ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『これでどうして信じるの?』 ヨハネによる福音書8:21〜36

日曜礼拝 2024年1月28日


www.youtube.com

 

説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、感染症対策のため、礼拝の中で四度、立ち上がって讃美歌を歌う間、会堂の窓を開放し、換気の時間を作ります。どうぞ、教会員の方は、窓の開閉にご協力ください。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。(ヨハネの手紙二3)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、讃美歌二編の189番「丘の上の教会へ」を歌います。諸事情でマスクを着用できない方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。差し支えない方は、お立ちください。

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆癒しと解放をもたらす神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。先週の日曜日は、前奏から後奏まで、一つ一つの要素を説明しながら礼拝したあと、集まった人たちで昼食を共にし、祈りについて分かち合うことができました。どうか今、私たちの祈りと、賛美と、証のときが、ますます豊かにされますように。

◆私たちの神様。先週は、各務原教会でも、鈴木重正先生による礼拝メッセージが行われました。どうか今、隣の教会をはじめとして、岐阜地区の教会、学校、幼稚園と、ますます豊かな交流ができますように。

◆私たちの神様。来週の日曜日は、礼拝後に、教会懇談会が開かれます。どうか今、会衆一人一人が持っている、疑問、要望、意見などを、誠実に分かち合うことができるように準備を整えさせてください。

◆私たちの友なる主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書8:21〜36(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

www.bible.or.jp

交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編125:1〜5(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、讃美歌21の314番「神の国の命の木よ」を歌いましょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。差し支えない方はお立ちください。

 

TumisuによるPixabayからの画像

メッセージ

「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」……ヨハネによる福音書8章には、イエス様が神殿の境内で「自分について」「父なる神との関係について」話されたとき、「多くの人々がイエスを信じた」と書かれています。でも、このときイエス様は何か奇跡を起こしたわけでも、誰か病人を癒したわけでもありません。
 
イエス様が話すのを聞いて、教えるのを聞いて、ただそれだけで、みんながイエス様を「信じた」という、ある意味「信仰深い」出来事です。だって、目に見えるしるし、特別な超常現象や、癒しの業が起こされなくても、話を聞いただけで「この人を信じよう」と思えたんですから……けっこう貴重なシーンですよね?
 
「見たから信じる」のではなく「見ないで信じる」信仰が芽生えた話として、理想的なケースに思えます。でも正直、私には分かりません。どうして、この人たちがイエス様を信じたのか? どうして、この言葉を聞いて信じることができたのか?……皆さんはどうでしょう? 同じように言われたとして、自分も信じられるでしょうか?
 
「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」……多くの人が信じたにしては、けっこう突き放すような言葉です。イエス様はこのとき、自分が十字架につけられ、殺されたあと復活して、天に昇られることを話していますが、当然、先のことなんて知らない人々は、何のことだか分かりません。
 
「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」……まあ、普通の反応です。これに対し、イエス様は「わたしはこの世に属していない」とか「わたしは上のものに属している」と言ってきますが、こう言われたら余計に「もしかして本当に死ぬ気ですか?」となるでしょう。
 
また、こちらに対して「あなたたちは下のものに属している」とか「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とか、あまり、聞いていて気持ちの良くない言葉も出てきます。「そんなことを言うあなたは、いったい何者なんだ?」と質問しても、正面から答えてはくれず、煙に巻くような言葉を返します。
 
「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」……旧約に慣れ親しんでいる人なら、「わたしはある」という言葉は、神様が自分の名前を尋ねられたとき、答えた言葉だと分かります。

めちゃくちゃ回りくどいですが、この先、自分が死んで、復活し、天に挙げられるのを見たときに、あなたたちも、私が神の子だと分かるようになる……ということを話しています。でも、全然親切じゃありません。現に、聞いている人たちは、イエス様が、自分と父なる神との関係を話していると分からなかった、悟らなかったことが記されています。
 
そりゃそうですよね? 初めて礼拝に来た人が、聖書朗読で、イエス様の言葉を聞いたって、「こういう意味か」「よく分かった!」とはなりません。「感動した!」とも「素晴らしい!」ともなりません。にもかかわらず、なぜか、聖書にはこう書いてあります。「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」……何を信じたんでしょう?
 
どう見ても、イエス様が神の子だと分かった様子はありません。イエス様が神様を自分の「父」と呼んでいることも、人々は分からないでいます。むしろ、イエス様が何か答える度に、困惑しています。さらに、31節には、イエス様が「自分を信じたユダヤ人たち」に言った言葉も、結局、理解されないことが記されます。
 
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」……なるほど、よく分かりました、信じます! という反応じゃありませんよね? どうしてそんなこと言うんだろう? 私たちは誰かの奴隷ではないし、牢に囚われてもいないのに……という反応です。
 
イエス様の話が分かったから、「信じた」わけではなさそうです。むしろ、一貫しているのは、何を言っているのか、何を教えられているのか、悟ることができない様子です。イエス様の言葉を聞いて「信じた」とあるのに、イエス様が何を言っているのか「分かっていない」矛盾した状況が生まれています。
 
本当に、彼らは「何を」信じたんでしょうか? 皆さんはこう言われて、「何を」信じられるでしょうか? むしろ、こう言ってくれた方が親切です。「彼らは何も信じなかった」「イエスを信じられなかった」「信じた人は一人もいなかった」……でも、聖書はこう続けます。「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」
 
「信じた」って、どういう状態なんでしょう? てっきり、イエス様を神の子だと確信して、疑わないで、受け入れていることだと思っていました。でも、ここにいる「イエスを信じたユダヤ人たち」は、たぶん、そんなはっきり信じていません。イエス様が誰か、何者か、分かっていません。何を語られているのか、理解していません。
 
でも、「信じた」と言われています。この後、多くの人が、イエス様に反論したり、つまずいたり、石を取り上げて殺そうとまでしてくるのに、「多くの人がイエスを信じた」と言われます。イエス様は身を隠して、神殿の境内から出ていかなければならなくなります。それなのに、ここにいた多くの人たちが「信じた」と言われる。
 
実は、このとき神殿の境内にいた人々は、私であり、あなたでもあります。イエス様の言うことが分からず、受けとめきれず、反論したくなる、私たちがここにいます。救い主を信じたいけど、復活がどうしても分からない。イエス様のたとえや言い方に、ときどきつまずく自分がいる。
 
正直に言います。私だって、イエス様が分からなくなります。今日みたいな、上にいる者と下にいる者を分けるような、二元論的な話が語られたり、「信じなければ、罪のうちに死ぬことになる」と脅しのように聞こえたり、「わたしの行くところに、あなたたちは来ることができない」と突き放すように感じたり、受け入れ難いことがいっぱいあります。
 
でも、イエス様を「信じない」「信じていない」と言おうとすれば、それができない自分に気づきます。イエス様、何が言いたいんですか? どういうことですか? どうしても納得できません! と、境内の中で詰め寄った多くの人々のように、私もイエス様に詰め寄りながら、イエス様の言葉を待っています。
 
あなたもそうじゃないでしょうか? ショックな言葉を聞かされて、よく分からない話を語られて、「もういいや」「信じません」と言えなくて、結局、イエス様に詰め寄って、近づいて、教えてください! と言っている自分が、いないでしょうか? 聖書は、そんなあなたのことをこう言います。「イエスを信じた者……」
 
ヨハネによる福音書20章には、イエス様が復活したと聞かされて、真っ先に墓を見に行った2人の弟子たちが、空っぽの墓を「見て、信じた」と書かれています。でも、その直後に「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」と言われます。
 
じゃあ、何を信じたんでしょう? 「主が墓から取り去られました」とマグダラのマリアに知らされて、「どういうことですか?」「何が起こったんですか?」と死んでいるイエス様に詰め寄ろうとした彼らは、そのイエスの遺体が消えていることを確認し、わけが分からないまま帰って行きます。何も分かっていない……なのに、「見て、信じた」
 
復活したと分かってないのに、イエス様が約束どおり、再び会いに来てくれたと気づいてないのに、もう「信じた」と言われている。あの約束を受け入れてないのに、受けとめきれてないのに、「信じた者」と言われている。弟子たちに、その自覚はありません。自分が「イエスを信じた」と確信しているわけではありません。
 
でも、聖書はあからさまに告げています。「見て、信じた」「これらのことを語られたとき、イエスを信じた」……「信じなければ、罪のうちに死ぬことになる」と言われていました。しかし、どう見ても、「信じた」と言える状態じゃない人が、「見て、信じた」「イエスを信じた」と書かれていました。
 
正直、イエス様の話が受けとめきれない……救われたいけど信じきれない……どこかで疑っている自分がいて、納得できない私がいて、「何で!」「どうして!」「答えてよ!」と詰め寄っている魂がある。けれど、そのとき、イエス様はもう私のことを「罪のうちに死ななければならない」とは言いません。自分を信じた者として、近づいてきます。
 
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」……その言葉どおり、最後までイエス様の言葉にとどまっていた人はいたでしょうか? 使徒と呼ばれた12弟子は、イエス様の言葉を、約束を、信じて待ち続けたでしょうか? 信じて待っていたとは言えない姿が、どの福音書にも記されます。
 
彼らはイエス様が三日目に復活するという言葉を理解できず、受けとめられず、戸に鍵をかけて、イエス様を締め出しました。心の中で、イエス様に詰め寄っていました。どうして死んだんですか? どうして消えたんですか? あなたを見捨てて逃げた私を憎んでいますか? そのとき、イエス様は現れ、言いました。「あなたがたに平和があるように」
 
もし、あなたもイエス様の言うことを、理解できず、受けとめきれず、「なんで?」「どうして?」と詰め寄るなら……怒り、嘆き、叫んでいるなら……戸惑い、疑い、困惑しているなら……あなたはもう、罪のうちに死ななければならない者ではありません。あなたは既に「弟子」と呼ばれ、キリストの言葉に留まるよう、イエス自ら訪れています。
 
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」……真理とは、イエス・キリストです。あなたたちが知るのは、自分が詰め寄ったイエス様です。理解しきれず、受けとめきれず、でも拒絶できないイエス様を知ることが、あなたたちを自由にします。もう、罪のうちに死ぬことを恐れる必要はありません。あなたは自由です。
 
この言葉が、今も分からない人、納得できない人、受け入れられない人、全ての者に、イエス様は出会います。イエス様を理解できた人が、救われたのではありません。イエス様と、真理と、出会った人が救われました。復活したイエス様と話していても気づかない人が、泣いている自分に呼びかけたイエス様に気づかない人が、救われました。
 
あなたがたは真理と出会います。イエス・キリストと出会います。罪のうちに死ぬ者ではなく、キリストを、知って生きる者として新しくされます。イエス様は、あなたを自由にするためにやって来ました。だから、安心して行きなさい。これからも、この方とぶつかりなさい。あなたは既に、この方を知っています。たとえ、分かっていなくても……。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、オンライン賛美歌1番「枯れた谷に鹿が」(©️柳本和良)を歌います。差し支えない方は、お立ちください。

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

 

 

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

 

 

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

 

 

聖句と主題

御着席ください。今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。

 

年間聖句

「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」

 

年間主題

華陽教会では、今年度「新しいことを行おう」というテーマで、イザヤ書43:18〜19aを年間聖句にしています。

 

今週は、2月4日の教会懇談会に備え、総会で取り上げてほしいこと、役員会で検討してほしいこと、これから、みんなで何を行っていきたいか、共に考えていきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

全ての祝福の源である神様、今、私たちがささげるものを受け入れてください。あなたの平和が実現し、あなたの御名があがめられ、神の国の栄光があらわされますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌15番「わたしたちは旅人」を歌いましょう。差し支えない方は、お立ちください。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネによる福音書8:32)

 

祝 福

父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。(テモテへの手紙二1:2)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった24名、同時に視聴された4名、計30名が参加されました。

 

礼拝後の昼食には16名、オリーブ会とヒラソルの会には10名が参加されました。祈りのヒントについて、一緒に分かち合えたことを感謝致します。会に出られなかった人も、受付とnoteで『祈りのヒント』を共有しているので、よかったらご覧ください。

 

来週の日曜日は『私を癒した人のせい?』と題してヨブ記23:1〜10とヨハネによる福音書5:1〜11からお話しします。なお、2月4日の礼拝後は、2階集会室で軽食を挟んで教会懇談会を行います。

 

コロナ禍の間しっかり話せなかった教会への要望や質問、総会に取り上げてほしいことなど、お茶を飲みながら自由に話せるときを作るので、お時間ある方はぜひ、ご参加ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。