ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『勝たなきゃいけませんか?』 ヨハネの手紙一5:1〜5

日曜礼拝 2020年8月16日


『勝たなきゃいけませんか?』日曜礼拝 2020年8月16日

 

 

招 詞

君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる。(詩編146:3〜4)

 

讃美歌

讃美歌21の485番を歌いましょう。前後左右の人と十分に距離を取って、マスクをしたまま歌います。マスクをしておられない方は、受付で使い捨てマスクをお受け取りください。諸事情でマスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

 

お祈り

共に祈りを合わせましょう。

 

◆愛と平和の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、ここに集まれたことを感謝致します。どうか今、自宅で、職場で、施設で、屋外で、あなたの言葉を必要としている人を祝福してください。

◆私たちの神様、昨日、第二次世界大戦が終わってから75年目を迎えました。この日まで、失わなくて済んだはずの多くの命が奪われました。どうか今、怒りや恐怖やプライドから、大切な命を守らせてください。

◆私たちの神様、かつての戦争や現在の紛争において、私たちキリスト教会も暴力に加担してしまったことを覚えます。どうか今、過ちを繰り返さないための反省と暴力の連鎖を防ぐ責任を果たさせてください。

◆私たちの神様、今も沖縄の人たち、被曝した人たち、元従軍慰安婦の人たち、在日朝鮮の人たちが、様々な負担や消化できない思いを抱えています。どうか今、一人一人に必要な癒しと安心できる社会をもたらしてください。

◆私たちに現れたイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネの手紙一5:1〜5(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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Amber ClayによるPixabayからの画像

メッセージ

勝たなきゃいけない?

「勝たなきゃいけませんか?」って牧師が言うと何だか奇妙に聞こえます。と言うのも、聖書は「勝たなきゃいけない」言葉で溢れているからです。欲望に負けてはなりません! 敵に打ち勝ちなさい! 勝利を目指して進みましょう! 教会で繰り返し、言われてきたことですよね。今更考えることじゃありません。勝たなきゃいけないに決まっている。

 

世の中も「勝たなきゃいけない」で溢れています。コロナに打ち勝とう! 不安に打ち勝とう! 災害に打ち勝とう!……「勝つ」という言葉には、無条件でポジティブな印象がついて回る。人々を励まし、奮い立て、団結させる力がある。なぜなら、誰もが敗北を嫌がるから。負けることを怖がるから。

 

ちょうど昨日は、日本の終戦記念日でした。多くのキリスト者は、この日を「敗戦記念日」と呼んでいます。それは、敗北を認めて降伏すれば、失わずに済んだはずの命を犠牲にし続けてしまったこと、国民に対しても、諸国に対しても、たくさんの被害をもたらしてしまった、反省すべき現実を見つめよう……という意識に基づくものです。

 

ただ私は、神学生の頃、お世話になった先生の影響もあって、「敗戦記念日」という言い方をあまりしません。なぜなら、「次は勝利を記念するぞ」というリベンジのイメージが見え隠れしてしまうから。そして、「負けた側が勝った側より悪い」と見えてしまう構造も、危険に感じられるからです。

 

世に打ち勝つとは?

かつて、私たちの属する日本基督教団も、この戦争に加担して、国家に戦闘機を提供しました。各教会で献金を集めて、武力のために差し出しました。日本の勝利を祈願して、国家のために祈る集会も行われました。「勝利のために」「打ち勝つために」と声高に叫べば、暴力や犠牲者も容易に無視できました。

 

現在のキリスト者も「世に打ち勝つ勝利」を声高に掲げています。何しろ、打ち勝つことは、信仰者であるしるしになります。ヨハネの手紙にもこうありました。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つ」……逆に言うと、打ち勝てない人は神から生まれた者ではない、信仰者とは言い難い。

 

そう、勝利は信仰によってもたらされる。敗北は信仰が弱かった証とされる。ようするに、「正義は勝つ」「勝った方が正義」というシンプルな図式です。必死にならざるを得ないでしょう。感染症に負けて礼拝を休むわけにいかない、家の経済状況に負けて献金を減らすわけにいかない、人間関係に負けて伝道をやめるわけにいかない!

 

自分自身を危険に晒すのみならず、家庭や周囲も傷つきかねない行動を、私たちは容認しながら自分の「敵」に勝とうとします。自分にとって、世の中に負けるとはどういうことか、それぞれの捉え方をします。

 

ある人にとって、世に打ち勝つこととは異教徒を改宗させることでした。ある人にとって、世に打ち勝つこととは同性愛を撲滅することでした。ある人にとって、世に打ち勝つこととは現政権を引き下ろすことでした。ときには、ハラスメントや暴言も辞さず……そこには敵意がありました。人間に暴力を支持する力がありました。

 

正しい者は、間違っている者を懲らしめていい、傷つけていい……そう囁いてくる力。ちょうど、群衆たちが救い主に向かって「十字架につけろ」「殺してしまえ」と叫んだ姿と似ています。

 

彼らは「神を冒涜している」と思う相手に、それを行いました。間違っている相手に打ち勝とうとして、嘲り、罵り、鞭打った。最終的に、彼らは敵を張りつけにして、命を奪い、勝利することに成功します。自分たちの望む裁きを行い、妥協せずに打ち勝った……そう、彼らは信仰者の証を手に入れました。でも、何だか心がザワザワしますよね?

 

打ち勝てなかった人

反対に、世に打ち勝てなかった人たちを思い出してみましょう。旧約には、その代表的な姿が何人か出てきます。たとえば、預言者と呼ばれる人たちです。彼らは信仰によって神の言葉を伝えましたが、ほぼ全員失敗しました。国民を悔い改めさせることができず、国家を正す使命も果たせません。信仰が弱かったんでしょう、勝利に至りませんでした。

 

また、堕落しがちな王の中にも「神に従って歩んだ」と言われるヨシヤがいました。預言者の言うことをよく聞いて、神殿を建て直し、大規模な宗教改革を行った。けれども、あっさり敵に殺されてしまう。信仰が足りなかったんでしょう。彼は敵に打ち勝てず、死んでしまいました。

 

新約にも、勝てなかった人が出てきます。人々に悔い改めのバプテスマを授けたヨハネという人物です。イエス様に洗礼を授けた人。けれども、途中で彼は投獄され、イエス様が本当に待ち望んでいた救い主か不安になり、最終的に首を斬られて死んでいく。信仰が欠けていたんでしょう。彼も成功できずに終わりました。

 

そう、彼らの信仰は、目に見える勝利をもたらしません。預言者の死後も、ヨシヤ王の死後も、洗礼者ヨハネの死後も、長らく勝利は訪れない。彼らの言葉は聞き入れられず、国は滅び、支持していた者まで捕まってしまう。にもかかわらず、彼らの姿は、聖書を読んでいる私たちに「世に打ち勝つ姿」として思い出される。

 

なぜでしょう? 彼らは敵を倒すことも、悪者を傷つけることも、反逆者を懲らしめることもできなかったのに。そう言えば、神の子であり、救い主であるイエス様自信も、世に打ち勝ったとは、とても言えない存在でした。

 

語ったことの多くは理解されず、従っていた弟子たちも離れ去り、仲間の一人に裏切られたすえ、無罪を証明できず、最終的には十字架を担ぐことさえできなくなる。普通なら張り付けにされても数日は保つはずなのに、短時間で息を引き取ってしまう。圧倒的な力で敵を倒し、対立する者を殲滅し、支配する勝利は訪れません。

 

一般的な勝利はここにない。どう見ても、世の中に負けた姿です。にもかかわらず、この方こそ「世に打ち勝つ勝利」をもたらした存在だと、聖書は声高に主張します。暴力を容認し支持する力に抗って、敵を殺すことも反逆者を傷つけることもなく、「和解」によって変化をもたらした唯一無二の平和の王。

 

世に打ち勝つ力

何かに打ち勝とうとするとき、私たちは最短距離で済ませようとします。圧倒的正しさで、殴って、蹴って、叱りつけて、懲らしめることで勝利を得る。みんなが期待している勝利の姿。イエス様も人々からそれを期待されました。ローマ帝国を打ち滅ぼし、ファリサイ派やサドカイ派を蹴散らして、裏切った者、見捨てた者に報いを受けさせる正義の王。

 

けれども、それは本来の「世に打ち勝つ」姿勢ではないんです。イエス様は、みんなが「勝たなきゃいけない」と思うやり方では勝ちません。むしろ、「甘い」「弱い」「徹底してない」と思われがちな「和解」という方法によって、変わらなかった世界を変えていきます。

 

言うことを聞かなかった弟子たちを変え、迫害してくる者たちを変え、愛し合えなかった人たちを仲間にする、勝とうとしていた相手と和解させる……「ヨハネ」という名前がついた文書に繰り返し出てくる「互いに愛し合いなさい」「敵を愛しなさい」という神の掟に基づいて、イエス様は「敵と味方」「勝利と敗北」という境界線を越えさせます。

 

容易にできることではありません。ほとんどの場合、私たちは自分が打ち勝ったとは思えない日々を過ごすでしょう。理想主義だと嘲られ、現実を見ろと罵られ、時には人格を傷つけられ、敗北者として生きるでしょう。しかしそのときこそ、世に打ち勝ったあの人と同じ道に立っています。

 

あなたが勝者と認められない、負けっぱなしに見える道こそ、実は勝利の道なんです。まどろっこしく、選択する者が少ないこの道を一緒に歩いていきましょう。

 

紹 介

本日、初めて教会に来られた方、久しぶりに来られた方で、紹介をご了承いただいた方のみ、受付の方と一緒にお立ちください。今日は( )名の方が来てくださいました。配信に乗らないようにお名前は後ほど紹介させていただきます。神様の平和が皆さんと共にありますように。

 

リタニー(平和を求める祈り)

今日は、いつものとりなしに代わって、平和を求める祈りを祈りましょう。

 

司式者  主よ、あなたは言いました。「隣人を自分のように愛しなさい」と。

会 衆  私たちは、異質なものを嫌がって、しばしば近くの者を排除します。

 

司式者  主よ、あなたは言いました。「あなたの敵を愛しなさい」と。

会 衆  私たちは、自分の正義を振るうため、しばしば愛を忘れます。

 

司式者  主よ、あなたは言いました。「殺してはならない」と。

会 衆  私たちは、愛する人を守るため、しばしばそれを無視します。

 

司式者  主よ、あなたは言いました。「剣を取る者は剣で滅びる」と。

会 衆  私たちは、暴力を封じようと、しばしば武器を手に取ります。

 

司式者  主よ、あなたは言いました。「あなたがたに平和があるように」と。

会 衆  私たちは、あなたに拳を開かれました。剣は地に滑り落ちました。

 

司式者  主よ、あなたは言いました。「平和を実現する者は幸いだ」と。

会 衆  私たちは、あなたに赦され、あなたに期待されました。

 

司式者  主よ、あなたは言いました。「私は誰を遣わすべきか」と。

会 衆  主よ、私がここにおります。私を遣わしてください。

 

司式者  キリストの平和の使者として、行きなさい。

一 同  アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス・キリストが私たちに教えられた、最も基本的な祈りを祈りましょう。

主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

 

(*新来者が来られたとき)献金は神様の恵みに対する感謝の応答です。教会の維持や運営、地区や教区の働き、福祉や慈善活動への寄付に使われます。金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、受付で配られた袋をそのままお入れください。

 

讃美歌

オンライン讃美歌『閉じこもる私たちに』(©柳本和良)を歌いましょう。先ほどと同じく、前後左右の人と十分に距離を取って、マスクをしたまま歌います。諸事情でマスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを世に遣わします。(ヨハネによる福音書17:18より)

 

平和の源である神があなたがた一同と共におられるように。アーメン。(ローマの信徒への手紙15:33)