ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『神殿がなくなる?』 ヨハネの黙示録21:15〜27

聖書研究祈祷会 2019年12月11日

 

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【神の国の様子?】

 聖書研究祈祷会で、黙示録を読むようになってから4週目……ようやく今日で、一旦この書は終わりになります。

 

 黙示録は数字や幻を使った象徴的な表現が多く、二元論的な展開も多いので、メッセージを読み取るのに、なかなか苦労させられました。今回の記事では、いよいよこの世に到来する神の国、天の国の詳細が描かれます。

 

 ただ、ここに出てくる神の国、「新しいエルサレム」の姿は、人によっては、ちょっと趣味が悪い……と思われるかもしれません。

 

 都の城壁にはふんだんに宝石が埋め込まれ、至る所に高価な純金が使われています。壁や建物どころか、人が通る大通りにまで「透き通ったガラスのような純金」が使われている……都はその輝きで常にキラキラしています。

 

 しかも、12個ある城門の全てが、それぞれ一つの真珠から造られたとあるので、どれだけ大きい真珠を使ったのか突っ込みたくもなってきます。

 

 巨大な建物の全てが金や宝石で飾られて、町中が金ピカに光っている……ちょっと成金趣味に思えますよね。

 

 この世の終わりに新天地へ迎え入れられるとしたら、もう少し落ち着いた場所の方が、私にはありがたいかもしれません。

 

 もちろん、これも象徴的な表現なので、実際に「神の国とはこういう場所だ」と決めつける必要はないと思いますが、それにしても、なかなか極端な描き方ですよね。

 

 こんなところ、相当なセレブや貴族でないと、入るのに気後れしてしまいます。というか、誰であっても、ちょっと入るのがためらわれる……

 

 だって、足元が金でできている。都の土台そのものが、いくつもの宝石でできている。そんなところに、私の足を乗せていいのか? これ踏んじゃって怒られないか? ここを通れるのは、もっと美しく清らかで、高貴な身分の人じゃないか?

 

 城門の前でキョロキョロしながら、都に入る最後の一歩が踏み出せない。そんな様子が見えてきそうです。

 

 事実、黙示録を書いた人は最後の方でこう言っています。「人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。

 

 しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。子羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」……どうやら、新しいエルサレム、神の国に入れる人は、やっぱり決まっているみたいです。

 

 汚れた者、忌まわしいことや偽りを行う者は入れない。命の書に名前が書いてある者、ようするに、イエス様が永遠の命を与えようと認めた人しか入れない……

 

 それならやっぱり、私はこの金ピカで、恐ろしく眩しい世界には入れないだろう。だって、嘘をついては誰かを騙し、忌まわしい行為や傷つける行為を山ほどやってきたのだから……

 

 実際、21章の8節ではこう宣言されていました。「おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが第二の死である」と。

 

 正しい者は受け入れられ、愚かな者は締め出される。神様に忠実な人は迎え入れられ、背いた人は追い出される。

 

 善と悪、光と闇、救いと滅び……二元論的な表現が続く中、ここでもやっぱり、善人と悪人がはっきり分けられ、善人の枠に入れない者は、容赦なく切り捨てる……というふうに聞こえてきます。

 

【至聖所がない?】

 しかし、この箇所を丁寧に読んでいくと、むしろ、神様が自分と人との間にあったいくつもの隔たりを、一気にとっぱらった様子が見えてくるんです。

 

 新しいエルサレム、すなわち、「新しい天と新しい地」についての記述が始まった21章の冒頭を思い出してみましょう。

 

 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」

 

 そう、世の終わりに神様が人々を招こうとしているのは、神の区画と人々の区画とが分けられた場所ではありません。自分の家に招こうとしています。

 

 食べる場所も同じです。王族がつく食卓に、貴族も、庶民も、貧しい者も招かれる。あなたはここまで入っていい、ここから先は入っちゃだめ……という区画もない。

 

 普通は、王が庶民と一緒に住むなんてありえないし、同じ食卓を囲むことなんてありません。しかし、神様は自分と人々を遮る幕を取っ払います。

 

 事実、新しい神の国には、神様を礼拝する場所が分けられていません。神殿そのものがない。神の国なのに、礼拝する建物がない。

 

 それは、その地全体が神様を礼拝する建物として立っているからです。みんなが神様を礼拝する場所に住んでいる。神様と、イエス様と一緒にいるとき、私の住んでいる家が、もう教会になっているんです。

 

 神の国では、礼拝に出られる人、出られない人という区別はありません。もうみんな教会に住んでいる。

 

 どこにいても、誰であっても、礼拝に参加することができている。そういう場所になっています。

 

 しかもそこは、神様を礼拝する場所の中でも、最も聖別された場所、最も入るのが難しかった「至聖所」です。

 

 先に読ませていただいた『信徒の友』に書かれた記事にも、都とその門、城壁とが、長さと幅が同じである正方形であったことに触れられていました。

 

 古代では、正方形は完全を象徴する形でした。神様に犠牲をささげる祭壇や、祭壇が配置された至聖所も正方形に造られていました。

 

 つまり、新しいエルサレム、神の国の都全体が、礼拝の最も中心である至聖所として造られています*1

 

 かつて、至聖所と聖所の間は垂れ幕で遮られており、そこに入ることができるのは、年に一回、民の代表として選ばれた大祭司のみでした。最も厳重に、入っていい時、入っていい人、入っていい理由が決められている場所でした。

 

 しかし、神様はその隔たりを取り除いて、誰もが至聖所の中に住み、誰もが神様と一緒に食べ、一緒に飲み、一緒に歌うことができると語ります。

 

 さらに、神の国の城門は常に開かれ、一日中閉ざされることはないとも告げられます。いつでも誰でも、神の国の都に入ることができる。

 

【隔たりがない?】

 ただし、やはり最後の言葉が気を重くします。「しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。子羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」

 

 結局、神様との隔たりが取り払われるのは善人だけで、正しいことができない問題児には、天の扉は開かない。

 

 イエス様が命の書に名前を書いてくれる人たちも、限られたほんの一部、聖人のような人たちだけなんだろう……そう気を落とすかもしれません。

 

 しかし、思い出してみましょう。3節に出てきた「おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者」とは誰のことだったのか?

 

 私はこれらのフレーズを聞く度に思い出す人たちがいます。臆病者のペトロ、疑り深いトマス、裏切り者のユダ……彼らは、イエス様が十字架につけられる最後の夜、聖餐式の原型となった「主の食卓」に与りました。

 

 やがて来たる神の国、新しいエルサレムで、神様と、イエス様と一緒につく食卓を先取りした食事……

 

 この時、既にイエス様は彼らの名前を「命の書」に書き記し、永遠の命を受けられるよう定められていたんじゃないか。

 

 自分を裏切り、自分を見捨て、不信仰で臆病で罪深い行動を起こしてしまう弟子たちが、再び自分に立ち返り、自分の家へ招かれるように。本来は、第二の死に定められるべき人たちの代わりに、自ら十字架にかかったのではないか?

 

 イエス様が「わたしに従いなさい」と呼びかけていった人たちは、多くが臆病で、信仰が薄く、誘惑に弱い人たちでした。

 

 実際、自分を裏切ったり、見捨ててしまう人たちでした。その人たちに対し、死から甦ったイエス様は、「あなたがたに平和があるように」と語りかけ、もう一度、「わたしに従いなさい」と呼びかけました。

 

 イエス様がこの世に再臨し、生きている者も死んでいる者も復活させられ、神様の前に立たされて審判を受ける「終わりの日」……

 

 その日イエス様は、かつて自分を見捨てた弟子たちへ呼びかけたのと同じように、私たちにも呼びかけるでしょう。「わたしに従いなさい」

 

 「もう手遅れかな」と感じているあなたにも、イエス様は呼びかける、呼びかけてきたお方です。何度も、何度も繰り返し、粘り強く語られる。

 

 「悔い改めて、福音を信じなさい」「わたしに従いなさい」「目を覚ましていなさい」……あとどれだけ、私たちはこの方に叫ばせているんでしょう? この方を迎えないでいるんでしょう?

 

 クリスマスまであと2週間……キリストの誕生を祝う準備をし、その再臨を願い求めて祈る期間、今度こそ、悔い改めてイエス様に従えるように、一日一日を歩んでいきたいと思います。

*1:上原智加子「日毎の糧 12月11日」『信徒の友 2019年12月号』日本基督教団出版局、2019年参照。