ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『復活するから頑張れる?』 コリントの信徒への手紙一15:20〜34

聖書研究祈祷会 2019年10月9日

 

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【本当に復活するの?】

 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか?」

 

 さっき読んだ聖書箇所より少し前、コリントの信徒への手紙一15章12節にそんな言葉がありました。

 

 「復活なんてありえない」「死んだ人は生き返らない」「2000年前にキリストが死者の中から甦ったという話も、現実ではなかったんだ」

 

 今でも別に珍しくない、繰り返し耳にする言葉です。何なら、クリスチャンや牧師の中にも、これと同じ考えを持っている人もいます。

 

 「いやいや、死んだあと生き返るという希望がなければ、信じる意味がないじゃないか?」「この世で希望が持てなくても、やがて来たる神の国で永遠の命が与えられる……そう信じるからこそ、この世の苦しみにも耐えられる」「キリストの復活を否定しちゃったら、死後の希望も消えちゃうじゃないか?」

 

 そういった反論もよく出てきます。実際、手紙を書いたパウロ自身が、日々死ぬような目に遭いながらも、自分がキリストの復活を伝えているのは、まさに自分自身もキリストによって甦らされると信じていたからです。

 

 そう、キリスト教を信じている人の大半が、救いを求めて信じています。「死んだあと天国に行きたいから」……信じた理由の一番にあがってくるものですが、キリスト教において「ある人が神の国、天の国に迎え入れられる」と言えば、「その人が永遠の命を与えられ、完成した神の国で復活させられる」という意味になります。

 

 よく誤解されるんですが、「天国に行くこと」と「復活すること」って、別々の話じゃないんです。聖書の中では別れていない、連続した話なんです。

 

 もう一つ付け加えると、「天国」って「この世で生きていた人たちが死んだ後に行くところ」ってイメージが強いと思うんですが、むしろ、私たちが天国に行くんじゃなくて、天国の方から私たちのもとへやって来るんです。

 

 毎週教会で聞く『主の祈り』にも、「天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来らせたまえ」って言葉が出てきますよね?

 

 あれは「神の国、天の国がこの世に訪れますように」「御国が来ますように」っていう祈りです。私たちが行くんじゃなくて、向こうからやって来る。神の国が到来し、完成し、そこで死者が復活する。

 

 たぶん、「この世の終わりに神の国が到来すること」と、「人々が天国に迎え入れられること」と、「死者が復活すること」は、バラバラの出来事として捉えている人が多いでしょう。

 

 でも、聖書の中では、これらは全部つながっていて、一つでも否定すると、他も否定されちゃう話なんです。

 

 だから、コリントの教会へ手紙を書き送ったパウロは言いました。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と……

 

 復活を否定するなら、死の力から解放する「神の支配」も否定される。そんな信仰むなしいじゃないか?

 

【なぜみんな死ぬの?】

 復活を信じる一番の動機は、おそらくここです。「死」という力から逃れたい、「死」の恐怖から解放されたい、「死」を乗り越える希望が欲しい……

 

 それだけ、私たちにとって、「死」の支配は絶対的です。なぜ私は死ななきゃならないのか? 誰もが一度は考えたことのある命題でしょう。

 

 なぜ、人はみんな死ぬんだろう?……この問いをもって教会に来ていると、「死は罪の結果である」という言葉を度々聞くようになります。

 

 罪の報酬は死である……人類は自ら罪を犯した結果、「死」の支配に下ってしまった。それが、いわゆる「原罪」の教えです。

 

 人類の祖であるアダムとエバが、神の命令に背いて「取って食べるな」と言われた木から、実を取って食べてしまった。それゆえ、彼らの子孫全体に罪が及ぶ……

 

 そうだとしたら、本当にいい迷惑です。私たちの祖先が罪を犯してしまったゆえに、この世は罪に汚染され、人類は誕生したその瞬間から罪を避けられずに生きていく。

 

 大気汚染や放射能汚染の原因を作って、ほぼ永久的に私たちの子孫へ迷惑をかけるようなものですよね?

 

 原罪の教えが今も通用するかはともかくとして、創世記3章に記されたこの話は、どうしても悪から逃れられない、繰り返し罪を犯してしまう、「死」を免れ得ない人間の性質について、現代に至るまで考えさせてきたところです。

 

【信者はみんな甦る?】

 しかし、パウロはこの出来事を取り上げて、対照的な復活の希望も語ります。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。

 

 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」

 

 アダムが人類に「死」をもたらした存在なら、キリストは人類に「復活」をもたらした存在だ……パウロは、両者を並べてそう語ります。アダムは古い罪と死における全人類の代表者。キリストは新しい義と命における全人類の代表者*1

 

 アダムが神の命令に背いたゆえに、この世に生まれた全ての人が罪を犯すようになり、全人類に死がもたらされた。

 

 しかし、キリストが神の命令に従ったゆえに、キリストを信じる全ての者は神に赦され、永遠の命をもたらされた……「キリストに属している者たち」「キリストを信じる者たち」に、希望を語る言葉です。

 

 でも、気になるのは、キリストに属してない者たち、キリストを信じていない者たちが全く言及されないこと*2……復活の希望があるのは、洗礼を受けた人のみで、洗礼を受けずに死ぬ人は、もはや希望がないんでしょうか?

 

【信者じゃない人は?】

 ここで、もう一つ気になる言葉が出て来ました。29節に出てくる言葉、「そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか?」

 

 「死者のための洗礼」って聞きなれない言葉です。現代の教会では、基本耳にすることがありません。実はこれ、いまだよく分かってない慣習で、多くの解釈がされています。

 

 この場合は、洗礼を受けないまま死んでしまった人の死体に授ける洗礼のことか? と思わされますが、おそらくそうではなく、死者のために、死者に代わって授ける「代理洗礼」と考えられます*3

 

 たとえば、生まれてまもなく亡くなった我が子の代わりに、親が洗礼を受けるといったような話でしょうか? ある意味、考え方としては幼児洗礼と似たようなものだったのかもしれません。

 

 現代でこれを行う教会があったら、たぶん色んな批判や議論が出てくると思います。しかし、パウロはこの習慣について批判せず、むしろこれを例にして、「死者の復活」がないのなら、「死者のための洗礼」も、意味がなくなってしまうじゃないかと訴えます*4

 

 かつて、洗礼を受けられないまま亡くなってしまった人たちのために、「死者のための洗礼」が行われたように、私たちも、キリストを信じることのないまま亡くなってしまった人たちに、復活がもたらされるよう度々願います。

 

 そんな中、やはり「死者の復活」に関連して、私が思い出すエピソードがあるんです。もうこの教会で何度も話している、ルカによる福音書7章11節から17節に出てくる、イエス様がやもめの息子を生き返らせた話。

 

 ナインという町に住むこの親子は、おそらく今まで、一度もイエス様と会ったことのない2人。息子の方は何日か前に亡くなり、既に棺桶に入った状態でした。イエス様の言葉を聞くことも、信じることもないまま、死んでしまった人物。

 

 キリスト者という意味での信仰は、彼にありませんでした。母親も今、イエス様に会ったところで、ただ泣いていることしかできません。

 

 母親自身が、イエス様を信じて頼ることもできない中、イエス様は死んでいる青年に向かって声をかけます。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」

 

 起きるわけがありません。言うことを聞くはずがありません。だって、青年は死んでいる。こっちの声は届かない。

 

 生前、イエス様を信じてさえいなかった人が、その声を聞いて起き上がるわけがない。そもそも彼は、イエス様に対する信仰を持っていなかったのだから。

 

 にもかかわらず、若者は起き上がって、ものを言い始めました。呼びかけても答えるはずのない者が、答えてしまいました。

 

 イエス様は、ありえない応答を引き出す方です。言葉が届かず、返事ができず、冷たく固まってしまった人間を、自分の方に振り向かせ、起き上がらせ、返事をさせてしまいます。

 

 人間は頑固で、生きている間でさえ、私たちの声が届かない人もいます。それは、あなたの家族かもしれないし、友人かもしれないし、愛するパートナーかもしれません。

 

 あるいは、あなたが憎み、あなたが許せないあの人かもしれません。罪の自覚、悔い改め、反省の色も全然見えない、そんな人かもしれません。

 

 神様は、そういう頑固な人間をロボットのように操って、無理やり救おうとはされません。私たちをベルトコンベアーに乗せて、自動的に神の国へ連れて行くような方ではありません。

 

 むしろ、絶対に変わるとは思えない、返事をするとは思えない者から、「わたしの主」「わたしの神よ」という言葉を、自分の意志で言わせてしまう方なんです。

 

 私はその力が、全ての人に及ぶと思っています。死ぬまで神様を信じられなかった人、死ぬまで反省できなかった人、もう滅びの道しか残されていない、私たちの手が届かない人……そんな相手を神様は振り向かせてしまう。

 

 洗礼を受けないまま亡くなった人、信仰を告白しないまま天に召された人たちも、私たちの手が届かないところで、なお、神様に振り向かされ、答えさせられ、復活にあずかる希望があります。だから、私たちもその希望を語り続けたいと思います。

*1:松永晋一「コリントの信徒への手紙一」『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、474頁下段10〜13行参照。

*2:R.B.ヘイズ著、焼山満里子訳『現代聖書注解 コリントの信徒への手紙1』日本基督教団出版局、2002年、423頁17行〜424頁1行参照。

*3:松永晋一「コリントの信徒への手紙一」『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、475頁上段10〜17行参照。

*4:松永晋一「コリントの信徒への手紙一」『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、475頁上段17〜20行参照。