ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『わたしを引き上げたのは……』 出エジプト記2:1〜10

2019年11月17日

 

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【迫害する人の救い】

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」……礼拝の最初に、招きの言葉として聞いた有名なイエス様の教えは、度々私たちを悩ませます。

 

 ここで言う「敵」って誰のことか? 「自分を迫害する者」って、まさかあいつのことじゃないだろうな? 心の中に、愛したくない人、憎まずにはいられない人の顔が浮かんできます。

 

 「その人のために祈りなさい」……待ってくださいイエス様! 私の敵、私を迫害する者は、たくさんの人を傷つけています。

 

 そそのかされた者、悪者にされた者、追い詰められた者がいます。中には死ぬほど痛めつけられた人だっているんです。それなのに、あの人のために祈りなさい、あいつらのために祈りなさいと言うんですか?

 

 皆さんは誰を思い浮かべているでしょう? クラスメートを牛耳る彼でしょうか? 近所で噂を流すあの人でしょうか? 職場で数多の人を辞めさせてきた彼女でしょうか?

 

 あるいは、あなたを追いやった集団でしょうか? 貧しい者、弱い者に耳を傾けない政治家でしょうか?

 

 私の敵、私を迫害する者に、救いが訪れるよう祈れるか? 正直に言うと、私はそう簡単にできません。

 

 今日の礼拝には、教団の聖書日課で「救いの約束」というテーマが掲げられています。しかし、あんな奴救われてたまるか! この人の救いを祈れるか! という思いは、生きていればいくらでも湧いてきます。

 

 たとえば、殺人を犯した人の救いを祈れるか? と聞かれて、即答できる人は少ないでしょう。祈っていいものか、正直分からないのも事実です。

 

 もし、自分の身内が殺されたなら、ひどい目に遭わされたならと考えれば、簡単に「赦し」や「祈り」を求められることが、どれだけ暴力的か分かります。

 

 普通、考えられないんです。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るなんて、その人の救いを願うなんて……正気の沙汰じゃありません。

 

 かえって、一般的には白い目で見られるでしょう。あんな奴の救いを願うなんて、あいつらのために祈るなんて、彼らに傷つけられ、痛めつけられた人たちに対する「裏切り」だと。

 

【すくい上げた者】

 特に、ひどい迫害が起きた後なら尚更です。今こんな目に遭わされたのに、あなたは敵のために祈るのかと。

 

 たとえば、エジプトの奴隷にされていたイスラエル人が、生まれたばかりの男の子を、一人残らず殺すよう命じられたとき……もはや、エジプト人のためにイスラエル人が祈ることは、ほとんどできなくなるでしょう。

 

 かつて、自分たちの祖先が、この国の王から大臣に召されて、何代にもわたって子孫を繁栄させてきたとしても、たった一代の王によって、罪のない多くの子どもが命を落としてしまったんです。

 

 赦せるものではないでしょう。イスラエル人は、エジプト人と仲良くするのもためらうようになったと思います。

 

 極力、仕事以外で彼らと顔を合わせないように、付き合うことのないようにしたでしょう。エジプト人の方も、イスラエル人のことを嫌悪していました。

 

 自分たちの国でどんどん数を増し、力をつけていることに脅威を覚えていたからです。下手すれば、この国が乗っ取られてしまうかもしれない……そんな不安を抱えていたと思います。

 

 まるで、移民や難民に対する嫌悪感のようですよね。エジプト人にとっては、イスラエル人こそ、自分たちを追いやらんとする敵でした。

 

 かつては良好だった両者の関係は、最悪なものになっていきます。互いを信頼することはもはやできません。イスラエル人は、自分たちを虐げるエジプト人から解放されたいと、助けを求めるようになりました。

 

 そんな中、民を導く指導者として神様から選ばれたのが、モーセという人物です。まさに、イスラエル人にとっては救いの使者。自分たちをエジプトから脱出させ、神様が約束してくださった新しい土地まで導いてくれる……

 

 彼こそが、イスラエルをどん底から引き上げた、導き出した存在だと、後に語られるようになりました。

 

 しかし、そんなモーセも幼い頃、他の人の例に洩れず、敵の政策によって窮地に立たされた存在でした。

 

 そう、イスラエル人の男の子は、生まれてすぐ、ナイル川に放り込むよう命じられていたからです。モーセが生まれたのはその直後……彼は本来、成人してイスラエルの民を救う前に、赤ん坊の時点で殺されているはずでした。

 

 敵から追い詰められ、迫害に遭い、命が脅かされたとき、彼をすくい上げたのは、いったい誰だったんでしょう?

 

 それは、まさに彼の命を脅かしていた敵の身内、ファラオの王女によってでした。当初、モーセが生まれたとき、彼の母親は、何とかこの子を生かそうと3ヶ月の間、人目から隠していました。

 

 しかし、とうとう隠しきれなくなると、彼女はパピルスの籠を用意して、アスファルトとピッチで防水し、赤ん坊を入れてナイル河畔の茂みに置いていきます。

 

 赤ん坊の姉は、弟がどうなるのか、遠くから様子を見ていました。するとそこへ、ファラオの王女が水浴びにやってきて籠を見つけ、中にいた赤ん坊を自分の子として引き取ります。

 

【敵のための祈り】

 何ともうまくできた話ですよね? 同時に、実はショッキングな内容です。イスラエルを敵の手から導き出したあのモーセが、敵の王女の手によってすくい上げられ、育てられた……

 

 「生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め」という、あの恐ろしい命令を出したファラオの身内によって、民の指導者が救われる。

 

 王女もなかなかの人物です。自分の父親が何を命じたか知っていた。見つけた男の子がヘブライ人、本来殺すはずの子どもだと気づいていた。

 

 にもかかわらず、父親の命令に反して、その子を自分の子として引き取ると言うんです。バレたら大変な騒ぎになるでしょう。王に従わなかった身内が殺されることも、古代では珍しくありませんでした。

 

 それこそ、どんどん勢いを増すイスラエル人が、国家の転覆を図るのではないかと恐れていたファラオにとって、王女がとった行動は相当深刻な裏切りです。

 

 国を守るため必死に減らそうとしている異民族を、彼女は勝手に迎え入れ、養子にしてしまうんですから。

 

 王女だって分かっていたでしょう。これは自分の地位、自分の命を犠牲にしかねない選択。周りから、「その子は敵だぞ」「俺たちを脅かす存在だぞ」と言われる行為であることを。

 

 「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」……実はそれに近いことをやったのが、まさにイスラエルの「敵」であった彼女という存在ではないかと思うんです。

 

 奴隷であったイスラエル人が、エジプトの国から引き上げられ、解放されたのは、彼女がモーセを水の中から引き上げてくれたおかげでした。

 

 奇しくも、モーセの名前の由来となった「引き上げる」というヘブライ語、マーシャーには「導く」という意味もあります*1

 

 水の中から王女が引き上げたモーセは、イスラエルの民全体を引き上げ、導き出す者となる。苦しみから解放を求めたイスラエル人を救ったのは、彼らが殺したいほど憎んでいた、敵の身内でもあったんです。

 

 神様は、こういう不思議なことをよくなさいます。敵の手から解放されることを願った人々が、敵の中の誰かによって導かれる。私たちが忌み嫌い、遠ざけている、愛せない人の中から、救いをもたらす誰かを立てられる。

 

 パウロなんて、その典型ですよね。もともとは、キリスト者を迫害するユダヤ人だった、老若男女問わず捕まえて、殺すために引き渡す男だった人物を、復活の主の弟子にしてしまった。

 

 考えてみれば、もともとイエス様が選んでいた12弟子にも、イスラエル人にとって「敵」だった徴税人の姿がいました。

 

 彼らは、自分たちを支配する敵のために税金を徴収するローマ帝国の手先でした。人々を追い詰め、苦しめ、迫害する者の一人でした。そんな人間が、今度はキリストの弟子として出て行き、人々を苦しみから解き放つ平和の使者になる。

 

【和解と救い】

 もちろん、彼らのために祈れる人は当初少なかったでしょう。パウロに捕まって身内が殺されたキリスト者もいた。徴税人に搾り取られて生活が困窮していた信徒もいた。

 

 キリストの弟子になったからと言って、彼らを愛し、彼らのために祈ることは、教会の中でもそう簡単にできなかったと思います。

 

 しかし、当初は和解なんて考えられなかった相手と、人々は徐々に祈り合えるようになっていきました。

 

 互いの口を通して、キリストの業、キリストの教えを伝え合い、だんだんと「自分のために祈ってほしい」「あなたのために祈らせてほしい」と言うことができるようになっていきました。

 

 最初に読んだ出エジプト記にも、互いに敵だったはずのエジプト人とイスラエル人の女性が、幼い子どもを育てるために協力し合う様子が描かれます。

 

 弟の様子を見ていた姉は、王女に向かって「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」と申し出ます。

 

 王女が水浴びする川に侵入してきた奴隷の娘……下手すれば処刑です。彼女も命をかけています。王女はすぐに気づいたでしょう。

 

 この娘は赤ん坊を救うために、敵の身内であるにもかかわらず、自分に向かって助けを求めている。本来、助けを叫べない相手に、勇気を出して申し出ていると……彼女は一言、「そうしておくれ」と頼みます。

 

 姉が弟の母親を連れてくると、王女は赤ん坊を渡して続けます。「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」

 

 この娘と母親が、赤ん坊の身内であることは、命をかけているその様子からも明らかです。おそらく分かった上で、王女は2人のもとに赤ん坊が大きくなるまで預けたんでしょう。

 

 この時、モーセの姉と母親は、それまで愛せるはずのなかったエジプト人の王の身内を愛する者になったでしょう。

 

 王女と赤ん坊の家族は、互いのために祈る者となりました。互いの理解者となりました。自分たちが恐れ、憎しみを覚える相手からも、救いが訪れることを知りました。同時に、今まで祈れなかった相手の救いを祈るようになりました。

 

 神様によって導かれ、私を苦しみから引き上げてくれる人の中には、思ってもみない敵の姿が見出されるかもしれません。

 

 救いの約束は、私たちの思わぬところから、思わぬところへもたらされます。あなたが引き上げる人、あなたを引き上げる人との出会いが、豊かに祝されますように。

*1:柳下明子「主日礼拝に備えて」『礼拝と音楽 No.182』日本基督教団出版局、2019年SUMMER 74頁、1段目17行〜2段目4行参照