ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『聞く耳がなかったら』 ルカによる福音書8:4〜15

日曜礼拝 2023年2月5日


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案 内

華陽教会では、感染症の拡大を受け、奉仕者6〜7名、教会員3〜4名、新来者1〜4名に調整して、配信と並行して礼拝を行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

                         

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神/見よ、主なる神。(イザヤ書40:9b〜10a)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、旧讃美歌83番「めぐみのひかりは」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(差し支えない方は、お立ちください)

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

◆全ての者を癒される私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝を始めることができ、感謝いたします。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。この一週間も、様々な言葉と出会う中で、聞きたいことだけを心に留めて、聞きたくないこと、理解できないこと、考えたくないことを避けてきた自分をお赦しください。どうか今、私たちに聞く耳をもたせてください。

◆私たちの神様。この一週間も、自分を励まそうとする言葉、助けようとする言葉、支えようとする言葉に、気づく力、受けとめる力が持てなかった私を憐れんでください。どうか今、私たちに聞く耳をもたせてください。

◆私たちの神様。この一週間も、私自身の言葉が届かなかった相手、理解してもらえなかった相手、かえって傷つけた相手を癒し、回復させてください。どうか今、私たちに、聞く耳をもたせてください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書8:4〜15(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。交読詩編も同様に後からカットしています。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編147:1〜11(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(ご着席のままで大丈夫です)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、讃美歌21の53番「神のみ言葉は」を歌います。(お立ちください)

 

Lars NissenによるPixabayからの画像

メッセージ

「聞く耳のある者は聞きなさい」……非常に説教くさい言葉ですが、マタイ、マルコ、ルカによる福音書の3つで、イエス様が繰り返し語った言葉です。集まってきた群衆に向かって、傍にいる弟子たちに向かって、イエス様は言いました。聞く耳のある者は聞きなさい……しかし、そのとき語られた教えは、聞いてもよく分からないものでした。

 

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」

 

「イエスはたとえを用いてお話しになった」とあるように、この内容は、直接何かを命じたり、直接何かを説明するものではありません。何を何にたとえているか、前提が共有されなければ、誰にも意味は分かりません。聞く耳があっても、聞いただけで、何をすればいいか、何を意味しているか、理解できるものではありません。

 

実際、いつもイエス様と行動していた弟子たちでさえ聞いています。「このたとえはどんな意味ですか?」すると、イエス様はたとえの意味を話す前に、弟子たちには「神の国の秘密を悟ること」が許されているが、他の人々には「見ても見えず、聞いても理解できない」ように、たとえを用いて話すのだと語ってきます。

 

何だか意地悪に聞こえます。目的もよく分かりません。不思議なことに、イエス様は、みんなに教えを分かりやすく説明するために、たとえを用いるのではなく、他の人々に分からないよう、たとえを用いて話します。弟子たちはこの説明を聞けますが、群衆の多くは聞けません。彼らは解説なしで、たとえだけを聞かされます。

 

弟子たち以外は、たとえの説明を聞く資格がなかったんでしょうか? しかし、集まってきた群衆は、方々の町から、イエス様の話を聞きに、はるばるやって来た人たちです。イエス様に病気を癒してもらった人もいれば、イエス様の仲間になりたくて、ついてきた人もいたはずです。

 

イエス様の話を邪魔したり、拒絶するために集まっていたわけではなく「聞く耳を持って」集まっている人たちもたくさんいました。聞く耳がないなら、はじめから町や村を超えて、わざわざやっては来ないからです。それなのに、イエス様は「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」ように、たとえを用いて語ります。

 

神の国について教えるために人々へ話をしているのに、みんなが分からないように意味を隠して教えを語る。ものすごく矛盾したことが行われており、この矛盾は、現在の私たちに対しても続いています。なぜなら、多くのたとえ話で、弟子たちが聞いたイエス様の解説が載っているのは、聖書の中に一つか二つしかないからです。

 

おかしいですよね? 神の国の秘密なのに、最も重要な教えなのに、そのほとんどが記されず、聞いてもすぐには分からない、たとえばかりが記される。弟子たちはなぜ、自分たちに教えられた、たとえ話の意味について、ちゃんと残さなかったんでしょう? なぜ、後の世代に書き残すよう継承しなかったんでしょう?

 

多くのたとえが、意味を記されなかったおかげで、今でも、牧師、神学者、聖書学者の間で、それぞれの解釈について、様々な議論が展開されます。「このたとえはこういう意味ではないか?」「いや、こういう意味にもとれる」「いやいや、こういう捉え方もある」……正しい解釈が見つかったと思っても、また別の、新たなメッセージを受け取ることがでてきます。それこそ、信徒一人一人の間でも、違ったメッセージが受け取られていきます。

 

数少ない、たとえ話の解説が記された「種を蒔く人」の話でも、最初に「種は神の言葉である」と説明され、それぞれの土地が「神の言葉を聞く人々」を指している……と分かりますが、最終的には「種」が「神の言葉を聞く人々」に置き換わります。つまり、自分たちを「神の言葉が蒔かれる土地」として捉えるか、自分たちを「それぞれの土地で御言葉を実らせる種」として捉えるか、人によって変わってくるんです。

 

イエス様が弟子たちに教えた「たとえ話の意味」でさえ、「一つの正しい解釈」のようなはっきりしたものは示されません。聞く人によって、聞いたときによって、異なる解釈を与えられます。イエス様の教えを理解したい、実践したいと思っている「聞く耳のある」人たちも、明確な答えは与えられず、「この捉え方でいいのかな?」「他にも意味があるのかな?」と自問させられ続けています。

 

なんとなく、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたら、「聞けば分かるだろう」という印象を受けますが、むしろ、聞く耳のある者こそ、聞いても分からないのが自然なんです。あなたが聖書を開いて、イエス様の言葉を目にし、耳にし、「分からない」と唸るとき、あなたは確かに、イエス様が種を蒔いた「聞く耳のある者」なんです。

 

もしかしたら、イエス様の言葉が理解できず、困惑し、つまずいてしまうのは、自分には「聞く耳がないからなんだ」と感じるかもしれません。自分には「信仰的な土台がないから」「信仰者として未熟だから」聖書の言葉を正しく聞くことができないんだと思われるかもしれません。

 

しかし、イエス様の言葉を聞いてつまずくのも、分からないのも、すぐには悟らないのも、弟子たちと一緒です。「そのたとえはどんな意味ですか?」と聞きたくなるなら、あなたは神の国の秘密を悟ることが許されている、あの弟子たちと一緒です。

 

思い出してください。弟子たちもまた、復活したイエス様を見ても、イエス様と分からず、イエス様が復活すると聞いても、理解できない人間でした。「見ても見えず、聞いても理解できない」人たちでした。たとえどころか、直接何が起こるか、はっきり聞かされていても、分からなかった人たちでした。

 

しかし、彼らに蒔かれたイエス様の言葉は、そのまま奪われたり、枯れてしまったり、覆い塞がれたままにされることはありませんでした。復活したイエス様が、彼らを耕し、水を与え、茨を刈り取って、良い土地になるまで、実を結ぶまで、付き合い続けてくださったからです。

 

聖書に記されたたとえ話は、そんなイエス様と出会うための言葉です。他人から教えられる正解ではなく、あなたがイエス様に「どんな意味ですか?」と尋ね求め、メッセージを受け取るように促されています。弟子たちも、一人一人、イエス様から、自分に語られるたとえの意味を聞きました。

 

それは、何か一つの正しい受け取り方を聞いたのではなく、自分の直面している現実の中で、自分にとって意味を持った、たとえの意味を聞いたんです。ペトロはペトロに、ヤコブはヤコブに、ヨハネはヨハネに語られた、イエス様のたとえの意味を聞きました。それは自分に語られた言葉で、自分に悟ることが許されたものでした。

 

だから、あなたにも、あなたが悟ることを許されている、たとえ話の意味があります。イエス様が語るたとえ話は、みんなに語られたものでありながら、あなただけに語られたものでもあるんです。同時に、あなたが受け取ったメッセージは、誰かの土地に蒔かれる種となり、誰かが受け取ったメッセージは、あなたの土地に蒔かれる種となります。

 

イエス様は繰り返し言いました。あなたが信じて救われるように、あなたが御言葉の種を実らせるように、あなた自身が、御言葉の種となるように、「聞く耳のある者は聞きなさい」と、たとえ話を語りました。「このたとえはどんな意味ですか」と、あなたが自分へ聞きに来て、自分と新しく出会うように、今日もイエス様は語っています。

 

困惑する者、分からない者、つまずいた者……自分に自信を失って、何も変わらないと項垂れている者、安心して聞きなさい。あなたの耳は確かにイエス様の言葉を聞いています。あなたが見ているものを見えるようになるまで、聞いているものを理解できるようになるまで、イエス様は出会い続けます。閉じている口を開き、共に賛美を合わせましょう。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、オンライン賛美歌7番「何も変わらないと(A)」(©︎柳本和良)を歌います。オンライン賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。(お立ちください)

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください)(お立ちください)

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

 

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。

 

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください)(お立ちください)

 

 

愛 餐

本日は、共に礼拝をささげる全ての人と神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。配信を見ながら礼拝をささげている方も、お家にあるパンと水を用意して、一緒にこの食事にあずかれます。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。共に、神様が備えてくださった見えない食卓にあずかりましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1、2節を歌いましょう。御着席いただいたままで大丈夫です。

 

食卓への招き

かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」

 

また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」

 

主は、少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。

 

信仰を告白した人があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合いたい方は誰でも、パンと水を手に取って、共に食事を味わいましょう。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげます。

 

恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。

 

様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑い迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。

 

分かち合い

共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、このパンと水は、信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。中部学院大学・短期大学聖歌隊の皆さんも、一緒にパンと水をいただけます。どうぞ、用意しているパンと水を手に取って、神の祝福にあずかりましょう。

 

主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。

 

主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と平和の源である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。

 

足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者が与えられます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」3節を歌いましょう。御着席いただいたままで大丈夫です。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。(初めての方は、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください)

 

献金の祈り(例)

変化と回復をもたらす私たちの神様、あなたから受ける言葉によって私たちは新しく生かされます。今からのち、私自身の生き方が変えられていくしるしとして、ここにささげた供え物を受け入れてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の4節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌10番「祝福」を歌います。(A)のところは牧師が、(B)のところは会衆が、(全員)のところは一同で歌いましょう。(お立ちください)

 

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを世に遣わします。(『讃美歌21』の93-6-2 ヨハネによる福音書17:18より)

 

祝 福

どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(テサロニケの信徒への手紙二3:16)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった13名、同時に視聴された8名、計21名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。

 

来週も、奉仕者6〜7名、教会員1〜4名、新来者1〜4名の10名前後に調整し、配信と並行して行う「調整型小規模礼拝」を行います。教会員の方は2月末まで、出席できる日曜日を牧師へご連絡いただき、参加日を調整しています。

 

諸事情で当日キャンセルする可能性がある教会員、客員、求道者の方も、それを見越して調整するので、遠慮なく、希望日を牧師までお伝えください。始めてくる方や2ヶ月以上礼拝へ来ていない方は、問い合わせなしで参加できます。

 

また、教会学校、聖書研究祈祷会、キリスト教ABC講座については、平均5名前後の集会なので、感染症対策をして、誰でも集まれるようにしています。体調と相談してお越しください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。