礼拝メッセージ 2019年12月8日
【照らしたくない闇】
アドヴェントクランツに2本目のろうそくが立てられました。残念ながら、今は空調の関係でろうそくに火がつけられませんが、あと2回日曜日が来ると、多くの教会で4つのろうそくに火が灯ります。
華陽教会でも24日の夜には、みんなでろうそくやペンライトを持って、淡いオレンジ色の光でキャンドルライト・サービスを行います。
真夜中の礼拝堂でも、一人一人のろうそくに火が灯れば、ぼんやりと会堂全体が照らされるでしょう。
暗くて何も見えなかったところに光が灯ると私たちはホッと安心します。揺れ動く炎を見つめながら、暖かい光に照らされた周りの人の顔やクリスマス・ツリーを眺めます。
でも、照らされる場所が綺麗な礼拝堂ではなく、掃除の行き届いていない自分の部屋の中だったら……見られたくないもの、隠しておきたいものが散乱した目も当てられない場所だったら……暗闇を照らす光は、必ずしも歓迎されません。
ちょっとそこは照らさないで! 今はそっとしておいて! 思わず、ろうそくの火を吹き消したくもなるでしょう。
私たちの心を照らし、力を与える聖書の言葉も、一方で、私たちの欠けや汚れを露わにさせる厄介な光となってきます。
見つめたくない、隠しておきたい何かを見つめさせる。できれば、そのままにしておきたかった惨状と否応なしに向き合わせる。クリスマス前に片付けなければならない部屋の中を、誰かが急に照らしてくるような衝撃が走る……
今の時期、夜になると、あちこちでイルミネーションが光っています。町中にクリスマスの飾り付けが施され、普段照らされることのない場所にも、色とりどりの電球がつき、私たちの心をワクワクさせます。
しかし一方で、公園や電柱の影で寝ていたホームレスたちが露わになり、「ちょっと移動してください」と追い出される。
普段は見えていなかった彼らが、大勢に見られて噂になると困るから。ここには家を持てない人、仕事につけない人がいる。そういう人で溢れている町だという事実……
闇が照らされることによって、隠れていた問題が露わになり、解決へ向かうこともあるでしょう。しかし多くの場合、闇を照らすことそのものが妨げられてしまいます。
それを解決するのは大変だ、そんなことかまっていられない。見られたくないもの、見つめたくないものには蓋をしよう。どこかに移して隠しておこう。
そうやって、私たちは自分自身の闇が照らされないよう、ごまかしながら生きてきました。でも、聖書に書かれた神の言葉は、そんな私たちの闇を容赦なく照らしてくるんです。
【暗闇に見えない影】
先ほど読んだ列王記上22章は、一見、クリスマスを準備するこの時期と何の関係もない話に思えます。
しかし、闇を照らす光を求め、救い主イエス・キリストの誕生と再臨を待ち望む今、この箇所が読まれることになったのは、ふさわしいことと言えるでしょう。
なぜなら、この出来事こそ、人間が闇にしまっている現実が、神様によって露わにされる話だからです。
かつて「主の目に悪とされること」ばかりを行なったイスラエルの王アハブ……彼の問題は、17章から嫌というほど書かれていました。
即位して間もなく、神様との約束を破って他の神々を礼拝し、自分だけでなく、イスラエルの民にも異教の神々を拝ませるため、聖所にバアルの神殿を建て、アシェラ像まで造ってしまう。
さらに、アハブはシドン人の王女イゼベルを娶り、彼女の命令で多くの預言者が殺されます。
怒った神様が干ばつや飢饉を起こしても、繰り返し預言者を送っても、アハブは警告を聞き入れません。彼は、自分の過ちを指摘されても反省せず、批判する者たちを殺そうとしました。
気がつくと、王に仕える者どころか、宮廷預言者の人間でさえ、王に否定的なことが言えなくなっていました。誰がどう見ても悪い王だったと思います。
しかし、そんな彼にも、イスラエルに輝かしい勝利をもたらす出来事がありました。それは20章に記されるイスラエルとアラムの戦いです。
当初、アラムの軍隊から激しい攻撃を受けていたアハブは、敵の要求をなるべく受け入れ、できるだけ刺激しないようにしていました。
しかし、アラムの王はどんどん要求をエスカレートさせ、アハブに対して「銀と金、妻子たちを差し出すように」とまで命じてきます。アハブは、このめちゃくちゃな要求さえ断わり切ることができずにいました。
民と長老は必死になって「求めを聞き入れないでください。承諾しないでください」と訴え、彼はギリギリのところで「この度の要求には従えません」とアラムの王に返答します。
すると敵の方は、直ちに戦闘配置につき、イスラエルへ攻め入る準備をします。もはや絶体絶命のピンチというとき、一人の預言者がアハブに近づいて言いました。
「主はこう言われる。『この大軍のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」
今まで神に逆らって、好き放題してきたアハブに対し、このピンチを救うから、今度こそ私に従いなさいと神様は語ってきたんです。
アハブは預言者に言われたとおり民を招集し、アラムの軍を敗走させます。さらに、年が明ける頃、軍馬・戦車を補充した敵にも勝利を収め、王をアフェクの町に追い詰めました。
すると、アラムの王は命乞いし、アハブのことを「兄弟」と呼んでこう言います。「わたしの父があなたの父から奪った町々をお返しいたします。また、わたしの父がサマリアで行なったように、あなたもダマスコで市場を開いてください」
アハブはそれを聞いて、「では、協定を結んだ上で、あなたを帰国させよう」と約束しました。ところが、敵の王を帰国させた彼に対し、預言者はこう語ります。
「主はこう言われる。『わたしが滅ぼし去るように定めた人物をあなたは手もとから逃したのだから、あなたの命が彼の命に代わり、あなたの民が彼の民に代わる。』」
さて、追い詰めた敵を殺さないで、相手の国へ返したアハブに、果たして罪はあったんでしょうか?
むしろ、交渉の余地を与えて命を取らなかったことは、敵を憐れみ、思いやった行為のようにも感じます。神様は、この憐れみを評価しないで、命じたとおりにしなかったと追及するんでしょうか?
【露わにされる過ち】
そう、アハブがとった行動は、一見、罪深い行動というより、憐れみ深い行動に思えます。敵を殲滅させないで、共に生きていこうとする態度……
少なくとも、この部分に関しては、「敵を殺さなかったアハブが悪い」とは言いたくない人もいるでしょう。これを彼の闇だとは言いたくない……私もそうです。
むしろ「戦いに勝ったし、敵も殺されなくてよかったね」「アハブも良い王様になったんだね」というハッピーエンドに持って行きたくなるでしょう。
しかし後に、彼の行動は憐れみによるものではなかったことが判明します。なぜなら、3年後、アハブはユダの王と一緒にアラムを突いて殲滅し、領土を奪い返そうとするからです。
彼は、敵の王を帰す前、奪われた町々が返されるよう協定を結んでいたにもかかわらず、それを果たせていませんでした。
むしろ「我々は何もせずにいて、アラムの王の手からそれを奪い返せないままでいる」と言っています。
おそらく、本来なら、ユダの王と協力してアラムへ攻め込もうとする前に、協定どおり領土を返してくれるよう、アラムの王と交渉する必要があったはずです。
3年間「何もせずに」いたのに、かつて「兄弟」と呼び合った相手をいきなり殲滅しようとする……そこに「憐れみ深い」態度は見出せません。
アハブが敵の命を取らなかったのは、憐れみや思いやりからではなく、苦労せずに領土や市場を獲得したいという自分の利益のためでした。
そんな彼がラモト・ギレアドに攻め上ろうとするのに対し、預言者ミカヤは一人だけ、幸運ではなく災いを預言します。
「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました」
これは、戦場で指揮するアハブが死に、残された民が「おのおの自分の町、自分の国へ帰れ」と撤退を促される未来を指しています。
ミカヤ以外の預言者は、王に都合が良いように「アラムを突き、殲滅せよ」「ラモト・ギレアドに攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と語っていました。
それが正しいと思う背景には「以前、彼はアラムの軍隊を敗走させた」という体験があったでしょう。
しかし、その体験は、アハブの選択が正しいという証拠にはなりませんでした。むしろ、敵が敗走したのは、アハブではなく神を侮ったからであって、アハブは繰り返し神に背き、干ばつや飢饉を招いた人物でした。
また、敵に金銀や妻子を要求されても断り切れず、明らかに交渉が下手な人間でした。さらに、この直前には、自分の国の民であるナボドという人物から、強引にぶどう畑を奪い取っており、民にとっても信頼できない相手でした。
実際、今回も彼は攻め込む際に自分は狙われないよう変装をしますが、一緒に戦うユダの王には「あなたは変装しないでください」と頼んでいます。それは、ユダの王だけが集中的に狙われるということですが、アハブはそれを気にしません。
アハブがどれだけ信頼できず、その選択が危ういか、ちょっと考えれば誰もが分かるはずでした。神様が彼の手に敵を渡したいのか、疑問に思った人もいたと思うんです。
「本当に神様はアハブの思い通りに事を運ぶのか?」……しかし、400人の宮廷預言者は誰一人その闇を照らそうとは考えず、王を肯定するだけでした。
ミカヤだけが、見つめたくない現実を、隠しておきたい問題を照らしました。指摘すれば投獄され、酷い目に遭うことを語りました。同じ預言者の仲間でさえ、それは聞きたくないことでした。
「我々の王は間違ってない」「我々は王に逆らわなくていい」……闇が照らされれば、それと反対の事実が露わになります。逆らえば自分を殺しかねない王と対決しなければなりません。この闇を照らす言葉は厄介でした。
【現実が照らされる】
そう、神様の言葉は、時として私たちに不都合な現実を露わにします。アハブはミカヤが語ったとおり、戦闘の最中に命を落とし、指揮を失ったイスラエルの兵は、おのおの自分の町、自分の国へ帰って行きました。
400人いた王の宮廷預言者も、自分たちが間違っていたことを露わにされました。イエス様が生まれるとき、クリスマスの記事に書かれた出来事も、イスラエルにとって不都合な現実を露わにします。
マリアとヨセフが、宿屋に泊まることができず、家畜小屋の中で赤ん坊を産んだこと。それは、妊娠中の夫婦に対して、部屋をゆずってくれる人がこの町にいなかったことを意味しました。
その後、教会が最初にやったことは、夫を亡くして途方にくれているやもめたちの保護でした。
イエス様の誕生を最初に知らされた羊飼い……家畜小屋を持てない彼らが、夜通し羊の群れの番をしていたことは、神殿が立派に建て直された時代でも、民の生活は改善されなかったことを意味しました。
その後、教会が最初にやったことは、貧しい人々に食事を分け与えることでした。そして、救い主を最初に礼拝したのは、祭司ではなく羊飼い、エルサレムの人間ではなく、東方から来た異邦人でした。
分かりやすくたとえるなら、イエス様と最初に出会ったのは、牧師ではなく、別帳に移された教会員、あるいは教会に来たことのない新来者でした。それは、私たちの思い描くクリスマスの光とは違うかもしれません。
準備ができている、自分は正しいと思っていた人間が、そうではなかったことを露わにされる。立ち向かうべき問題と、見つめるべき課題に向き合わされる。
救いをもたらす神の言葉は、私たちの見たくないもの、見られたくないものを照らし出し、それと向き合う力を与えます。
あれだけ愚かな行いを繰り返していたアハブ王も、一度だけ神様に悔い改めたことがありました。
それは、ナボドのぶどう畑を強引に奪い取った後、預言者エリヤに「あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか」と指摘されたときです。
正直私には、この時なぜ、アハブが自分の罪を悔い改めたのか分かりません。彼は他のところでは、どれだけ預言者に批判されても、機嫌を損ねるか怒りだすだけで、反省することはなかったからです。
反省なんてできない人間に思えました。絶対に自分の罪を認めない男……にもかかわらず、神様は粘り強くアハブに呼びかけ、彼が初めて悔い改めると、災いを下すこと思い留まりました。
もう手遅れ、呼びかけても意味がないように思える人をも、神様は諦めないで救おうとされるんです。愛する者を裏切り、見捨て、死なせてしまう人たちにさえ、独り子であるイエス様を遣わして、和解と回復をもたらしました。
預言者の言葉を聞き入れなかった人間に、「そんな言葉聞きたくない」と駄々をこねている私たちに、なお救いの準備をさせるんです。
だから、もう一度この方の光に照らされましょう。自分の見られたくないところ、見つめたくない暗闇の中と向き合いましょう。
そのどうしようもないごちゃごちゃした部屋の中は、イエス様を迎え入れる日、きっと片付いているでしょう。なぜなら、片付くまで神様は照らし続けるからです。