ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『あなたは天国? それとも地獄?』 ローマの信徒への手紙10:5〜17。

礼拝メッセージ 2020年6月14日


『あなたは天国? それとも地獄?』ローマの信徒への手紙10:5〜17

 

 

招 詞

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16)

 

讃美歌

讃美歌21の419番を歌いましょう。(マスクをしておられない方は受付で配布しているマスクをご着用ください。前後左右の人と十分に距離をとって小さな声で歌いましょう。)*会衆が7名を超えた場合は、奏楽に合わせて牧師が歌詞を朗読します。

 

お祈り

共に祈りを合わせましょう。

 

◆愛と力の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝を始めることができ感謝致します。どうか今、家庭で、職場で、施設で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様、教会員が半分ずつ礼拝へ集まるようになってから4週目を迎えました。この一ヶ月、行き来を再開した一人一人を守ってくださり感謝致します。どうか今、顔を合わせられない人との間にも、あなたのつながりをもたらしてください。

◆私たちの神様、怪我や病気の治療をしている方、心と体を休めている方、変化と回復の準備をしている方に、あなたは沈黙と揺らぎをもたらします。どうか今、動揺し、混乱し、かき乱されている人のそばに、あなたがいることを思い出させてください。

◆私たちの神様、周りが良い方向へ向かうときも、人は様々なものに蝕まれます。どうか今、消え去りたい人、投げ出したい人、罰されたいと思う人に、あなたの癒しと安らぎを与えてください。

◆私たちに現れたイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ローマの信徒への手紙10:5〜17。

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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Karina CubilloによるPixabayからの画像

メッセージ

 

救われるか救われないか

キリスト教の「救い」と聞いて、最も多くの人がイメージするのは「天国へ行けること」でしょう。教会で「どうすれば救われますか?」と尋ねられたとすれば、十中八九「どうすれば天国へ行けますか?」という質問です。言葉には出さなくても、普段から気になっている人が大半でしょう。

 

いったい誰が救われて、誰が救われない運命なのか? 誰が天国へ行ける人で、誰が地獄へ落ちる人なのか? 心の中でついつい考えてしまいます。「この人は天国へ行けるだろう」「あの人は地獄へ落ちるだろう」「その線引きは、きっとこれくらいのものだろう」……みんなが超えてはならないライン、救われるための条件について想像します。

 

これだけの罪を犯したら、地獄に下るのは免れない。これだけの徳を積んだなら、天国へ上ることが許される。あるいは、これだけ罪を犯しても、これだけ徳を積み直したら、条件は満たされるはず……そんな計算をしてしまうのは、浅はかですが自然なことです。かつて、律法を授けられたイスラエル人も同じことを考えました。

 

神様から与えられたこの掟を守れば救われる、守れなければ救われない。何らかの罪を犯してしまったら、掟に従ってこれだけのものを捧げ、これだけの償いをしたら赦される。それができない人、それを果たさない人は赦されない。ある意味、非常に親切な考え方でした。誰だって救われてほしい人、救われたら納得できない人がいるからです。

 

納得できない救い

先ほど読んだ聖書箇所の冒頭には、「万人の救い」というドキッとする見出しが書いてあります。これは、最初から聖書にあったものではなく、どこに何が書いてあるのか見つけやすくするために、新共同訳が作られたとき、後から付け加えられたものです。「万人の救い」……ある人にとっては安心できる、ある人にとっては承認しがたいテーマです。

 

何せ、どんな人でも誰であっても救われるなら、神様を信じ、洗礼を受けなくても、みんな天国へ行けるのか? という疑問が生じてくるからです。それなら、洗礼を受ける意味、神様の教えを守る意味は何だろう? 信仰のために命をかけて、愛を実践してきた人たちは、不信仰で不道徳な人たちと、変わらない扱いになるんだろうか?

 

そんな不公平、神様は許されるのか? 救われるためには最低限、自分の罪を反省し、悔い改めて償おうとする姿勢が必要ではないか? 殺された人と殺した人、守った人と傷つけた人、庇った人と傍観した人が一緒に天へ上げられるのは、苦しみ、痛み、悲しんできた人たちが望む「救い」になり得るんだろうか?

 

信仰者でなくとも、この問いは切実なものと言えるでしょう。ぼんやりと「死んだら天国へ行ける」と思っている私たちですが、そこに自分を傷つけた人、あるいは自分が傷つけた人も行くと聞いたら、ちょっと尻込みしてしまいます。相手にせよ、自分にせよ、「同じ場所に行く資格はない」「このままで赦されるわけがない」と思うからです。

 

条件なしに全ての人が救われる! という話には、正直救われない人がいます。「良い知らせ」として受け取れない人がいます。せめて何かしらの変化、これまでと違うしるしを得てから、救いに至ってほしいと思う……私はその気持ちが間違っているとは思いません。神様もイエス様も、人々に繰り返し変化を求めてきたからです。

 

救いに必要な条件?

じゃあ、その変化とは何なのか? 万人が救われるために、天国へ上げられるために、必要なしるしは何なのか? ローマの信徒への手紙にはこう書いてあります。「口でイエスを主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」

 

これを聞いて、ホッとする人と不安になる人がいるでしょう。「悪人も無条件で救われるわけじゃないんだ」「信仰者と不信仰者が同じように扱われるわけじゃないんだ」と思った人……「善人でも信仰を告白しなければ救われないんだ」「洗礼を受けてない家族や友人もアウトなのか」と思った人……皆さんはどちらでしょうか?

 

私の周りでは、後者が多いように感じます。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」……こう書いてあるけれど、実際には教会へ行こうと言っても聞いてくれない。聖書の話をしても耳を貸さない。あるいは、それを恐れて自分から話しかけられない。そういう家族や友人を持つ人たち。

 

もう聞くことから無理なんです。聞いているけどダメなんです。私の言うことは届かないし、いつまでも受け入れてもらえない。私の押しが弱すぎて、あるいは私が頑固すぎて、もしくは私の言い方がダメなせいで、誰も信仰に至らないんです。神様、いったい誰が天に上るんでしょう? 彼らも天からこぼれ落ちてしまうんでうすか?

 

聞かない人の救い

こういった嘆きは、聖書の中にも繰り返し出てきます。正真正銘、神様から選ばれて、神様の聖霊を受けた預言者や使徒たちでさえ、そうでした。「誰も話を聞いてくれません」「私の言葉は届きません」「信じる人がいないんです」……失意のうちに、彼らが諦めた人のところへ、神様はまた別の人を遣わします。

 

神の言葉を聞き入れず、受け入れず、信じない人が集まる場所へ、何度も、何度も新しい人が遣わされる。イスラエルはまさにそういう場所でした。ユダヤ人の会堂もそうでした。ローマ、コリント、ガラテヤ、エフェソ、フィリピ、コロサイ、テサロニケ……教会が建ったこれらの場所もそうでした。

 

イエス様が教えた場所、語った場所も、大半は「話を聞かない人」のところでした。イエス様が弟子たちを遣わしたのも、「話を聞かない」「信じて受け入れない人」が居るところ。ようするに「救われない人」のところです。とっくに「滅すぞ」「締め出すぞ」と言われた人たちのいるところ。

 

けれどもそこで、話を聞く者、受け入れる者、信じる者が現れて、やがて教会が建っていきます。神様に遣わされた多くの人は、直接その様子を知りません。彼らが亡くなり、その手が届かなくなってから、何年も何年も経った後、話を聞かなかった人が聞き、信じなかった人が信じるようになったからです。

 

かつては締め出され、歯軋りするだろうと言われた人たちが、救われないと言われた人たちが、結局、諦めずに語り続ける神様によって、誰かを遣わし続ける方によって、信じて救われる者となっていく。あなたが「話を聞かないところ」に遣わされたように、あなたを信仰に導いた先人たちも、その手が届かないところで信仰の実を結ばされました。

 

私たちの信じるイエス様は、生前会ったことのない、自分を信じることのなかった青年さえ、死者の中から甦らされた方です。誰の言葉も届かない、母親の手さえ届かないところへ手を伸ばし、取って起こし、自らの言葉に従わせます。「起きよ」と言われて聞くはずのない死者を起こし、新しく生きる者へと変えられます。

 

「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない……『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない」この方は場所も時間も生死も超えて、人を救いへ引き上げられ、神の国へと招くからです。どれだけ困難に思えても、聞き、信じ、答えることを果たさせてしまう方だからです。

 

しかも、その業にあなたを用います。どう見てもあなたの言葉が届かない、あなたを受け入れない人のために、あなたを遣わし語らせます。あなたの前にも後にも、その人を救うために繰り返し誰かが遣わされます。だから、信頼して、その人の変化と救いを信じましょう。あなたの手が愛と平和で満たされますように。

 

とりなし

共に、礼拝につながった者として、とりなしの務めを果たしましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

主の祈り

共に、主イエス・キリストが私たちに教えられた、最も基本的な祈りを祈りましょう。

主の祈り

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

 

讃美歌

オンライン讃美歌『恐れ惑うこの身に』(©柳本和良)を歌いましょう。(先ほどと同じように、マスクを着用したまま周りの人と十分に距離をとって小さな声で歌いましょう。)

*会衆が7名を超えた場合は、奏楽に合わせて牧師が歌詞を朗読します。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてところしえに。アーメン。(詩編121:7〜8)