礼拝メッセージ 2019年11月24日
【リーダーの正しさ?】
正しいリーダーってどんなリーダーだと思いますか? 仲間を守らなければならない、みんなを導かなければならない、問題を解決しなければならない……指導者として、責任者として、守護者として、あるべき姿が次々と頭の中に浮かんできます。
今日の礼拝には、教団の聖書日課で「王の職務」というテーマが付けられています。まさに、正しいリーダーとは何か考えさせられるところです。
皆さんは「正しい王」「正しいリーダー」と聞いて、どんな人物を思い浮かべるでしょう?
多くの人が従うカリスマ性のある者、人々を守れる強靭な力を持った者、普通の人ならできない判断を即座に下すことができる者……
部長でも、社長でも、政治家でも、リーダーとして選ぶなら、自然と冷静で、勇ましく、威厳のある人が出てくるでしょう。
単なるお人好し、優しいだけの人間じゃ「正しいリーダー」なんて呼べません。間違った判断をして国が滅びないように、周りを不安にさせて仲間が離れないように、目的を達成できないまま立場が失墜しないように、様々な選択が必要です。
時には、ドライな判断も迫られながら……この目的のためには、ここを犠牲にしなければならない。目の前の課題を達成するため、この人たちには黙ってもらう。いくつかの問題には目をつぶって、このグループと手を組もう。
多くの命、多くの課題を背負ったリーダーだからこそ、切り捨てるもの、無視するものもでてきます。ある意味、そういった判断ができなければ、リーダーとして見なされません。逆に言えば、リーダーだからこそ、そういった判断が求められてしまう。
【間違ったリーダー】
最初に読んだエレミヤ書23章は、北と南に別れたイスラエル王国が滅ぼされ、バビロンに南ユダを征服された、捕囚時代の後半に記された預言です*1。このちょっと前には、21章や22章で、ユダの王たちに対する厳しい批判が語られていました。
「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは……あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」
神様がこれほど怒りを向ける彼らは、いったい何をしたんでしょう? 21章に出てくるユダ王国最後の王ゼデキヤは、もともと支配国であるバビロンの王、ネブカドレツァルによって王位につけられた傀儡政権でした。
しかし、彼は彼なりに、敵の国から解放されて再び自由を手にできるよう、様々な選択をした人物です。ゼデキヤは、バビロンの王やカルデア人からユダ王国を独立させるため、エジプトの支援を受けて、反旗を翻そうと画策していました。
かつて、自国の民を奴隷にして苦しめたエジプト、外国の支援を受ける。それも、自分を王位につけた支配国に逆らうために……下手すれば、バビロンに負けて処刑されるかもしれない。エジプトに裏切られて再び隷属させられるかもしれない。
国民の理解も、そう簡単に得られるとは思えません。しかし、このタイミングでなければ、もう外国の支援を受けるチャンスはないかもしれない。
非常に判断が難しい選択でした。ある意味、普通の人にはできない選択をして、ゼデキヤは国を導こうとしたんです。
共同体を守るために、より良い生活を得るために、思い切った勇気のいる判断をする。それは私たちが自国のリーダー、組織の代表、チームの指導者に、しばしば期待する姿です。
アメリカの同時多発テロに対する報復も、日本の安保法制に関する採決も、「何かが変わる大きな選択をしてほしい」という期待がかかったものでした。
ゼデキヤの選択だって、当時賞賛する人たちが少なからずいたでしょう。たとえ、何かを無視する手段でも、問題を抱えたやり方でも、結果オーライなら許されると、大胆で力強い行動を期待してしまいます。
しかし、その結果、黙らされた者、散らされた者、追い払われた者たちがたくさん出ることになりました。
「王よ、聞いてください。目の前に困窮している民がいるんです」「軍隊への支援より、貧者や病人の支援が必要なんです」「戦いを始めれば、若者がたくさん犠牲になるんです」……それらの声は掻き消されました。
多くの時代、多くの国で、人々の声を顧みないリーダーが現れ、群れを滅ぼしていきました。
【新しいリーダー】
そんな中、預言者エレミヤは、既存の王に代わって神ご自身が「理想の王」「新しいリーダー」を遣わされると語ります。
「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」
ヨハネによる福音書では、この牧者として来られた方が「良い羊飼い」として描かれるイエス様だと教えています*2。
後から読んだ黙示録でも、イエス様のことをこう表していました。「誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」と。
この方は、地上に現れてから、何か軍事的な手段をとって、国家を解放しようとしたわけではありません。人々を先導して暴動を起こしたり、基地や施設を建設したわけでもありません。
むしろ、貧しい者たちにパンを分け、病人を癒し、罪人と共に食事をする、変わったリーダーでした。大衆が期待するリーダーとは明らかに違っていました。
良い格好をして、大胆に周りを引っ張る姿ではなく、みんなの代わりに裸にされ、十字架につけられ、貫かれる恥ずかしい姿を晒しました。
一緒にいた弟子たちには理解されず、裏切られ、見捨てられていく始末でした。正直、一般的な目で見たら、「これが正しいリーダーだ」とはとても思えない姿だったでしょう。
むしろリーダーとしてふさわしくない、失敗した人だと感じた人も、少なくなかったかもしれません。
しかし、この方は自分を裏切り、見捨てた人々の前に現れ、「あなたがたに平和があるように」「わたしについてきなさい」ともう一度語ってきます。
死によって隔てられ、和解することが叶わなくなった人たち……リーダーを裏切り、もうチャンスのなくなった者たちに、「あなたはわたしの弟子であり、友であり、家族である」と言うんです。
「もうわたしはあなたの王じゃない、あなたはわたしの民じゃない」とは言いません。約束を守れず、相手を裏切り、見捨ててしまう人間のことさえ、その罪から解放される。
自分の国民として、神の民として受け入れてくださる。それが聖書の記す正しいリーダー、私たちの牧者としてやって来たイエス様でした。
実はこの「牧者になる」というヘブライ語の動詞には、「導くこと、同伴すること、友になること」という意味が含まれています*3。誰も期待しない者を導き、ひとりぼっちの者と食事をし、友なき者の友となる……。
イエス様はそういうリーダーとして、今も私たちのもとを訪れます。もはや、私たちが一緒にいることができない者にも、イエス様は同伴され、友となり、神の国へと導かれる……そういうすごいお方なんです。
【召された姉妹を覚えて】
今日は、この教会の信徒であり、長い間浜松の施設で療養されていた姉妹が召されて、5日目になります。今、死によって私たちと隔てられたように見える姉妹にも、最初に復活した方であるイエス様がそばにいます。一人にされることはありません。
長いこと、彼女を施設でひとりぼっちにさせてしまった。あんなに教会へ来たがっていたのに、礼拝に連れて来られなかった。一緒にいられない時間があまりにも長すぎた……そう思ってしまう私たちにも、イエス様は語ります。
「大丈夫、わたしがあなたと共にいる。彼女はわたしと共にいる」……私たちが、神の国で食卓に着くとき、復活した姉妹も、共にイエス様と食事を味わうことになるでしょう。この方は、散らされた骨、塵になった体でさえ新しくし、命をもたらす方なんです。
既に彼女の遺体は、浜松で火葬され、明日、遺骨を持って来たご家族と共に、華陽教会で葬儀を行う予定です。
そんな彼女が残してくれた『葬儀の備え』には、最後の方に一言、「キリストさんがついていると幸せだね」という言葉が書いてあります。
施設に入ってからの彼女は、下半身が動かなくなり、首がほとんど動かせなくなったり、表情が面に出せなくなったり、外からは「幸せだね」なんて、とても言えないように見えました。
しかし、私が訪問に行き始めた頃、「本当に私は平安なんです」と彼女が言っていたのを思い出します。
キリストさんがついているから、この方が私といてくれるから……だから、みんな大丈夫だよ。また、お会いしましょうね……神様に迎えられて、今もそう言ってくるのが聞こえてきそうです。
親しい者、愛する者を失った悲しみは、簡単には消えません。寂しいし、切ないし、私自身やっぱり泣いてしまいます。
しかし、彼女は私たちに、今も牧者であるイエス様が、自分に同伴し、導いてくれると証ししています。神様が、イエス様が与えてくださる復活の希望を、新しい命を信じて、私たちも残りの日々を進んでいきたいと思います。