ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『自分を捨てろ?』 ルカによる福音書9:18〜27

在宅聖研祈祷会 2020年8月19日


『自分を捨てろ?』在宅聖研祈祷会 2020年8月19日

 

 

案 内

華陽教会では、先週の水曜日まで、三密を避けて教会に集まっていましたが、すぐ近くの店舗で新型コロナに感染した方が数名出てしまったことを受けて、本日から8月いっぱいは、再び配信による在宅聖研に切り替えることになりました。またしばらく、画面越しでの祈祷会となりますが、どうかご了承ください。

 

讃美歌

それではただいまより、在宅聖研祈祷会を始めます。最初に、オンライン賛美歌「離れているけれど」(©️柳本和良)を歌いましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と力の源である私たちの神様。今日もまた、配信を通して、離れた人たちと一緒に祈りを合わせる時間が与えられました。どうか今、自宅で、職場で、施設で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様、先日、教会のすぐ近くで新型コロナの感染が確認されたため、本日から再び、在宅聖研に切り替えることになりました。どうか今、感染した方の回復と近くにいる方の健康が守られるように導いてください。

◆私たちの神様、教会も三密を避け、時間を短縮し、なるべくリスクを減らそうとしていますが、いつ感染者が出てもおかしくありません。どうか今、できる限りの予防策と、感染した場合の対応を誠実に行わせてください。

◆私たちの神様、水曜日に限らず日曜日も、感染リスクの高い方や体の不自由な方が、しばらく教会へ来られずにいます。どうか今、その一人一人が慰められ、支えられ、癒されますように、私たちの祈りを聞いてください。

◆私たちと共におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書9:18〜27(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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Gerd AltmannによるPixabayからの画像

メッセージ

独裁主義者?

正直な話をすると、私は「自己否定」とか「自己犠牲」とか「自分を捨てろ」という言葉が苦手です。他ならぬ神様が生かしてくれた自分を否定する、自分自身を犠牲にする、自分の思考を放棄する……それらが健全な信仰を育むとは、どうしても思えないからです。

 

むしろ、「自分を捨てろ」という言葉は、誰かが誰かをコントロールする際、何度も使われてきた言葉です。あなたの考えは間違いだらけ、あなたが犠牲になれば役に立つ、あなたは私の言うことを聞けばいい。

 

まるで、身内を支配するDV加害者のようですよね。あるいは職場のパワハラ上司、破壊的カルトの教祖でしょうか。自分の自信を失わせ、自分の思考を放棄させ、ただ言うことを聞くように、進んで犠牲になるよう求める声は、私にとって恐怖です。

 

厄介なことに、そんな恐怖を感じる発言が、イエス様の口から出てしまいました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」……自分を捨てる、自分の十字架を背負う……もちろん、明るい話ではありません。

 

十字架は、当時の犯罪者に用いられた死刑の道具です。死刑囚自身に、自分が張りつけになる木を運ばせる。もちろん、「日々、自分の十字架を背負って」とあるので、文字通り死ぬことを意味しているわけではないでしょう。しかし、「毎日、重い苦しみを我慢して」私に従うように……というニュアンスは感じられます。

 

さらに、イエス様はこう続けます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」……これもまた、人が自分の命を犠牲にすることを肯定し、容認させるような言葉。なかなかサイコパスな発言です。現在の誰かが発言したら、大問題となるでしょう。他人の命を顧みない独裁主義者に思えます。

 

発言の経緯

イエス様は何でこんな問題発言をしたんでしょう? どうやら、直前に交わされた弟子たちとの問答がきっかけのようです。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」イエス様の問いに対し、弟子たちはこう答えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」

 

ちょうど、イエス様が5つのパンと2匹の魚で5千人の群衆たちを満腹にさせた後だったので、人々の間で「この人は何者?」という議論が再び盛り上がっていたんでしょう。洗礼者ヨハネも、エリヤも、昔の預言者も、既にこの世を去っています。つまり、群衆たちは「この世の者ではない方」として、イエス様を見ていたんでしょう。

 

そこにはおそらく、敵に対する「リベンジ」のイメージがありました。この人はきっと、洗礼者ヨハネを処刑したヘロデや、エリヤに敵対した外国の人たちや、預言者を抑圧してきた為政者へ、仕返しを果たしに戻ってきたと……そう、人々にとってヒーローの復活は敵に報復を果たすためでした。彼らは共通の敵が倒されることを望んでいます。

 

そこで、イエス様は弟子たち自身に尋ねます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」……あなたたちも、私が敵に報復するため生き返った預言者だと思うのか? これに対し、ペトロは思い切った回答をします。「(あなたは)神からのメシアです」

 

メシア、それは神の子救い主の称号です。ペトロは、群衆たちが考えていた以上のこと、「イエス様は、神様に約束された救い主、メシア、神の子に違いない」と告白したわけです。人類史上初めてのことでした。彼は「正解」を言い当てたんです。

 

ところが、イエス様は喜ぶどころか弟子たちを戒めて、このことを誰にも話さないように命じます。そして、自分が多くの苦しみを受けて、聖職者から排斥され、3日目に復活するという理解しがたい話をするんです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言ったのは、この後です。

 

どんな救い主?

非常に不自然ですよね? 「自分はメシアだ」という正解を答えてもらえたのに、イエス様は期待に膨らむ弟子たちへ、ショッキングな未来を予告する。確かに私は、敵へリベンジするために復活した昔の預言者などではない。むしろ、これから聖職者たちに排斥され、処刑され、3日目に復活することになっている。

 

報復のためではなく、和解のために……そう、ペトロはイエス様のことを正しく「メシア」と答えながらも、期待していることは群衆たちと同じでした。この人はきっと、自分たちを支配する外国に、みんなを虐げる為政者に、対立してくる人たちに、報復し、勝利し、復讐を果たしてくださる方なんだと。

 

自分たちを率いて、敵を苦しませ、十字架につけ、倒してくださる救い主だと……そのためなら、弟子たちは一緒に死んでもいいとさえ思っていました。大義のためなら、革命のためなら、牢に入ることも、命を失うことも惜しくないと思っていました。

 

けれども、それはイエス様の目指す救いとは違います。イエス様は、過ちを犯した者や正しく考えられなかった者を犠牲にする方ではありません。むしろ、間違っている者のために苦しみを担い、自分を見捨てる者たちと和解するため、死んでなお、復活して会いにくる平和の王です。

 

「私についてきたい者は、誰かを十字架につけようとするのではなく、自ら十字架を背負いなさい」「報復ではなく、和解を求めてついてきなさい」……そうして、イエス様はまさに先頭に立って、自ら十字架を背負い、誰も犠牲にすることなく、自分を理解しなかった人、自分を見捨てた人たちと和解しに、復活してくださいました。

 

キリスト教における「自己犠牲」や「自分を捨てる」という行為は、自らを蔑ろにすることではありません。周りの変化をあきらめて、自分を犠牲にすることでもありません。むしろ、和解のために、相手と自分が新しく出会うための長い過程と決断です。あなたのもとにも、私のもとにも、その道が正しく示されますように。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(高知県高知市の潮江教会)のために、信教の自由のために、言論の自由のために、表現の自由のために、祈りを合わせます。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆高知県高知市の潮江教会のために祈ります。この教会と土佐教会との宣教協力が深められ、会員一人一人の健康が支えられ、地域と歩む姿勢がますます豊かにされますように。子どもたちとの出会いや交流も祝されますように。

◆信教の自由のために祈ります。あらゆる国や地域で、信じる自由と信じない自由が認められ、尊重されますように。あらゆる団体における自己決定権の侵害が改善されますように。誠実な信仰を育む場所が整えられますように。

◆言論の自由のために祈ります。正義と公正のため、公共の福祉のため、声をあげる人たちの権利が守られますように。大きな力の暴走を止め、誤った方向を正す、報道や発信の妨げがなくなりますように。

◆表現の自由のために祈ります。誰かを故意に傷つけたり、抑圧したりしない形で、思っていること、考えていることを表現する営みが守られますように。建設的な批判と誹謗中傷を見分ける力が養われますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌「恐れ惑うこの身に」(©️柳本和良)を歌いましょう。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

以上で聖書研究祈祷会を終わります。また日曜日まで、あなたに平和がありますように。