聖書研究祈祷会 2018年9月12日
【なぜ善人を試すのか?】
幸福な生活を送っていた何の罪もない人に、突然わけの分からない災難が降りかかる……ヨブ記に記された出来事は、いくつもの衝撃を私たちに与えます。正しい人が不幸を与えられる。それに耐えるよう求められる。この試練を与えられたヨブは、最初、いかなる不幸も甘んじて受け、神様に対して呪うことも、不平を言うこともありません。罪を犯さない態度を貫きます。
さすが、信仰者の模範として語られることの多いヨブですが、私たちはこれを聞くと、ちょっとしんどくなってしまいます。「ヨブのように生きなさい」と言われても、私にはとても耐えられない……さらに、「神様は何の罪もない人を試すのか?」という問いをせずにはいられません。
正しい人には幸福が、悪い人には不幸がもたらされるという応報思想……私たちは、それこそが公平な世の中で、あるべき形だと感じます。イスラエルにも、この考え方が強く適用されていました。命や長寿、家族の繁栄を受ける者は「幸福」とされ、神様から祝福を受けたと考えられました。逆に、死や短命、病気などの他、家族の崩壊がもたらされる者は「不幸」とされ、神様から呪いを受けたと見られました。
特に、たくさんの子どもに恵まれることは、神からの大いなる祝福と捉えられ、ヨブにも7人の息子と3人の娘がいました。この「7」と「3」という数字は、完全性を表すシンボルで、欠けのない祝福、完璧で十分な報いを意味しました。また、遊牧民の財産としては普通、牛と羊が数えられますが、ヨブはそれに加えて、らくだと雌ろばも所有していました。その数は数百から数千にも及び、それだけ多くの家畜を飼える広大な土地を持っていたことが分かります。
ところが、ヨブはそれらを全て失います。しかも、彼が何か罪を犯したからではありません。全てを失ってなお、神様に忠実でいるかどうか「試された」という理由からです。この「上げて、上げて、落とす」というやり方には、非常に酷なものがあります。本来なら、このような仕打ちを受けるのは善人ではなく悪人ではないか? それなのに、現実では義人が苦難を受け、悪人が栄えて誇っている。
私たちの身の回りでも同じことが起きています。誠実な人が災害で命を落とし、悪事を繰り返している人が裁きを免れ、ぬくぬくと生活している。ただでさえ、そんなの嫌なのに、正しい人の不幸が「神様に試された結果」というのなら、なおさら納得できません。神様はここに書かれているように、本当に人を試すのか? なぜそんなことをされるのか? 問いかける心の叫びはやみません。
【試された人】
では、神に試された人、ヨブはいったいどんな人物だったのでしょうか? キリスト者の間では、ほとんどの人が彼のことを「正しく生きたイスラエル人」というイメージで捉えていると思います。しかし、ヨブの名前は、実は「敵」という意味を持っています。アッカド語の名前に用いられたり、エジプトの呪術書にも出てきたりする言葉です。
つまり、イスラエルにとって忌むべき敵の国の文書、それも呪術や呪いに関するところで出てくる名前であり、元来の意味は「父はどこに」と説明されます。「父なる神」に忠実な者として描かれる人物としては、なんという皮肉な名前でしょう。しかも、ヨブが住んでいたのは、イスラエルの中ではありませんでした。イスラエルを出た東側、シリアかエドムの辺りだったと言われます。
彼が住んでいた「東の国」は、ユーフラテス東方のアラム人や、イスラエルの国境東部の敵、エドム人、モアブ人、アンモン人がいた所です。特に、ミディアン人やアマレク人と共に、イスラエルを襲ってきた遊牧民が住んでいた地域を指しています。後から出てくるヨブの友人もみな外国人で、どちらかというとイスラエルの敵として出てくる存在でした。
最初に出てくるエリファズは、あのエドム人の祖先エサウの長男として記されます。ビルダドはシュサ出身とされ、エドムに近いアラビアにあった町に住んでいたと考えられます。ツォファルは北アラビアの出身です。そう、ヨブも彼の親しい友人たちも、イスラエルにとっては、紛うことなき「敵」に近しい存在でした。
なんと、ヨブ記はイスラエルの義人ではなく、外国の義人について書かれた異色の物語なのです。元来のイスラエルの基準でいけば、ヨブは「正しい」と評価されるはずのないアイデンティティの持ち主でした。そんな彼を、神様は正しい人、「義人」として評価しています。では、義人とは具体的にどんな人たちなのでしょう?
聖書の中で、他に義人として出てくる人物には、「無垢な」「正しい」「神に従う人」と表現される、エノクやノア、アブラハムといった人たちがいます。エノクは創世記5章24節に出てくる300年以上生きた人物で、神と共に歩んだ末、神が取られたのでいなくなります。しかし、その具体的な生き方は記されません。
ノアは、6章に出てくる洪水物語で有名な人物ですが、人類で最初にぶどう酒で酔っ払い、真っ裸になったのを見られ、自分の息子の子孫を呪ってしまう、どうしようもない人間です。さらに、アブラハムは「信仰の父」と称されますが、高齢の自分たちに息子を与えるという神様の約束を「笑って」しまった人物です。
イスラエルにおいて「義人」と呼ばれる人物は、その「正しさ」をどこまで評価していいのか、分からない人たちでした。しかし、イスラエルの外にいるヨブについては、わりと具体的な生き方が示されます。彼は定期的に息子たちを呼び寄せて聖別し、神様に犠牲を献げました。自分が悪いことをしていなくても、息子たちが罪を犯しているかもしれない、心の中で神を呪ったかもしれない……と心配していたからです。
ヨブは、多くの財産に恵まれながら、驕り高ぶることなく、むしろ小心的と言えるほど家族全体の責任に注意を払います。イスラエルの外にいる人物、敵に近い存在であるにもかかわらず、彼は神様に対して非常に誠実な関係を持とうとします。これまで見てきた「義人」の中では、最も義人らしい義人と言えるかもしれません。そんな彼を、神様は試します。彼に不幸をもたらそうとします。
普通、何か災いが降りかかれば「自業自得」「神の怒り」と考えられた外国の民、敵の民にもたらされる不幸……それを「神が試した結果」と捉えている話が、このヨブ記なのです。もはやイスラエルと敵対する国々が不幸に陥っても、それを自業自得とは言えません。大転換が起きています。
【何を試している?】
では、神様はいったい何を試すため、大いなる災いをもたらしたのでしょうか? ヨブが試されるきっかけを作ったのは、1章9節で登場するサタンです。サタンと聞いて、おそらくほとんどの人が悪魔をイメージすると思いますが、新約と違って旧約の方では、神に背こうとする存在ではありません。
むしろ、サタンも神の子ら、神の使いの一人として天上の会議に出席し、地上を巡回する刑事や警官、検事のように描かれます。神様は、このサタンに向かってヨブのことを話します。「地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
しかし、サタンはこう返します。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」……直訳すれば、「理由もないのに」「根拠もないのに」「何の下心もなく」神を敬うでしょうか? という言葉です。
私たちもギクリとさせられます。よく「キリスト教は御利益宗教ではない」と言われますが、実際は利益を求め、利益を得られると感じるから、あなたは信じているのではないか? そんな問いかけが聞こえてきます。サタンの言葉は、信仰とは本来何なのかを問いかける真剣な言葉です。
実は、神に対する姿勢として、サタンは非常に厳しい理想を持っています。自分に利益があろうとなかろうと、神様の意志を絶対的に尊重し、受け入れ、委ねていくという生き方……これこそが正しい人、義人の姿だと言われれば、私たちはもう「義人が受ける祝福に私が与る資格はありません」と言う他ないでしょう。
「義人はいない、一人もいない」……パウロが言ったとおり、本来神様の祝福に値する人間はいないのです。サタンは神様に正面から切り込みます。あなたが「正しい者」として扱っているヨブは、本当に、聖なるあなたからそう扱われる資格があるのですか? 実は今まで、あなたが義人として扱ってきた人々は、あなたが寛大に、憐れみ深く扱ってきたに過ぎないのではありませんか?
本当に、厳密に、義人かどうかを試されれば、それまで「正しい人」と自覚してきた者、評価されてきた者も、皆「正しい人」になり得ない……そんな現実を露わにしようとしてきたのです。普通、ここまで言われたら、「いや、そこまで期待はできない」「そんなの人間には無理だ」と答えたくなるでしょう。
しかし神様は、サタンの挑戦から逃げません。神が人間に対して持つには、無謀に思えるような期待を、捨てることなく答えるのです。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」
【試された人の苦難】
何も知らないヨブに対し、突然災いが降りかかってきます。彼の所有するそれぞれの地で、たった一人生き残った4人の者が、次々とヨブに災いを報告しました。一人目は、牛と雌ろば、それらを世話する者たちがシェバ人に襲われて全滅したことを。二人目は、羊と羊飼いが天から降ってきた神の火(おそらく稲妻ことでしょう)によって全滅したことを知らせます。
また、三人目は、らくだとらくだを世話する者が、カルデア人によって襲われ、皆殺されてしまったことを。四人目は、突然の天災で家の下敷きになり、息子と娘たちまでもが亡くなったことを報告するのです。
ヨブは彼らの知らせを聞いて衣を裂き、髪を剃り落として地にひれ伏します。彼は、自分は神様がいなければ、本来何も持たない者だと告白し、「主の御名はほめたたえられよ」と叫びます。十分すごい信仰です。しかし、話はこれで終わりません。
再び、天上の会議が開かれたとき、神様はサタンにこう言います。「彼はどこまでも無垢だ」。するとサタンも返します。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません。」
自分の利益を求めない信仰は、自らの命まで差し出すものだ! サタンはそう言って、ヨブが義人として扱われるにふさわしいかを、さらに試させようとします。もう止めてくれ! と言いたくなる中、神様は再び「お前のいいようにするがよい」とサタンに答えてしまいました。
また試すのか……もう勘弁してあげればいいのに……そう思います。けれども、神様はサタンの要求を完全には飲んでいませんでした。「ただし、命だけは奪うな」……サタンにとっては、全財産だけでなく、命まで差し出すかどうかが、義人として認められるかの判断がつくところでした。
しかし神様は、ネックである部分、「ヨブの命だけは取るな」と命じます。ヨブは、ついに自分の体にまで苦痛を受けますが、その苦痛を受けている間も、神様に命を守られて生きていました。サタンは彼の骨と肉に触れることはできず、皮までにしか災いを下せません。
ヨブを試す神様は、肝心なところで試さない方でした。自分の命まで差し出すかは試さない、それを試すことはサタンにも許さない、そんな姿を見せました。とはいえ、頭のてっぺんから足の裏まで、全身ひどい皮膚病にされたヨブの苦しみは耐え難いものだったでしょう。
彼は灰の中に座り、素焼きのかけらで身体中をかきむしりました。当然、腫れ物は破れ、血がダラダラと流れたでしょう。後に、その有様を見た友人たちは、彼が見分けられないほど変わってしまった様子を見て、呆然とします。それでも、ヨブは態度を変えません。夫の姿に、彼の妻もこう漏らします。「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」
彼女もひどく傷ついていました。財産どころか、子どもたちもみんな失ったのですから当然です。しかし、ヨブは限界に来ている妻に向かって、なかなかひどい言葉を返します。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
「愚かなこと」を直訳すれば、「愚かさの女の一人が話すように、お前は話す」という意味になるそうです。彼女も慰めを必要としているのに、彼女の悲しみを誰よりも分かっているはずなのに、ヨブはこんな言葉を返しました。彼も限界だったのでしょう。神様に向かうはずの非難が、代わりに妻の方へ向かってしまいます。
10節には、「彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」とありますが、それは、彼と共に悲しむ者、彼の代わりに、神様の扱いを嘆く妻が、一緒にいたからこそではないかと思うのです。彼女もヨブと共に試されました。試すとき、神様はヨブを一人にしませんでした。
【試した結果】
この後、ヨブは自分の生まれた日を呪い、神様は正しい人の、義人の言葉を聞かれないと訴え始めます。結局、限界を迎えた彼は、「神様は私と共にいる」「私の嘆きを聞いてくださる」という信頼を手放してしまいます。度重なる不幸に耐えたヨブの姿は、私たちがちょっと真似できない、究極の「正しい人」の姿かもしれません。しかし、その彼も、ずっとは神様に対する信頼を保てませんでした。
「義人はいない、一人もいない」……再び、あのパウロの言葉が思い出されます。同時に、神様に捨てられ、自分の命を差し出してもなお、従い続けるような「本当の信仰」を持つ者は、人間には見出せません。
ただ一人、本当に正しい方、本当の信仰を持った方が、後にこの世へと送られます。それが、全ての人を救うため、みんなが神様に義人として受け入れられるように、十字架にかかってくださったイエス・キリストです。
ヨブ記を読んだとき、私たちは始め、「人を試す神なんて……」とつまずき、不安を覚えました。しかし、神様が本当の意味で試したのは、その命を差し出させたのは、この世でただ一人、ご自分の独り子であるイエス様だけでした。イエス様だけが神様に、全ての人を罪許された義人として扱ってもらえるよう、ご自分の命を差し出しました。
ヨブ記の物語は、「正しく思える人に、なぜ不幸が降りかかるのか」という私たちの疑問に対し、「正しい人は一人もいない」「それでも、神様は不幸の中で私たちを守っている現実がある」と教えてきます。そして、私たちが義人として扱われるように、永遠の命が与えられるように、イエス様がこの世に送られたことを思い出させます。この恵みをもう一度思い出して、歩んでいきたいと思います。