ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『試すなと言われても……』 出エジプト記17:3〜7、マタイによる福音書4:1〜11

礼拝メッセージ 2020年3月1日

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【試してしまう信仰】

新型コロナウイルス感染症に伴って、多くの教会で礼拝の中止を検討しています。華陽教会もどうするべきかずいぶん悩み、この一週間はひたすら感染症について調べることが増えました。

 

幸い、新型コロナはインフルエンザほど感染力が強くなく、電車やレストランなどで空間を共にしたぐらいでは感染しにくいことが分かっています。咳やくしゃみによる飛沫感染も、思っていたより深刻ではなさそうです。

 

どうやら、トイレやドアノブ、手すりなどに付着していたウイルスに触れて、目・鼻・口などの粘膜に入ってしまう「接触感染」が主な原因みたいです。手洗い・除菌を徹底し、人混みを避け、休息をしっかり取るようにすれば、極端に恐れる必要はありません。

 

けれども、少し前のニュースで、韓国のキリスト教系新宗教での集団感染が話題になりました。やはり、礼拝などの集会へ行くと感染してしまうんじゃないか? と多くの人が不安になったと思います。

 

ただし、この集団感染が起こったのは、「会衆に隙間なく密着させて座らせ」「信者にマスクをつけさせず」「感染が疑われても検査を拒ませる」ということがあったからで、お互いに間を空けて座り、十分な換気を行い、タオルや食器などの共有を避ければ、感染のリスクはだいぶ減らせます。

 

ただ、そういった感染対策をきちんとしないで、「恐れず礼拝に出席しましょう」「礼拝は何があっても中止してはなりません」と無批判に訴えることは、信仰的にも健全でないと思います。

 

「熱心に礼拝へ出ていれば、神様が感染症から守ってくれる」「このような悪魔の働きは退けられる」……そんなふうに、信仰上の行動を美化することで、かえって、神様を試すことになる場合もあるからです。実際、イエス様を誘惑した悪魔も、危機的状況で、「恐れず足を踏み出しなさい」とささやきます。

 

「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」……確かに、聖書にはそう書いてあります。悪魔の言うことは嘘ではありません。

 

むしろ、飢えと攻撃と孤立に苦しむ人たちにとって、一見「信仰的」な提案です。なぜなら、悪魔の言ったことは、「私は神の子、神に守られている存在だ」という確信がなければできないことだからです。

 

【悪魔の信仰的提案】

最初の提案は、40日間、昼も夜も断食していたイエス様に、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」というものでした。ちなみに、成人男性が何も食べずに生きることができるのは、だいたい36日間……イエス様、紛れもなく瀕死状態です。

 

今にも飢え死にしそうな状況でパンを求めて叫ぶことは、正当で自然な権利でしょう。「欲張りだ!」なんて誰も言いません。しかも、「石がパンになるよう命じる」なんて「本当にそのとおりになる」という確信がなければできません。

 

この行動ができるのは、さぞ強い信仰を持った人でしょう。ところが、イエス様はこう返します。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」

 

イエス様は、無批判に悪魔の言うことに従いません。一見、信仰的に見える態度を冷静に退け、「信仰的な確信」と「自分に都合の良いことを信じ込む態度」は、違うことを示します。

 

2つ目の提案も、悪魔という敵から攻撃を受けている人にとって、やはり「信仰的」に映るでしょう。落ちれば死ぬような高い所に連れてこられ、悪魔に背中を取られた状態……この状況を打破するために、神様に守られると信じて飛び降りる行動は、まさに、思い切った「信仰的」姿かもしれません。

 

貧しい人が、「神様はきっと豊かにしてくださる」と信じ、生活費を全部献金してしまう。体を壊している人が、「神様がきっと健康にしてくださる」と信じ、無理な奉仕を続けてしまう。若い学生が、「神様はきっと命を守ってくださる」と信じ、宣教団体から危険な地域へ送り出される……これまでも度々、信仰的姿として取り上げられてきた態度ですが、それは教会の都合かもしれません。

 

イエス様は飛び降りないし、自分の身を投げ出さない。それは「あなたの主である神を試すことに他ならない」と訴えます。危機的状況で恐れず身を投げ出すこと、無批判にリスクを冒すことは、「ここまでしたから、私の願いは叶えられる」「こういう姿勢を見せれば聞いてくれる」という交渉によって救われようとする態度になりかねません。

 

さらに、3つ目の提案では、「この世のすべての国々と繁栄さえ、願えばみんな叶えられる」という魅力的なことが語られます。金持ちになることも、会社の社長になることも、有名人になることも、世の中のトップになることも、言うことを聞けば叶えられる。

 

そこまで本気で信じたら、もはや立派な「信仰」ですよね? でも、それって本当に、神様に対する「信頼」なのか? 実は、自分にとって都合の良いことを信じているに過ぎないんじゃないか? 

 

そう、私たちは結局、どこまですれば願いを叶えてくれるのか、神様を試して生きています。最初に読んだ出エジプト記の話でも、着の身着のまま荒れ野へ出てきたイスラエル人が、渇きに困って、神様を試し始めます。

 

「我々は危険を冒してエジプト人から逃げてきたのに、神は水さえくれないのか?」「ここまでしたのに、ここまでついてきたのに、願いを叶えてくれないのか?」……聖書はこれを、人々が神を「試した」出来事として記します。

 

残念ながら、私たちも、教会も、同じことを繰り返してきました。悪魔の提案は、「非現実的なことを信じ」「恐れず自分の身を投げ出し」「願えば全ては叶えられる」という、一見、信仰的に見えるものでした。試すなと言われても、ついついやってしまいます。

 

しかしそれは、神に対する信頼ではなく、自分に都合の良いことを信じる、健全でない態度でした。イエス様は、それらを退ける姿を見せられます。ここから、私たちも学ばなければなりません。

 

基礎疾患や体の衰えによって感染のリスクが高いとき、皆さんもどうぞ休んでください。神殿の屋根から飛び降りるように、無茶して礼拝へ来る必要はありません。神を試すような信仰生活を送ることはないんです。再び礼拝へ来られるように、体を大事にしてください。

 

【苦しみの前の食事】

私たちはこの後、十字架につけられる前日の夜、イエス様が弟子たちと共にした「主の晩餐」にあずかろうとしています。聖餐式は、苦しみの前の食事であり、復活の後の食事です。

 

今週から、イエス様が受けられた苦しみと十字架を覚える受難節に入りますが、信仰者は度々、「神の民」「神の子」として生まれ変わったにもかかわらず、多くの誘惑や苦難に遭います。

 

信仰を持てば、誘惑に遭わないわけでも、悪い事件を避けられるわけでもありません。イエス様自身も誘惑に遭い、苦難を受け続けてきました。あなたが誘惑や苦しみに遭うとき、それは不信仰のしるしではありません。

 

むしろ、苦しみを共に担われたイエス様を思い出すよう、聖書は私たちに勧めます。聖餐式も、これから苦しみに遭うかもしれない私たちに、イエス様がどこまでも一緒にいてくださると思い出させる食事です。共に、この食事を通して誘惑に向き合い、苦難を過ぎ越す力をもらって、新しい日常へと出て行きましょう。

 


『試すなと言われても……』出エジプト記17:3〜7、マタイによる福音書4:1〜11