日曜礼拝 2025年11月16日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。(詩編46:9〜10)
讃美歌
讃美歌二編172番「世界につげよ」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆恵みの源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。先週は、礼拝後に、岐阜ボーカルサウンドシンガーズの15周年コンサートが開かれ、会場となった教会に、多くの人が訪れました。どうか今、新しく華陽教会を知ってくださった方々に、あなたとの出会いも導かれていきますように。
◆私たちの神様。昨日は、芽含幼稚園と華陽教会で、在園生と教会学校生徒のためのお楽しみ会を開くことができました。どうか今、子どもたち一人一人の成長がこれからも豊かに導かれ、共に恵みを分かち合うことができるように、私たち大人を用いてください。
◆私たちの神様。来週は、収穫感謝礼拝です。各家庭から野菜や果物を自由に持ち寄り、あなたから与えられた恵みに感謝し、祈りと賛美をささげます。どうか今、私たちがいただいた恵みを、互いに分かち合うことができるように、この一週間も導いてください。
◆全ての者と共におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。出エジプト記6:2〜13の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書101頁です。
同じく、出エジプト記6:2〜13の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の93頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編77:5〜16、新共同訳交読詩編の87頁です。
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『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。) |
讃美歌
讃美歌21の356番「インマヌエルの主イェスこそ」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

メッセージ
神様は時々、無茶振りとしか思えないことを人に命じるときがあります。有名な出エジプト記に出てくるモーセに対してもそうでした。エジプトで奴隷となっていたイスラエル人を、ファラオの元から連れ出して、新しい土地へ連れて行けという命令……もちろん、この無茶な命令にモーセは必死に抵抗します。
「私なんかがあなたの言葉を伝えても、みんな『お前などに神が現れるはずがない』と言うでしょう」「私はたいへん口下手なのです。誰か他の人を遣わしてください」……なんやかんやと理由をつけて、彼は使命を断ろうとします。ところが、神様はモーセの訴えなんて聞いてくれません。
「分かった、それならお前の兄弟アロンも一緒に遣わそう。私は彼が雄弁なことを知っている。私の言うことをアロンに話し、彼から人々に語らせなさい」……それならもういっそ、自分ではなく直接アロンを遣わしてくださいと、モーセは言いたかったに違いありません。しかし神様は、どういうわけか意地でもモーセを遣わしたかったようです。しぶしぶ、彼は命令に従います。
アロンと共に遣わされたモーセは、イスラエルの人々の長老を全員集め、神様から言われたことを何もかも話しました。さらに、神様から与えられていたしるし、おそらく杖を蛇に変える奇跡を見せたので、集められた民はすぐさまモーセの言うことを信じました。その場で、彼らは自分たちを救い出すと約束した神様を礼拝します。
そう、民は一旦モーセの言うことを信じるのです。「あっ、思ったよりもあっさり自分の言うことを信じてくれた」……モーセも一瞬胸を撫で下ろしたことでしょう。しかし、そう思ったのも束の間、エジプトの王ファラオとの交渉に入ると、様々な困難がモーセとイスラエルの民を待ち構えていました。
ファラオはイスラエルの長老たちと違って、そう簡単にモーセの言うことを聞き入れてくれなかったんです。日に日に数を増していくイスラエル人が、いつ自分たちエジプト人に反旗を翻すか分からない……そんな状況で「わたしの民を去らせてくれ」と言ってきたモーセの要求は、何かよくない企みがあるように映ったのでしょう。
結果から言えば、モーセはファラオとの最初の交渉に失敗します。さらにここから、ファラオだけでなく、一旦はモーセの言うことを信じたイスラエル人たちも皆、彼の言うことを聞かなくなります。そしてモーセ自身も、神様の言うことに再び抵抗を示すのです。
どう考えても、エジプトからイスラエル人を脱出させる試みが成功するとは思えない……そんな状況が整ってしまいます。みんなして言います。「こんなことで我々は本当に救われるのですか? 無理でしょう?」と……しかし、神様は話を聞いてくれません。誰の言葉にも折れません。繰り返し、彼らが失敗している交渉を続けるよう命じるのです。
神様から送り出されたモーセとアロンは、ファラオに向かってこう願い出ます。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」。当然、ファラオは「うん」とは言いません。エジプト人にとって、ファラオは神々の子孫であり、いわゆる現人神(あらひとがみ)でした。神を称する自分に向かって、「私たちは別の神に従う」と言われたわけです。面白くはありません。
ファラオはこう返します。「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」……そこで、モーセとアロンは語気を強めて再び願い出ます。「どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしないと、神はきっと疫病か剣でわたしたちを滅ぼされるでしょう」
現人神であるとされたファラオに向かって二回も「わたしたちの神に従わせてください」と言ったのですから、その場で背信罪に問われてもおかしくありません。しかし、ファラオはモーセたちの言葉に対し、半分呆れたように言い放ちます。「モーセとアロン、お前たちはなぜ彼らを仕事から引き離そうとするのだ。お前たちも自分の労働に戻るがよい」……二人はその場で処刑されるという最悪の展開を免れましたが、その後思わぬところにシワ寄せがやってきてしまいます。
ファラオは「民を追い使う者」と「下役」たちにこう命じました。「これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。だから、自分たちの神に犠牲をささげに行かせてくれなどと叫ぶのだ。この者たちは、仕事をきつくすれば、偽りの言葉に心を寄せることはなくなるだろう」。
「民を追い使う者」とはエジプト人の役人で、「下役」はその下で徴用されているイスラエル人のことです。エジプトの役人が直に労働を監督するのでなく、労働者たちと同族のイスラエル人を下役に徴用することで、不満や苦情を封印していたのでしょう。イエス様の時代でも、イスラエルを支配していたローマ帝国が、同じイスラエル人に税の取り立てを行わせていたことが思い出されます。
民を追い使う者と下役たちは出て行って、ファラオからの言葉を人々に伝えました。今までは、エジプトから提供されるわらを使ってレンガを作ればよかったのに、これからはわらの収集もイスラエル人たちの手で行わなければいけません。エジプトの役人たちは「わらがあったときと同じように、その日の割り当てをその日のうちに仕上げろ」と言って急き立てますが、労働量が一気に増えたのでそんなわけにはいきません。
間もなくエジプトの役人たちは「どうして、今までと同じ決められた量のれんがをその日のうちに仕上げることができないのか」と言って、イスラエルの下役たちを打ち叩くようになります。とうとう、耐えきれなくなった下役たちはファラオのもとに行って訴えました。「どうしてあなたは僕たちにこのようにされるのですか。僕らにはわらが与えられません。それでも、れんがを作れと言われて、僕らは打たれているのです。間違っているのはあなたの民の方です」
けれども、彼らには無慈悲な王の言葉が伝えられます。「この怠け者めが。お前たちは怠け者なのだ。だから、主に犠牲をささげに行かせてくださいなどと言うのだ」……下役たちは悟ります。モーセとアロンがファラオに向かって「荒れ野で犠牲をささげてさせてください」なんて言ったから、自分たちはこんな仕打ちを受けているのだと。さらに、ファラオは続けます。「すぐに行って働け。わらは与えない。しかし、割り当てられた量のれんがは必ず仕上げよ」
イスラエルの下役たちは、エジプトの役人に立ち向かうことができないと知って、自分たちが苦境に立たされたことを悟ります。「モーセとアロンがファラオとの交渉に失敗したから、大変なことになってしまった」「神様が自分たちを救い出すなんてもう信じられない」「このままでは自分たちはノルマを達成できずに打ち叩かれて死んでしまう」……そしてちょうど、退出してきた自分たちの前にモーセとアロンが待ち受けていました。
下役たちは二人に向かって抗議をします。「どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」……神様の命令に従ってその通りにしたら、ものの見事に失敗し、モーセは同族から反感を買ってしまいました。今や信頼はダダ落ちです。ほとんど呪いに近い言葉が自分に向かって吐き出されます。
モーセは下役たちに何も返せません。彼自身も神様に向かって訴えます。「わが主よ、あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」。
モーセは心の中で繰り返し呟いていたでしょう。「だから言ったのに……」「こんな結果になるなら、なぜ私を……」と。自分は神様に選ばれたけれど、本当はこの使命にふさわしくなかったんじゃないか? 自分なんかに使命を託した神様が間違っていたんじゃないか? 神様の選びに対して、疑いの気持ちさえ芽生えてきます。
ところが神様はモーセの話を聞きません。いえ、聞いているのですが、正面から取り合ってくれません。彼に現れたとき最初に言ったことをもう一度語るのです。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」。
なぜ、神様の言うとおりにしているのに、イスラエルの人々がかえって苦しい思いをしてしまうのか……それには一切答えてくれない返事です。なぜ、ファラオとの交渉に失敗するような自分を遣わされるのか、それにも答えてはくれません。神様はただ、自分の言ったことは本当に実現するとだけ語ります。
さらに神様は、念押しするようにこの約束を繰り返すのです。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」と。
モーセはそのとおり、イスラエルの人々にもう一度語りますが、彼らは厳しい重労働によって、既に聞く意欲を失っていました。誰もモーセの言うことを聞いてはくれません。最初にモーセとアロンが語ったことを聞き、信じて神様を礼拝した人たちも皆、信じなくなってしまったのです。
ところが、一人ぼっちになってしまったモーセに向かって、神様は空気を読まずに言われます。「さあ、エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい」……結果は見えています。既に失敗しているのです。応援してくれるイスラエル人もいません。それどころか、再びファラオを怒らせたら、またみんなに飛び火がいくかもしれません。あるいは、今度こそ自分も殺されてしまうかもしれません。
モーセは神様に訴えます。「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のない(口下手な)わたしの言うことを聞くでしょうか」当然の疑問です。実際、この後の有名な展開はよく知られているように、ファラオはモーセの言葉を最後の最後まで聞いてくれません。にもかかわらず、神様はもう一度同じ命令を繰り返すだけです。「イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せ」と。
今、手元に聖書があって、出エジプト記の結末まで読むことのできる私たちは、最終的に彼らがどうなったのかをすぐ知ることができます。本当に、神様の言ったとおり、ファラオはイスラエルの人々を追い出し、奴隷となっていた民は解放されるのだと。新しい土地へ行って、そこに入ることができるのだと。
しかし、自分たちの未来を知らないモーセやイスラエルの民は違います。彼らは不安でいっぱいです……そう、実は出エジプト記を見ていると、「奴隷となっているイスラエルの民を解放する」という神様の言葉に、最初は誰一人乗り気でなかったのです。「最初は」と今言いましたが、本当は最初どころか、ほとんど全編にわたって、神様の計画に賛同する人は現れません。皆途中で何度も「だから言ったのに……」「なぜこんなことをしたのです」と不平不満を呟きます。
挙げ句の果てに、自分が民の指導者に選んだモーセにまで、そう言われ続けるのです。助けようとしている相手に、どこまでも信じてもらえない。むしろ責めの言葉ばかりを投げつけられる……私たちなら、そんなときどうするでしょうか? 繰り返し自分を刺してくる一人一人の言葉にムッとし、辛くなり、「分かった、そんなに言うならもう勝手にしろ」そう言ってしまいたくならないでしょうか?
しかし、神様は彼らがどれだけ不平不満を言っても聞きません。相変わらずこう告げるのです。「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す」と……「神様は話を聞いてくれません」と言いましたが、実際には、話を聞かなかったのは誰だったのでしょうか? 自分の言うことを疑い続ける人々に、最後まで付き合ったのは誰だったのでしょうか?
「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」……神様がモーセと交わした最初の約束……それはどこまでも真実で偽りのない言葉でした。失敗や逆境によって、自分に自信をなくしているとき、自分を選んでくれた神様に疑いの目を向けるとき、このことを思い出したいと思います。そして、神様が命じていることは何か、もう一度聞こうとする姿勢を、取り戻し続けていきたいと思います。
讃美歌
オンライン賛美歌17番「祈れないときに」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖句と主題
御着席ください。今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。
年間聖句
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」
年間主題
華陽教会では、「信仰継承を考える」というテーマで、マルコによる福音書10:14を今年度の年間聖句にしています。
今週は、在園生と教会学校の生徒のために祈りを合わせ、芽含幼稚園を覚えるミニバザーやハロウィン&宗教改革お楽しみ会の準備を進めていきましょう。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
造り主なる神よ。あなたの恵みに感謝し、喜びにあふれて、すべてをおささげ致します。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」3節を歌いましょう。
讃美歌
讃美歌21の29番「天のみ民も」を歌いましょう。(差し支えない方は、お立ちください)
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。(出エジプト記6:6)
祝 福
主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。主が御顔を向けてあなた(がた)を照らし/あなた(がた)に恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。(民数記6:24〜26)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった 名、同時に視聴された 名、計 名の方が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週の日曜日は、収穫感謝礼拝として、野菜や果物を自由に持ち寄り、聖餐台の上に飾って、感謝の祈りをささげます。『人が見るようには見ない』と題して、サムエル記上16:1〜13のお話をする予定です。
それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。