ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『悟ることが許されない?』 マタイによる福音書13:10〜23

聖書研究祈祷会 2020年2月5日

 

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【心が狭い話し方】

聖書に書いてあることが、本当に神の言葉なら、その正しい意味を教えてほしい。誤った解釈ではなく、適切な答えを聞かせてほしい。たぶん、多くの人はそう思って、教会へ話を聞きに来るんだと思います。実際、イエス様が始めたたとえ話も、ただ聞いているだけでは意味が分かりませんでした。

 

種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、ある種は石だらけで土の少ない所に落ち、ある種は荊の間に落ちてしまった。これらの種は、鳥に食べられ、日に焼けて枯れ、荊に塞がれ、実をつけなかった。しかし、良い土地に落ちた種だけは、100倍、60倍、30倍の実を結んだ。

 

特別、変わった話ではありません。むしろ、当たり前の内容です。作物の種は、良い土地でなければ育たない。悪い土地に蒔いても枯れてしまう……当然のこと、だから何? という話です。実際、イエス様が群衆に向かってこの話をしたとき、「なるほど!」と頷いた者は一人もいませんでした。

 

そりゃそうです。だって何をたとえているのか、一切説明がないんですから。みんな疑問を抱きます。イエス様はなぜ、我々が知っている当たり前のことを言ったのか? 何かをたとえているようだが、種を蒔く人、蒔かれた種、種が蒔かれるそれぞれの土地は、いったい何を示すのか?

 

弟子たちも不思議に思います。イエス様は何を言っているんだろう? 自分たちには意味が分かると思って話したんだろうか? でも正直、他の人たちと同様、弟子たちにも何を言っているか分かりません。

 

けれども、どういう意味か尋ねれば、弟子なのにたとえの意味を悟れなかったことがバレてしまう……そこで彼らは、かしこい方法で尋ねます。

 

「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか?」……うまい聞き方ですね。イエス様は、理由を説明し始めます。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」

 

どういうことでしょう? イエス様に従う弟子たちは、神の国の秘密を知ってもいいけれど、そうでない人たちは分からないように、敢えて難しく話すんだ……ということでしょうか? それって何だか、心が狭いように感じます。 

 

【成立しない説明】

普通、皆さんがたとえを使うときって、どういうときでしょう? きっと、そのままでは理解しにくいことを、分かりやすく説明するために、たとえを使うことが多いですよね? でもその逆で、敢えて一部の人しか分からないように、たとえを使うことも出てきます。

 

たとえば、上司の行動に不満があるとき。本人には分からないよう、あたかも別の話をしているかのように、周りとやりとりすることがありますよね? 子どもに知られたらまずいことを、大人だけに通じる隠語で話すこともあります。

 

「誰でも分かるように」ではなく、「一部の人しか分からないように」たとえを使う……イエス様もそれが目的だったようです。

 

ところが、実際のところ、このたとえを理解しているのはイエス様一人。弟子たちも一から説明を受けるまで、意味が分かっていませんでした。最初から、このたとえは「誰でも分かる」内容でも、「一部の人だけが分かる」内容でもなかったんです。

 

じゃあ、何のためにたとえを使ったの? という話になってきます。ぶっちゃけ、弟子たちにだけ分かるように語った、というよりも、彼らが考え込まざるを得ないように、こんな話し方をした、という印象を受けます。

 

そもそも、この後に続くたとえの説明を聞いたところで、本当に理解できるかも怪しいんです。なぜって、イエス様が弟子たちに話したたとえ話の説明は、よく見ると、成り立っていないから。

 

最初にイエス様は「蒔かれた種」を「御国の言葉(神の言葉)」として説明します。一見、これで分かりやすくなったような気がします。神の言葉が「種」ならば、その種が蒔かれる土地は、それぞれの聞き手を表すことになるからです。

 

実際多くの人は、自分が良い土地なのか、荊の生えた土地なのか、石だらけの土地なのか、道端なのかを考えるでしょう。

 

ところが、続きを見ていくと、いつの間にか、御言葉の聞き手が「土地」ではなく「種」の方に置き換えられています。あなたは石地に落ちて根がないために枯れてしまう種か? 荊の中に落ちて実を熟すことのできない種か? あるいは、良い土地に落ちて百倍の実を結ぶ種か?

 

これでは、たとえ話に出てくる「種」を「神の言葉」として捉えるのか、「聞き手の私たち」として捉えるのか、どっちが正しいのか選べません。イエス様は、このたとえの正しい受け取り方を「これだ!」とは教えてくれないんです。

 

聞き手の私たちは、自分が土地にたとえられているのか、種にたとえられているのか、自ら考えて話を聞かなければなりません。イエス様は、「誰でも分かる話」でも、「一部の人だけ分かる話」でもなく、「一人一人が自分で考え、自分で解釈しなければ、意味が獲得できない話」をしているんです。

 

ただ正解を求めて、人からの答えを得ようとするだけでは、この話は「見ても見えず、聞いても理解できない」んです。皆さんは、注解書に書いてあることや、牧師が言うことを「正しい答え」だと思って聞くかもしれません。

 

しかし、イエス様があなたに望んでいるのは、唯一の正しい解釈を得ることではなく、あなたがこの話の意味を、自分で考え、自分で受け取ることなんです。

 

【救われない人たち】

ところが、今日の箇所では、「悟ることが許されない」人たちも出てきます。話を聞いているけれど、その意味について知ることは最後までできない人たちがいる……なかなか恐ろしい話です。

 

「悟れる者」と「悟れない者」が最初から決まっているなら、いくらイエス様の話を聞いて考えても、受け取ることのできないまま、滅びてしまう人がいるっていうことです。

 

そう、まさに道端や石だらけの土地、荊に覆われた土地のように、どれだけ種を蒔かれても、どれだけ神の言葉を聞かされても、受け入れず、理解せず、救われない人たちがいる。

 

頭が柔らかく、よく耕された土地のように、イエス様のたとえを聞いて理解した者、受け入れた者だけが救われる……さあ、私はどっちだろう? と考えたら、ますます不安になりますよね。

 

じゃあ、イエス様の弟子たちは、ちゃんとたとえを聞いた後、自分の頭で考えて、意味を理解し、受け入れることができたのか?……いいえ、弟子たちは理解していません。皆キョトンとしています。

 

「なるほど、分かりましたイエス様!」なんて反応は一度もありませんでした。イエス様のたとえを聞いた人々は、「良い話だ!」「感動した!」「励まされた!」なんて言いません。むしろ、「これはいったいどういう意味だろう?」「何が言いたかったんだろう?」と考え込んでしまいます。

 

さらに、イエス様は「種を蒔く人」のたとえを説明した後、「毒麦」のたとえ、「からし種」のたとえ、「パン種」のたとえ、「天の国」のたとえをしていきます。怒涛のたとえ話ラッシュです。誰一人、たとえの意味が分かっていないのに、その後もたとえを用いて語り続ける。弟子たちには、密かにその意味を話しながら。

 

なんと非効率で手間のかかるやり方でしょう! しかも、聞き手にとって最も肝心なところ、たとえ話の説明についてはほとんど記してくれません。説明があるのは、「種を蒔く人」のたとえ話と「毒麦」のたとえ話だけ。あとはほぼ、言いっ放しか、中途半端な説明だけで終わります。

 

また、先ほども言ったように、イエス様が説明したたとえ話の内容も、実際のところ、「こうだ!」という答えを教えるものではなく、聞いた後、どう受け取るか自分で考えることが求められます。説明を聞いた後も、なお悟ることができないでいる可能性もあるわけです。

 

【耕される人たち】

「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない」

 

イザヤの預言として引用されているこの言葉は、私たちに恐怖をもたらします。これって私のことだろうか? いまだ、聖書の話につまずいて、素直に受け取れない自分には、癒しも救いもないんだろうか?

 

いえ、ちょっと待ってください。繰り返しますが、「聞くには聞くが、決して理解せず」って、まさに弟子たちの姿でもありました。「見るには見るが、決して認めない」という言葉も、イエス様を直接目にしていながら、神の子、救い主だと分からなかった、復活を信じられなかった、彼らの態度を思い出させます。

 

そう、弟子たちこそ、種を蒔いても実るはずのない道端であり、石地であり、荊に覆われた土地でした。艱難や迫害が起こると、根がないために枯れてしまう心の弱い者でした。しかし、その弟子たちに神の言葉を語り続け、悟るように説明し続け、心を耕し続けた方が、他ならぬイエス様だったんです。

 

イザヤの預言は実現しました。彼らは結局、イエス様が十字架につけられるまで、本当の意味で自分たちに言われたことを理解していませんでした。しかし、三日目に復活したイエス様は、再び彼らの前に現れ、悟るはずのなかった心を耕して、新たに人々のもとへ送り出します。

 

悟ることが許されなかった者は、悟るようになるまで語りかけられ、耕され、実を結ぶように導かれる……それこそが、神の国の秘密であり、イエス様がもたらした福音でした。

 

聖書の言葉は、つまずく者、疑う者、受け入れない者にも蒔かれ続け、悔い改めと永遠の命をもたらします。だからぜひ、受け入れがたい神の言葉も、理解しがたいたとえ話も、繰り返し、一緒に読んでいきたいと思います。