ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『たとえになってない』 ルカによる福音書8:4〜15

聖書研究祈祷会 2020年8月12日


『たとえになってない』聖書研究祈祷会 2020年8月12日

 

 

讃美歌

それではただいまより、聖書研究祈祷会を始めます。最初に、オンライン賛美歌「枯れた谷に鹿が」(©️柳本和良)を歌いましょう。飛沫感染を避けるため、フェイスガードやマスクをしたままで歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と力の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、この時間に集まれたことを感謝致します。どうか今、離れている人、ここにいない人も、必要な力を受けることができますように導いてください。

◆私たちの神様、あちこちで新型コロナの感染が再び増えている一方、無事に退院される方、回復する方も増えていることを感謝します。どうか今、極端な不安に飲み込まれず、適切な対応ができますように助けてください。

◆私たちの神様、日曜日の礼拝後に、長らく延期していた臨時総会が行われ、無事に新しい役員が選ばれました。どうか今、これまで役員を担ってくれた方と、これから担っていく方に、あなたの祝福がありますように。

◆私たちの神様、礼拝や聖書研究祈祷会で、久しぶりの再会が日々与えられていることを感謝します。どうか今、病気や怪我の治療をしている人、自宅や施設で療養している人の上にも、あなたの癒しがありますように。

◆私たちと共におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書8:4〜15(新共同訳より抜粋)

 

大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

 

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Pete LinforthによるPixabayからの画像

メッセージ『たとえになってない』

成立しないたとえ

実は、「種を蒔く人」のたとえについて話すのは、華陽教会に来てからもう5回目か6回目になります。イエス様が語った代表的なたとえ話で、マルコ、マタイ、ルカによる福音書で3回登場し、日本基督教団の聖書日課でも度々取り上げられる箇所……何度も読むことになるのは仕方ないかもしれません。

 

問題は、このたとえを聞く度に、2つの点で引っかかってしまうこと。一つは、「種を蒔く人」のたとえとイエス様の説明が、実は成立していないこと。もう一つは、たとえを用いて話す理由が、みんなが理解しやすいようにではなく、一部の人しか理解できないようにするためだ……と言われるところ。

 

そう、このたとえ話はかなり問題があるんです。もちろん、サラッと読んだだけなら、当たり前のことを言っているようにしか見えません。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、ある種は石の上に落ち、ある種は荊の中に落ちてしまった。結局、これらの種は踏みつけられ、鳥に食べられ、荊に覆われて枯れてしまった。しかし、良い土地に落ちた種だけは、百倍の実を結んだ。

 

何も新しいことは言ってないですよね? 作物の種は良い土地でなければ育たない。悪い土地に蒔いても枯れてしまう……だから何? という話です。実際、イエス様が群衆に向かってこの話をしたとき、「なるほど!」と頷いた者は一人もいませんでした。大声で話したにもかかわらず、聞き手の反応はありません。

 

むしろ、反応に困った弟子たちはイエス様に尋ねます。「先生、このたとえはどんな意味があるんでしょう?」……イエス様はずばり、「種は神の言葉である」と答えます。なるほど、これで分かりやすくなりました。「神の言葉」が「種」ならば、その種の蒔かれる「土地」は「聞き手の人間」ということになります。

 

けれども、続きの説明を読んでいくと、途中から聞き手の人間が「土地」ではなく「種」に置き換わっています。もともとは神の言葉が「種」だったはずなのに、おかしいですよね? そう、この話は「種」が神の言葉を指すのか、神の言葉の聞き手を指すのか、はっきりさせることができず、たとえになっていないんです。

 

救われない人たち

つまり、たとえ話の正しい意味は誰にも理解できません。正解がどっちか分からないんです。しかも、イエス様はたとえを用いて話す理由を弟子たちにこう説明します。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」

 

通常、たとえ話は物事を分かりやすく理解するために用いますが、反対に一部の人しか分からないようカモフラージュするのにも使われます。たとえば、上司の行動に不満があるとき、本人には分からないよう、あたかも別の話をしているかのように、同僚とやりとりすることがありますよね?

 

友達の誕生日にサプライズを企画しているとき、本人にバレないよう、プレゼントやケーキを別のものでたとえたり、遠回しな言い方で準備をすることもあるでしょう。そう、たとえ話は本当の意味を知られたくない人がいるときにも使われます。イエス様も一部の人が理解できないように、わざわざたとえ話を語ったようです。

 

けれども、イエス様は誰に教えたくなかったんでしょう? このたとえは、神の国の秘密について、すなわち、神の国に入るための教えです。それを知ることができないのは、神の国に入れない、ようするに救われないことを意味します。イエス様は、ある人が救われ、ある人が救われないように、一部の人しか分からないたとえを用いていた……。

 

それってけっこうショックですよね。イエス様は全ての人を救うためにやって来たと言いながら、最初から一部の人しか救われない教え方をしていた。ここでは、弟子たちだけが秘密を悟ることが許されていると言われています。他の人たちは理解しなくてもいいんでしょうか? 弟子たちさえ救われればいいんでしょうか?

 

耕しにやって来る

もちろん、そうではないでしょう。むしろ、「このたとえはどんな意味ですか?」という弟子たちの反応からも分かるように、彼らにもたとえの意味は伝わっていませんでした。それどころか、たとえの説明を直接された後でさえ、「正解」の意味は分からない。なぜなら、イエス様の説明そのものが、聞き手にどう捉えるか、一人一人選択を迫るものだから。

 

イエス様は私を「土地」にたとえているのか、それとも「種」にたとえているのか、どういう意味で、この教えを捉えるように求められているんだろう?……そう、イエス様は「誰でも分かるように」でも「一部の人だけが分かるように」でもなく「聞き手がどういう意味か問いかけ、自分の頭で考えるように」たとえを用いられたんです。そうやって、硬くなった人々の心がほぐされ、耕されるように。

 

そもそも、「見ても見えず、聞いても理解できない」と言われている姿は、まさにイエス様からたとえの説明をされている弟子たちの姿でもありました。彼らは、イエス様の教えに何度もつまずき、「何を言っているか分かりません」と戸惑い、イエス様が十字架にかけられた後、3日目に復活するという言葉も理解できませんでした。

 

本人からはっきりそう聞いたのに、何を言われたか分からないまま、別れの日まで過ごしました。そして、復活したイエス様をその目で見たときでさえ、最初は誰か分からなかったり、疑ったりしていました。彼らの心は本来、神の言葉が実を結ぶはずのない、荒れ果てた硬い土地でした。また、迫害、孤独、誘惑の環境に放り出された、実を結ぶはずのない種でした。

 

にもかかわらず、イエス様は彼らの心に神の言葉を蒔き続け、実を結ぶまで耕されます。実は、かつてのイスラエルで「種を蒔く」という行為は、畑を耕す前に行われていました。つまり、たくさんの種を蒔いた後、これから土に鍬を入れ、石を取り、荊を抜いていくんです。

 

神様が種を蒔いた後、これから、その土地を耕しに来る人がいます。それが全ての人の心を耕す神の御子イエス様でした。たとえ今、あなたや私の心が荒れ果てて、石だらけで、茨に覆われていたとしても、踏みつけられ、奪い取られ、押し潰される状況でも、ここを耕す方がやって来ます。実を結ばせる方がやって来ます。

 

何を言われているか分からない、自分をつまずかせる聖書の言葉と会ったとき、そのことを思い出しましょう。まさにそのとき、私たちは耕されているところだからです。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(徳島県三好市の阿波池田教会)のために、十分な食事が取れない人のために、十分な安全が確保できない人のために、十分な教育が受けられない人のために祈りを合わせます。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆徳島県三好市の阿波池田教会のために祈ります。この教会に遠くから、山の中から訪れる高齢者の足が守られますように。みんながホッとするような心あたたまる教会を築くことができますように。

◆十分な食事が取れない人のために祈ります。貧しさのため、病気のため、障がいのため、災害のため、必要な食べ物が手に入らない人たちに、あなたの憐れみがありますように。私たちに分け合う術と力を与えてください。

◆十分な安全が確保できない人のために祈ります。安心して眠ることができない人たち、しっかりと休みを取れない人たちに、必要な居場所が与えられますように。そのためのつながりをもたらしてください。

◆十分な教育が受けられない人のために祈ります。経済的な理由や家庭環境、社会の状況によって、教育を受ける機会が妨げられた人たちに、あなたの恵みがありますように。それらの機会を回復させてください。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌「離れているけれど」(©️柳本和良)を歌いましょう。こちらも飛沫感染を避けるため、フェイスガードやマスクをしたままで歌います。

 

沈 黙

華陽教会の聖書研究祈祷会では、メッセージの後、質問や感想などを分かち合う時間と、家族、友人、信徒、同僚、家庭、職場、世界で起きている事件のことなど、それぞれの課題を覚えて祈る時間があります。プライベートな内容も含まれるので、本人の了承がない限り、そこで聞いたことはその場にいる人だけに留めていただいています。配信上では、これらの課題を共有することができないので、しばらくの間、沈黙のときを持ちましょう。それぞれが抱える課題のために、祈りを合わせます。

 

〜沈 黙〜

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

以上で聖書研究祈祷会を終わります。また日曜日まで、あなたに平和がありますように。