ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『癒すことより難しい?』 ルカによる福音書5:12〜26

日曜礼拝 2023年2月12日


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案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、日曜日の礼拝も配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

                         

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録3:6)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、旧讃美歌83番「めぐみのひかりは」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(差し支えない方は、お立ちください)

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

◆赦しと和解をもたらす神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝を始めることができ、感謝いたします。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。12月25日から人数を制限して礼拝に集まっていましたが、ようやく今日からみんなで集まれるようになりました。どうか今、ここに集まった一人一人の健康と安全を守り、豊かな礼拝にあずからせてください。

◆私たちの神様。みんなで集まれるようになってからも、なかなかここへ来られない人にあなたの恵みがありますように。どうか今、離れている人、配信を見られない人にも、希望と力を分けられるように、私たち一人一人を用いてください。

◆私たちの神様。寒波や地震や噴火によって、豪雨や台風や土砂崩れによって、困難を覚えている人に、あなたの慈しみがありますように。どうか今、それぞれの心身と生活が回復し、新しい日常を築けるように、一人一人を支えてください。

◆私たちの間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書5:12〜26(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。交読詩編も同様に後からカットしています。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編103:1〜13(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(ご着席のままで大丈夫です)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、讃美歌21の132番「枯れた谷間に野の鹿が」を歌います。(お立ちください)

 

Gerald OswaldによるPixabayからの画像

メッセージ

聖書に出てくる「病の癒し」は、私たちに色んなことを期待させます。重い皮膚病にかかった人が、イエス様に「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と告白したら、彼の病気が癒やされたように、私も、「イエス様は、自分を清くすることがおできになる」と告白したら、病気を癒してもらえるだろうか?

 

体の麻痺した友人を、イエス様に癒してもらおうと、仲間たちが、家の屋根をはがしてまで運び込んだときのように、私の大切な友人も、イエス様へ必死にお願いしたら、不自由な体を、善くしてもらえるだろうか? 「癒やされる」と信じたら、「神様はおできになる」と告白したら、誰にも治せなかった、怪我や病や障害も、綺麗に治していただける。

 

そういう期待を持ちながら、私たちは聖書を開き、賛美をささげ、教会へ集まって祈りを合わせます。「この痛みを取り去ってください」「この苦しみをなくしてください」「この身を自由にしてください」「この人を、あの人を、回復させてください」……あの日、あの時、イエス様が行ったように……。

 

けれども、どんなに祈りを合わせても、回復の兆しが見えないとき、改善する様子が見られないとき、私たちは不安になります。もしかして、私がどんなに祈ろうが、どんなに祈ってもらおうが、現実に、病気が癒やされることはないんだろうか? 私の祈り方が悪いんだろうか? 信じる気持ちが足りないんだろうか?

 

それとも、「祈ったら病気が治る」とか「信じたら障害が治る」とか、そういうこと自体期待してはいけないんだろうか? 願っても仕方ないんだろうか? 治らなければ、善くならなければ、「御心じゃなかった」「神様は治そうと思われなかった」と受け入れて、諦めるしかないんだろうか?

 

「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」……重い皮膚病にかかった人が、イエス様へそう願ったとき、彼はどんな返事を予想していたんでしょう? 

幸い、イエス様は「よろしい。清くなれ」と答えてくれますが、別の返事を想像しなかったわけではないでしょう。

 

「あなたを清くすることは、御心ではない」「神様に、あなたを清くするつもりはない」一番恐れる返答が、頭の隅に浮かんできます。彼と違って、現代を生きる私たちは、イエス様と直接言葉を交わすことはできないので、このようにストレートに返ってくることはありません。でも、願いが聞かれなければ、何も変わらなければ、「御心じゃなかった」「神様に私を癒す意志はなかった」と思うようになるでしょう。

 

つまり、私の願いどおりになることは、赦されなかった……と。そのように願う資格がなかったのか、そのように願うこと自体が間違っていたのか、分からない。だけど、たぶん、そういうことだろう。私は神様から、病気が治ることを、清くなることを、赦されていないんだろう。それを求めても仕方がないんだろう。

 

ところが、聖書には、「病気を癒してほしい」「不自由な体を治してほしい」とイエス様に訴えて、その願いを聞いてもらった多くの人が出てきます。人々へ「そのように願ってはならない」とイエス様が戒めたり、神様が禁じたりすることもありません。あなたが、自分自身や大切な人の回復を願うことは、決して、赦されていないことではありません。

 

子どもができるよう願い続けても子どもができず、年老いてしまった人。12年間、祈り続けても病気が治らず、出血が止まらなかった人。38年間、自由になりたいと願っても体が動かず、誰にも治してもらえなかった人……本人も、周りからも、「自分が癒やされることは御心じゃなかったんだ」と感じている人たちに、イエス様は語ってきました。

 

「あなたの信仰が、あなたを救った」「あなたの願いどおりになるように」……あなたが今日まで癒されなかったのは、神様が、あなたを癒す意志を持っていなかったからではない。神様に、あなたを清くする意志がなかったからではない。あなたがそう願うことを、あなたの願いどおりになることを、神様が赦していないからではない。

 

今日、神の業がこの人に現れるためである。今、この時、あなたを救うためである。今日まで癒されなかったのは、今日まで赦されなかったからではない。神様は、あなたの罪を赦される。神様は、あなたを清くされる。あなたは汚れた人ではない。あなたの信仰は欠けてない。

 

同時に、神様に願ったら、必ずその通りになるわけではないことも、聖書は包み隠さず記しています。晩年、病が癒やされず、一箇所に留まって、手紙を書き続けることになった宣教者パウロも、十字架につけられることを恐れ、「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と願ったイエス様も、その願いは聞かれませんでした。

 

しかし、そのとき願った以上のことが、神様によってもたらされます。癒されなかった棘のゆえに、あちこちへ手紙を送ったパウロの言葉は、彼の期待をはるかに超えて多くの人へ、何世代も伝えられていきます。取り除けてもらえなかった十字架のゆえに、殺されてしまったイエス様は、3日目に復活し、弟子たちみんなと再会します。

 

私の願ったとおりにならなかったら、神様の御心じゃなかったら、それは間違った思いなんだ、赦されてないことなんだ……そういうふうに、すぐ下を向く私たちに、神様は、「そうじゃないよ」と語ります。あなたの願いを「聞くつもりはない」と切り捨てることも、「その信仰では足りてない」と打ち捨てることもありません。

 

イエス様は、多くの病人を癒しましたが、その目的は、彼らに「罪の赦し」がもたらされたことを人々に示すためでした。重い皮膚病が癒やされた人にも、イエス様はまず「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」と命じました。それは、その人の罪が赦され、神に清められたことを、みんなに認識してもらうためでした。

 

イエス様に多くの悪霊を追い出してもらい、一緒についていきたいと願った人も「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と命じられます。それは、神様に赦されていないと思われている人が、神様に赦され、清められていることを、最も近しい人たちに認識してもらうためでした。

 

多くの人は、怪我や病気や障害を負って、それらが癒やされない状態を見ると、何か悪いことをしたから、神様に赦されていないから、この状態が続くんじゃないか? と感じてしまいます。自分が癒やされないのは、神様に赦されないほど酷い人間だから、善く思われていないからと、心をすり減らせてしまいます。

 

しかし、イエス様があなたに伝えたいのは、神様があなたを赦されていること、あなたを清められたことです。イエス様がたくさんの人を癒してきたのは、「赦されていない」「赦されることはない」と思われてきた一人一人に、赦しをもたらされたことが、信じられるようになるためです。

 

イエス様は、体の麻痺した人を前にして、「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいか? と聞かれました。普通、体の麻痺した人間を癒すことほど難しいことは、そうないように感じられます。しかし、イエス様はそれ以上に難しいことをするために来たんだと言うんです。

 

「あなたの罪は赦された」それを伝えるために来たんだ。イエス様は、一人一人に、神様が赦しをもたらされたことを示すために、歩けなかった人を起き上がらせ、見えなかった人の目を開き、重い皮膚病の人を清くされました。この人たちは赦されているとみんなに宣言されました。あなたにも、神の赦しがもたらされています。あなたが赦されていることを、あなたの隣人に、あなたの家の人に、知らせる出来事がもたらされます。

 

もしも今日、自分の願いが「御心じゃなかった」と感じていて、「神様に自分を癒す意志はない」と思っているのなら、何年もそのように思わされていた人たちに、イエス様が語った言葉を思い出してください。「人よ、あなたの罪は赦された」「あなたの信仰が、あなたを救った」「あなたの願いどおりになるように」……私もそのように祈ります。アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、オンライン賛美歌7番「何も変わらないと(A)」(©︎柳本和良)を歌います。オンライン賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。(お立ちください)

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください)(お立ちください)

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。

 

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください)(お立ちください)

 

 

聖句と主題

今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。使徒言行録26:16。

 

年間聖句

起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。(使徒言行録26:16)

 

年間主題

華陽教会では、今年度「これからの教会を考える」というテーマで、使徒言行録26:16を年間聖句にしています。

 

今週は、病気で教会に来られない人、介護で家を空けられない人、子育てで礼拝に出られない人のために、同じ会衆として何ができるか、共に向き合っていきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。(初めての方は、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください)

 

献金の祈り(例)

変化と回復をもたらす私たちの神様、あなたから受ける言葉によって私たちは新しく生かされます。今からのち、私自身の生き方が変えられていくしるしとして、ここにささげた供え物を受け入れてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の2節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌10番「祝福」を歌います。(A)のところは牧師が、(B)のところは会衆が、(全員)のところは一同で歌いましょう。(お立ちください)

 

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(ルカによる福音書5:24より)

 

祝 福

神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために。(詩編67:2〜3)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった19名、同時に視聴された13名、計32名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。

 

華陽教会では、「岐阜県医療ひっ迫防止対策強化宣言」が一週間前倒しで、5日に解除されたことを受け、今週から「三密を避けた会衆礼拝」を再開しています。教会員も、客員も、求道者も、新来者も、問い合わせなしで集まれる様にしています。

 

教会学校こども礼拝、聖書研究祈祷会、キリスト教ABC講座についても、引き続き、感染症対策をして、誰でも集まれるようにしています。それぞれ体調と相談してお越しください。それではまた日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。