ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『お前は要らないとは言えず……』 民数記11:24〜29、コリント一12:14〜26

礼拝メッセージ 2018年7月22日

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【お前は要らない】

 「お前は要らない」……たったひと言で致命的なダメージを与える言葉、大切な仲間から絶対に聞きたくない言葉、私たちが最も恐れている言葉です。似たような意味を持つ言葉がいくつかあります。「うざい」「死ね」「消えて」「あっち行け」……あなたはここに必要ない、君は僕らの邪魔なんだ……繰り返されれば、人の命さえ奪う危険な言葉です。

 

 10人から好意的な言葉をもらっても、1人からこの言葉を受ければ、重ね着した衣服を貫通するナイフのごとく、簡単にその人の心を刺してきます。同じ数だけフォローをもらっても、この言葉で受けた傷はそう簡単に治りません。だから、パウロはここで何度も繰り返します。「体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っている」……あなたは無くなっていい存在じゃない、消えていい存在じゃない……ここに不可欠な存在なんだ。

 

 それにしても「お前は要らない」なんて言葉、いったい誰から誰に言われたのでしょう?パウロが必死になってフォローした言葉……その手紙の送り先は、ブラック企業に勤めている人々でも、学級崩壊寸前のクラスでもありません。私たちと同じ、教会に集まる人たちです。聖なる、清い人たちが集まって、優しく、思いやりに満ちた人がいると思われている場所……そんな教会の一つに、この手紙は送られました。

 

 「お前は要らない」……教会のメンバーからそう言われ、傷ついた人々。自分は要らないと思わされた人々。世間で問題視されている、虐めや差別のような出来事が、「聖なる」教会の中でも起きていました。どうやら頻繁に……正直なところ、私は「教会は優しいところだ」「あなたを受け入れてくれる場所だ」と宣伝したい気持ちでいっぱいです。

 

 しかし、現実にはここにいて、傷つけられたことのない人はあんまりいないと思います。人間の集まるところです。それも、様々な悩みや問題を抱えた人たちが救いを求めてやってくる場所……優しくなってから、問題を解決してから、清くなってから来る場所じゃないのです。みんな、自分の傷が癒えないまま、自分も棘を抱えたまま、聖なるこの場へと集まってきます。

 

 コリントの教会もそうでした。富んでいる者も貧しい者も、ユダヤ人も外国人も集まってきました。有能で仕事はできるけれど、高慢で上から目線が抜けない人。誰に対しても丁寧で優しいけれど、悪いことを悪いと指摘できない人。毎週まじめに礼拝へ来るけれど、体が弱くて奉仕はほとんどできない人。自分自身にとっても厳しいけれど、人にもめちゃくちゃ厳しい人……もう様々でした。

 

【必要とされてない?】

 そんな中、新しく出てきた問題について、パウロはこんなふうに言っています……足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか? 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか?

 

 不思議な言葉ですが、どうも自分を否定的に捉えている人たちのことを指しているようです。パウロは、この手紙で、教会を一つの体にたとえています。そして、ここに出てくる足と手、耳と目の関係は、おそらく弱い人と強い人の関係を指しています。どうやら、教会の中で強い立場だった人が、弱い立場だった人たちに、「お前は弱い」「お前は不完全だ」「お前はいなくてもいい」というような態度を取ったようです。

 

 確かに、自分は他の人のように役に立つ才能もないし、たいした働きもできていない。だから、本当の意味で教会に属している、教会に必要とされているわけではないのだ……そんなふうに感じている人たちがいました。しかし、教会は優しい人の集まりだと思いたい人は、思わずこう考えるかもしれません。

 

 いやいや、教会で面と向かって「お前は要らない」なんて言う人はいないだろう……そう感じた人が、勝手にそう思い込むほど弱かっただけの話ではないか? 精神的に弱い人が、勘違いしただけではないか?

 

 なるほど……私だって「お前は要らない」なんて言葉、教会で言ったら大問題です。牧師不信任案が出されるかもしれません。しかし、多くの教会で、割と無意識に「お前は要らない」というメッセージが発せられています。「教会は誰が来ても良い所です。どなたでもご自由にお越しください」そんな看板を垂れ下げているところで、何人もの人が「私は要らない」と思わされてきました。

 

 ある教会で日曜日、青年たちが中心になって奉仕する青年礼拝が行われました。礼拝当日、普段より青年は多いにもかかわらず、教会員の礼拝出席はだいぶ少なくなりました。青年礼拝と聞いて、出席を避ける人がそれなりにいたのです。普段、教会学校で暴れまわっている子どもたちが、年に一度、合同礼拝をすることがありました。その日も、毎年何人かは礼拝に来なくなりました。

 

 ある教会で日曜日、ホームレスの男性がやって来ました。彼が礼拝堂の後ろの席に座ると、周りにいた人たちは、そっと席を変えました。ある教会で日曜日、身体中ピアスをつけたバンドマンのような人がやって来ました。彼は礼拝後、昼食サービスに残ってくれましたが、誰一人声をかける人はいませんでした。

 

 「お前は要らない」というメッセージは、言葉でなくとも、けっこう頻繁に発されていました。世間にある他の共同体と同じように……こんな派手な人、こんなボロボロの人、こんな異質な人、教会に来るようになっても困る。私に近い世代、私と同じ感覚、私と似ている生活を送っている人……そういう人こそ、ここに来て欲しい。みんなから認められる真っ当な人こそ、教会に必要とされているのだから……

 

 言葉にせずとも伝わっています……「私は教会に来るべきじゃないかもしれない」……そんな言葉を、牧師になる前から何度も私は聞いてきました。私自身も、自分という牧師は必要とされてないかもしれない……そう思わされることがありました。ある人から見れば、全然ふさわしくない者が、ここに集められています。

 

【霊を受けた人】

 最初に読まれた民数記では、有名な出エジプトの出来事で、イスラエルの民を率いたモーセの補佐をするために、70人が選ばれた話が書かれていました。モーセ自身が、「この人こそ私の助けに必要な人間だ」と思って選んだ長老たちです。おそらく、民全体から見ても、モーセと一緒にリーダーシップを取るのにふさわしい人たちだったのでしょう。

 

 彼らは神様を礼拝するテントの周りに立たされます。すると、モーセに授けられていた神様の霊の一部が取り上げられ、70人の長老たちにも授けられました。彼らは預言する状態になり、神様からも正式に選ばれたことが示されました。ところが、モーセから呼びかけられず、宿営に残っていた人が2人いました。

 

 一人はエルダド、もう一人はメダドという人です。他の箇所でも言及がなく、何者かさっぱり分からない人たちです。おそらく、民全体の間でも、特別選ばれるべき存在とは思われなかった人たちでした。彼らは神様を礼拝する場所にいませんでしたが、同じ時、神様の霊が2人の上に留まり、預言する状態になりました。この2人も神様に選ばれたのです。

 

 それを聞いたモーセの従者、ヌンの子ヨシュアは「わが主モーセよ、やめさせてください」と言います。ヨシュアと言えば、モーセの後を継いで、イスラエルの民を率いた有名な人物です。彼から見れば、エルダドとメダドは、それこそモーセの補佐役としてはふさわしくない、要らない人間だったのかもしれません。

 

 そもそも、最初にモーセが集めた70人という数はイスラエル全体を表す完全数の一つでした。余計に、後から加えられた2人が必要ない印象を与えます。しかし、この2人は紛れもなく、神様がご自分の霊を分け与え、モーセを支えるために必要とした人物でした。たとえ、若い時からモーセに忠実だったヨシュアから見て「要らない」人物であったとしても……モーセが自ら選ばなかった2人としても……

 

 モーセはヨシュアに対し、「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」と返します。モーセは今まで、イスラエルの民から繰り返し不満をぶつけられてきました。喉が渇いた、お腹が空いた、これならエジプトで奴隷をしていた方がマシだった……

 

 そんな不満を自分にぶつけ続けてきた民が、みんな、神様から選ばれて預言者になればよいと思っている……衝撃的な言葉です。何度も自分に反抗してきた民なのに、その中で「要らない」人は誰一人いない、みんな預言者になってほしいと言うのです……神様に愚痴を言い続けて来たモーセから、この言葉が出てきたことも奇跡的な話でした。

 

【要らないなんて言えない】

 そう……神様はほとんどの人が必要だと思わない人、ふさわしいと思わない人を「ここに必要な人間」として選ばれます。「あなたが必要だ」と言われます。神様に助けを求めた人が、頼ろうと思いさえしない人をも、その人に必要な人として遣わします。歩くのに必要とされない両腕は、足を怪我したとき松葉杖を支えます。見ることに必要とされない耳は、暗闇で危険に気づかせます。

 

 パウロが言うように、目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。本当にその通りです。たとえ、いつか私が間違いを犯して、皆さんのうちの誰かに向かって「お前は要らない」と言ったとしても、神様はその人を必要とされています。神様はあなたを「要らない」なんて言いません。あなたがこの教会に、ここに来ている人たちに、必要なことを知っています。

 

 手紙の22節以下では、体の中で、つまり「教会」の中で、他よりも弱く見える部分が、かえって必要だと言われています。私たちが、他よりも格好悪いと思う部分、見苦しいと思う部分が、実は必要だ……見苦しいと思われる部分、それは時に私かもしれませんし、時にあなたかもしれません。しかし、神様は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を、教会を、組み立てられると語られています。

 

 いったいどういうことでしょう? そんな綺麗事言われても、実際には格好悪かったり、見苦しかったりするところは、教会のマイナスに働くんじゃないか……思わずそう感じてしまいます。ところが、ここで言われていることは本当なのです。

 

 思い出してみましょう。私たちが信じている方、全世界に知れ渡っている方が、どんな姿で思い起こされているか……自分の弟子に裏切られた人、群衆から罵倒され唾を吐きかけられた人、裸で十字架につけられた人、罪人として処刑された人……これほど格好悪い、見苦しい姿があるでしょうか? それなのに、これほど引き立たせられている方があるでしょうか?

 

【神様が必要とされる】

 私の父は牧師です。私が子どもの頃、教会で働いていてうつ病になりました……今でも障害者手帳を持つ精神障害者です。まだ、うつ病の理解が進んでいなかった当時には色々言われました。牧師が心を病むなんて……神に委ねれば治るだろうに……信仰で癒してもらえないのか……

 

 父自身、自分は教会にとって本当に必要なのか、悩んだ日々だったと思います。自分をたくさん責めてきたと思います。その姿は、私たち子どもの目にも、とっても引き立たせられました。強く逞しかった父が、朝起きられなくなり、体が動かなくなり、本が読めなくなり、足から力が抜け、呂律が回らなくなっていく……

 

 それでも、このとき私たちが見てきた父は、私たちとイエス様を何度も出会わせてくれました。「牧師は本当に素晴らしい仕事だぞ」……比喩ではなく、本当に何度も死にかけている父から言われた衝撃の一言をまだ覚えています。モーセみたいに、あれだけ愚痴っていたくせに、命の危険に遭っているのに、どうしてそんなこと言えるのか? 同じ目に遭うかもしれないのに、なぜ息子にそう言えるのか……?

 

 強烈な父の姿が、「絶対になるものか!」と思っていた牧師の道へ、私自身を進ませました。教会に集う一人一人の苦しみを理解するきっかけを与えてくれました。今まで、自分の抱えている重荷を口にできなかった人が、それを明かせるようにもなりました。

 

 見苦しく感じてしまう部分、格好悪く思ってしまう部分……それがなければ、起きることのなかった奇跡が起きました……ここに集められた人たちは、また、これから集められる人たちは、みな神様から尊ばれ、期待され、必要とされている人たちです。教会という体の目であり、耳であり、手足である人たちです。あなたがいないと困るのです。あなたを「要らない」と言える人は本来いないのです。

 

 26節の後、実はこう続けられています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」……教会はキリストの体です。あなたはイエス様の体の一部です。あなたが苦しめば、イエス様も共に苦しみ、あなたが尊ばれれば、イエス様も共に喜びます。どうか今私にも、あなたのことを、皆さんのことを尊ばせてください。共に祝福に与って、互いの存在を喜び合いましょう。