ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『空気が凍る食事会』 ルカによる福音書14:1〜14

聖書研究祈祷会 2020年9月16日


『空気が凍る食事会』聖書研究祈祷会 2020年9月16日

 

 

讃美歌

それではただいまより、聖書研究祈祷会を始めます。最初に、讃美歌21の393番「こころを一つに」を歌いましょう。飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と力の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、職場で、施設で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様、国家安全維持法の成立により、警察の取り締まりが強化され、分断と混迷の中にある香港に、あなたの助けがありますように。どうか今、言論の自由、報道の自由、集会の自由、結社の自由が取り戻されるように、諸外国と政治家を導いてください。

◆私たちの神様、三権分立のバランスが崩れかけ、様々な手続きが蔑ろにされている日本の政治に、あなたの助けがありますように。どうか今、適切な手順と意思決定が取り戻され、独裁主義に陥らないよう、国民と政府を導いてください。

◆私たちの神様、将来に期待が持てず、自分の住処や故郷に失望している人たちに、あなたの助けがありますように。どうか今、全体主義や不景気や自由が失われた世界に陥らないよう、全ての人を導いてください。

◆私たちを動かし続けるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書14:1〜14(新共同訳より抜粋)

 

安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 

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Free-PhotosによるPixabayからの画像


 

メッセージ

招かれたくない食事会

誘われたくない食事会って、皆さんにもありますよね? 嫌味ばかり言う上司との飲み会や自分を見下す人たちとのお茶会、あるいは、こちらの振る舞いをネチネチ批判してくる親戚の家……たとえ、「今日うちへ食事に来ない?」と言われても、何かしらの理由をつけて断ろうとするでしょう。

 

だって、行けば嫌な思いをする、自分を貶めようとする、恥をかかせようとするのが分かっていますから。こっちも普段から対立し、表立って非難している相手なら尚更です。まず間違いなく、穏やかな食事にはなりません。「ちょっと飯でも食いながら話さないか?」と言われても、「話を聞く気なんてないだろう?」とごめん被るのが普通です。

 

リベラルな人が、保守派の人から急に飲み会へ誘われる。憲法改正派が、護憲派の人に憲法カフェへ誘われる。LGBTs支援者が、転向療法のセラピストから「お茶に来ない?」と招かれる……それも、周りを対立する人で固められている席です。敵のド真ん中へ、一人で来いと招かれる。嫌な予感しかしませんよね?

 

そう、罠としか思えない状況に、敵陣のただ中に、私たちはわざわざ行こうとは思いません。そこで、一緒に飯を食いたいなんて思いません。むしろ、飯が不味くなるから、そんな席に呼ばないでくれと言いたくなります。もし対立している人と食事をしたら、あいつは敵に寝返ったとも思われるかもしれません。

 

だからこそ、私たちは自分の好きな、安心できる、気の合う人と席に着きます。それこそが、平和を築く方法だと考えます。ところが、イエス様は愚かな行動を見せてきます。なんと、激しく対立していたファリサイ派の家、それも議員の家に招かれて、ノコノコ入ってしまうんです。

 

たとえるなら、政権に批判的な有名人が官邸の食事会に招かれて、一緒にテーブルに着いたようなもの……弟子たちの信頼を落としかねません。イエス様に味方していた人たちもひくような話。同時に、入ったときから敵に様子をうかがわれている。明らかに、何か仕掛けられています。

 

この振る舞いで良い?

その理由はすぐ分かります。イエス様が案内された席の前に、水腫を患った人が座っていました。水疱瘡みたいなものでしょうか。おそらく病気のため、汚れた状態とみなされ、礼拝に出ることが禁じられていた人です。その人に接触すること自体、当時の社会では忌避されていることでした。

 

律法を厳格に守ろうとするファリサイ派の議員の家で、そんな人間がいること自体不自然です。これが自分への罠であることを予感させます。回れ右して帰るべきです。今日は安息日、礼拝が終わった直後で、まだ働くことを禁じられている時間帯。命に関わる病気でないのに、今、彼を治してしまったら、律法違反とみなされます。

 

みんなの前でどう振る舞うか、食事の度に、嫁へ嫌がらせをする姑のごとく、ファリサイ派の目が光っています。ここは一旦帰ってから、安息日が過ぎてから、彼を癒してあげるのが無難です。律法も守れるし、彼も治るし、周りの人にも面目が立ちます。ところが、イエス様はまるでためらう様子を見せず、みんなの前でこう言います。

 

「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」……今、自分が試されていることをハッキリと自覚し、そのことを仕掛けた本人たちの前に晒し、「私の答えはこうである」と突きつけます。黙っているみんなの前で、病人の手を取り、病気を癒してお帰しになった。

 

不思議ですよね。癒してすぐに帰らせず、そのまま議員の家に一緒にいれば、彼も、敵しかいないこの家で、自分を弁護してくれたかもしれないのに。イエス様は、助けた人を一切利用することなく、自ら周りへ語りかけます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか?」

 

確かに、井戸に落ちただけでしたら、すぐ命に関わるわけではありません。日没まで待って、安息日が終わってから引き上げればいい。でも、痛みと不安に泣き喚く息子や家畜は放っとけません。周りに「律法違反だ!」と指をさされようが、彼らも助ける選択をするでしょう。その振る舞いを後から指摘されるとしても。

 

関わるべきじゃない?

「どう振る舞うべきか?」……この問いは、食事の席で度々私たちを悩ませます。食器の使い方は合っているか? きちんとマナーを守れているか? 何か恥ずかしい振る舞いをしていないか? どこのグループと一緒の席かも重要です。学校や職場でのカーストが決まり、そこでの過ごしやすさを大きく左右するからです。

 

議員の家で、招待を受けた客たちが上席を選ぼうとしていたのも、彼らが単に高慢だったからとは思いません。私たちも食事の席を選ぶとき、評価の低い人たちより、評価の高い人たちと同じテーブルを望むでしょう。もし、みんなからパシられる人間と同じグループになったなら、「あいつもパシっていいんだ」と思われかねません。

 

ここでどう振る舞えば、私は安全に過ごせるか? ここでどの席に着けば、私は平和に暮らせるか? 周りの振る舞いに目を凝らし、できる限り上席に、安心できる立ち位置に行こうとするファリサイ派の姿は、そのまま私たちの姿です。多数派につき、空気を読んで、穏やかに食事会を進めていく。周りにも空気を読むことを求めながら。

 

ところが、イエス様は私たちの都合にかまうことなく、この食事会へ介入し、一瞬で空気を凍らせます。自分の振る舞いが、何と向き合っていないか突きつけて、味も分からず食事をしていた私たちに、新しい変化を促します。誰かに気に入られようと、嫌われまいと必死になり、一緒に食事を楽しめない関係から、本当に喜びを分かち合う関係へと。

 

キリスト教会において、クリスチャンは度々、「ファリサイ派みたいに」「律法学者みたいにならないように」注意されてきました。彼らと同じ、イエス様の敵にならないように……けれども、実際のところ私たちは、ファリサイ派であり、律法学者です。気に入らない人は排除し、気の合う人と席に着く、凝り固まった人間です。

 

しかし、そこへやって来て、敵である私たちと同じ席につき、罠を仕掛けた相手にさえ、「正しい者たちが復活するとき、あなたが報われるように」と働きかけるのがイエス様です。私たちは食事の度にこのことを思い起こすんです。自分がファリサイ派から、キリストの弟子へと変えられるように、イエス様が私の食卓へやって来たことを。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(広島県府中市の上下教会)のために、福祉に携わる人のために、教育に携わる人のために、政治に携わる人のために、祈りを合わせます。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆広島県府中市の上下教会のために祈ります。代務をされている先生の上に、あなたのお支えが豊かにあって、新しく牧師を招聘することができますように。そして、教会がますます地域の人に開かれて、良い知らせを伝えていくことができますように。

◆福祉に携わる人のために祈ります。過酷な現場で、様々な対応を迫られる介護士やヘルパー、事務員やソーシャルワーカーの上に、あなたの憐れみがありますように。職員も利用者も、気持ちよく毎日を過ごせるように必要な変化をもたらしてください。

◆教育に携わる人のために祈ります。異なる背景を持った児童、生徒、学生たちに接している教師やスタッフ、教諭の上に、あなたの恵みがありますように。それぞれの限界と向き合いながら、頼る人、助ける人が与えられるように導いてください。

◆政治に携わる人のために祈ります。組織と組織の間で板挟みになり、適切な選択が下せない人たちに、あなたの助けがありますように。必要な情報や理解が得られ、変えてはならないものと変えるべきものの判断ができるように呼びかけてください。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌「離れているけれど」(©️柳本和良)を歌いましょう。こちらも、飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

以上で聖書研究祈祷会を終わります。一件、アナウンスがあります。華陽教会ではこれまで、『信徒の友』の聖書日課に沿って、水曜日の聖書箇所を決めていましたが、先日の役員会にて、来週からしばらくの間、『祈りのリテラシー』をテーマに、聖書朗読とメッセージを行うことになりました。引き続き、この時が豊かに用いられるようにお祈りください。それでは、また日曜日まで、皆さん一人一人に主の平和がありますように。