な力」を行使して、人々を癒し教えることは、営業妨害に当たるはず。それなのに彼は、キリスト教を攻撃しようとするのではなく、吸収しようとするんです。
どうもシモンは、フィリポをはじめとするイエス様の弟子たちが、自分よりも偉大で、効果的な「癒し」を行なっていることに魅了されていたようです*5。
洗礼を受ければ、自分にも彼らのような力が与えられ、よりたくさんの人を、より効果的に癒すことができる。そう考えたのかもしれません。
それが人を助けるためなのか、彼自身の利益のためなのか、ここには書かれてありません。私は案外、どっちもあったんじゃないかと思います。みんなの役に立つなら嬉しいし、尊敬されるし、より自分の言うことを聞いてくれるようになる。
かつて、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教……麻原彰晃に帰依すれば、超能力を身につけられる、もっと人の役に立てる。
そう信じた人たちが、お金を積んで、あるいは全財産をささげて出家したのは、魔術師シモンと同じような期待があったからじゃないかと思うんです。
「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」……そう言って、使徒たちの前にお金を積んだ。そこには、私たちがイメージする悪意より、ずっと無邪気な思いがあったんじゃないか?
事実今でも、短期間の高額セミナーで「心理カウンセラー」や「メンタルカウンセラー」の資格を得て、心の操作を目指したり、相談業を営む人がいるように*6。
別に、悪いことをしている意志は、そこまでなかったんじゃないか……私だって、思わず興味を持ちますしね。人の心に影響する力ですから。
【使徒に呪われる】
しかし、そんな彼に対し、同じ「シモン」という名の使徒ペトロは、たいへん厳しい言葉を返します。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ」
無邪気な思い、期待の中に秘められた腹黒さ、悪の縄目を指摘する。けっこうグサッとくる言葉です。
一度、キリストを受け入れた者に対し、ここまで言うとはなかなかです。元魔術師であるとはいえ、彼はそれなりに人々から尊敬を集め、多くの人を助けてきた人物です。
占いや心霊相談といった、巷で評判のいい実践を穏やかに肯定する「私はそのやり方に同意しないが、彼らは多くの人を惹きつけ、実際、多くの人を助けている」そう言いたくなる我々にとって、あまりに厳しく感じます*7。
なにせ、教会の中でも、シモンのように、自分自身を「偉大な人物」と捉え、霊の賜物と、世俗的な権力を同等に見る人物は、たくさん思い浮かべられます*8。
企業のように、教会の事業を拡大する牧師、信仰と成功を結びつけて語るテレビの福音伝道者……彼らは確かに、人々を惹きつけ、多くの受洗者を出している。
何より、キリストを受け入れ、洗礼を受け、伝道に従事しようとする者を、そんな厳しく言えるのか?
シモンの申し出は、「私をあなたたちの仲間にしてください。もっとたくさんの人を教会に集め、聖霊を受けさせて見せましょう」という積極的な姿勢にも見えてきます。が、ペトロは彼の要求を退け、悔い改めを要求します。
そう、シモンの言葉には、「人々を癒したい」という思いより、「自分自身の権威を高めたい」という思いの方が、色濃くにじみ出ています。
彼は、自分も聖霊を受けたいという願いではなく、聖霊を他人に与える力が欲しいと要求しました*9。彼にとって、神様を信じることも、聖霊を受けることも、人間がその力を利用するということだった。
「お前はこのことに何のかかわりもなければ、権威もない。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれない……」
ペトロの勧告に、シモンは震え上がって答えます。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください」
一見、使徒たちにとりなしを求める彼の姿勢は、非常に信心深く聞こえます。しかし、この答えこそ、「神の力」ではなく「特別な人の祈り」に信頼する、魔術的な思考の現れでした。
ペトロは「主に祈れ」と勧めますが、シモンは自分自身の祈りより、使徒たちの祈りの方が効果的だ……そう思っているように感じられます*10。
これに対し、ペトロとヨハネは何か答えてくれたんでしょうか? 彼のために祈ってあげたんでしょうか? 聖書には、そんな記事出て来ません。魔術師シモンは、冷たく見放され、捨てられてしまったんでしょうか?
【シモンとペトロ】
この記事を読むとき、私はどうしてもこう思っちゃうんです。魔術師に対し、使徒たちは非常に厳しい言葉を語るものの、彼らもそう変わらなかった人間じゃないか?
事実、ペトロと一緒にいたヨハネが、ゼベダイの子ヨハネであるならば*11、彼はイエス様に特別な地位を要求した人物。「私をあなたの右に置いてください」と権威や名声を求めた弟子。
また、ヨハネは兄弟ヤコブと一緒に、かつてこの地を訪れたとき、サマリア人から歓迎されなかったことに腹を立て、「主よ、お望みなら、天からの火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか?」と発言しています*12。
まるで、イエス様から与えられた権能を、自分自身が好き勝手できる超能力、魔術のように言っている。
さらに、弟子たちは自分たちと同じ、キリストの名によって悪霊を追い出す者が現れたとき、こっちの言うことを聞かないという理由で、止めようとしたことも伝えられています。弟子たちも、人々の権威が自分たちに集中するよう、けっこうやらかしていた。
そう、実は厳しい言葉を語ったペトロ自身、一緒にいたヨハネ自身も、魔術師シモンが陥っている状況を、よく理解していました。
かつて、自分たちも同じ、罪深い傾向を持っていた。今だから、それがどんなに愚かで腹黒いことだったか、恥ずかしいほど分かっている。だからこそ、その思いが神の前に正しくないことを晒し上げ、勧めるんです。
「この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれない……」「……この私たちのように」事実、イエス様に赦された経験を持つ2人は、かつての自分に重ねて、彼にそう勧めたんじゃないでしょうか?
聖霊による力とは、人間の権威を高くするものではありません。むしろ、自身の愚かさ、罪深さを赦し、回復してくださる主に、心を向けさせる力です。そのことを覚えて、私たちも祈ろうと思います。
*1:使徒8:9参照。
*2:W.H・ウィリモン著、中村博武訳『現代聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、1990年、116頁14〜17行参照。
*3:W.H・ウィリモン著、中村博武訳『現代聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、1990年、117頁5〜6行参照。
*4:使徒8:12〜13参照。
*5:ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、2007年、157頁16〜18行参照。
*6:「カウンセラー」は法的には誰でも自称でき、臨床心理士と違って心理学の専門家や公的な教育機関による訓練を経ずして資格を与えられてしまうため、様々な問題が指摘されている
*7:W.H・ウィリモン著、中村博武訳『現代聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、1990年、117頁18行〜118頁2行参照。
*8:W.H・ウィリモン著、中村博武訳『現代聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、1990年、118頁3〜7行参照。
*9:グスターフ・シュテーリン著、大友陽子、秀村欣二、渡辺洋太郎訳『NTD新約聖書註解(5)使徒行伝』ATD・NTD聖書註解刊行会、1977年、245頁15〜16行参照。
*10:グスターフ・シュテーリン著、大友陽子、秀村欣二、渡辺洋太郎訳『NTD新約聖書註解(5)使徒行伝』ATD・NTD聖書註解刊行会、1977年、247頁9〜13行参照。
*11:ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、2007年、157頁30〜158 頁1行参照。
*12:ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、2007年、157頁30〜158 頁4行参照。