ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『律法は人の掟とどう違う?』 マタイによる福音書22:34〜40

聖書研究祈祷会 2022年1月26日


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案 内

華陽教会では、岐阜県の医療提供体制を踏まえて、会堂に集まる集会を休止し、配信等による在宅聖研を行っています。共に今、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の505番「歩ませてください」を歌いましょう。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美をささげましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、水曜日の在宅聖研祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を探している人を導いてください。

◆私たちの神様。今週の日曜日から、再び会衆が集まる集会を休止し、配信等による在宅集会に切り替わりました。どうか今、離れたところにいる一人一人のつながりを支え、顔を合わせられない間も、互いのためにとりなす力を与えてください。

◆私たちの神様。これから入試や国家試験を受ける児童、生徒、学生たちに、あなたの助けがありますように。どうか今、不安を覚える一人一人にあなたが寄り添い、どんな状況でも精一杯力が発揮できるように導いてください。

◆私たちの神様。既に感染症にかかってしまった多くの人を覚えます。どうか今、しんどい思いをしている人や不便な状態にいる人が、速やかに生活を取り戻すことができるように、周りの人と一緒に支えてください。

◆私たちを支え、導き、送り出すイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書22:34〜40(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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LoggaWigglerによるPixabayからの画像

メッセージ

昔、私がキリスト教徒だと知った人から、こんなことを聞かれました。「肉とか魚って食べていいの?」「お酒は飲んでいいの?」「暴力的なアニメは見ても大丈夫?」……おそらく、宗教的に何がダメで、何がOKか聞いておかないと、不快な思いをさせるかもしれない……という配慮から来たものでしょう。

 

実際のところ、私は肉や魚を食べることは禁じられてないですし、お酒も飲みますし、漫画やアニメも楽しみます。でも、聖書には「食べてはならないもの」として豚が出てきたり、鱗のついてない魚(鰻やカワハギも入るでしょう)が出てきます。華陽教会のルーツであるメソジスト教会は、もともと禁酒運動を進めていた教派でもあります。

 

それなのに、あるキリスト教徒は、他の人たちと同じように酒を飲み、アニメを見て、別のキリスト教徒は、酒を禁じ、アニメも禁じて生活している……どっちが宗教的に見えるかと聞いたら、たぶん後者になるでしょう。法律や条例で守るよう定められた「人の掟」と、聖書で定められている「律法」のような掟にはギャップがある。

 

「律法」とは、もともと「神が人間に与えた掟」「神が人間へ守るように授けた掟」として書かれています。一方、憲法や法律や条例は、「人間が健全な社会を守るために、自分たちで積み重ねてきたルールや規範」です。どっちが優先されるか? と問われたら、信仰的には前者と答えたくなるものでしょう。

 

実際、「神様が作ったルール」と「人間が作ったルール」だったら、明らかに神様の作った掟の方が、正しさも優先度も高い!……と言っているクリスチャンも、SNSの中では、よく見かけます。法律に限らず、人間の考えた「権利」や「倫理」も、聖書の言葉より優先されるものはない!……という人もいます。

 

確かに、私たち信仰者は、聖書の言葉を「神の言葉」と受け取って、信仰生活の規範にします。しかし、前々から話しているように、聖書の中には「史実や事実とは言えないもの」「正しいとは言い難い教え」も出てきます。いくら「人の考えた掟より、神の作った掟の方が優先される」と主張しても、優先できない言葉は出てきます。

 

たとえば、最初に話したような食物規定は、厳格なクリスチャンの間でも、現在はほとんど守られません。確かに、旧約聖書で「食べてはならない清くない生き物」が定められているけれど、新約聖書で「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と出てくるから……という理由で、たいていの人は、かまわず食べてしまいます。

 

でも、不思議ですよね。同じ神の口から「これらを食べてはならない」とも「口にしていい」とも出てくるなんて……これじゃあ、聖書のどこかに「こうしなさい」「ああしなさい」と書いてあっても、その都度、本当にそれが正しいか、結局、自分の頭で考えなければなりません。「神様、ここに書いてあるとおりにしていいんですか?」「それとも、違う場合もあるんですか?」……と。

 

実は、イエス様が地上にいた頃の律法理解でも、守るべき掟は613項目もありました。「こっちを守れば、あっちが守れない」と、矛盾する掟もありました。たとえば、異邦人との接触を禁じながら、寄留者(外国人)を大事にせよとの命令もある。だからこそ、律法学者のような旧約聖書に精通している専門家は、どの掟が優先されるか、常に論じ合っていました。

 

そんな中、ある律法学者がイエス様へ質問します。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」……非常にセンシティブな問いかけです。誰もが「これさえ守れば」「これができていればOK」という分かりやすい指標を求めるけれど、神の言葉たる聖書には、そんな都合よく書かれていない。さあ、あなたはどう答える?

 

すると、イエス様はこう答えます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」……申命記6章5節にもある言葉ですが、実を言うと、イスラエル人が毎日2回、朝と夕に唱えていた祈りの一部でもありました。つまり、誰もが口にする常識的な言葉だったんです。

 

さらに、イエス様は続けて言います。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」……最も重要な掟を聞かれているのに、なぜか2つ目も答えてきます。最も重要な掟は「神への愛」と「人への愛」両方なくして語れない……ということでしょうか?

 

確かに、この2つこそ、律法全体を要約する教えとして、一般的に理解されている言葉でした。有名な「十戒」も、前半と後半で、「神への愛」と「人への愛」に受け取れます。つまり、イエス様は新しいことを言ったわけでも、みんながハッと驚くことを言ったわけでもありません。当たり前のことを言ったんです。

 

よく見ると、これって、現在定められている憲法や法律や条例、大事にしようと呼びかけられている倫理や人権とも関わっています。「私たちは皆、神に愛される者として平等に造られた」「神に造られた者同士、互いに尊重して大事にしよう」という考え方……実は人類が積み重ねてきたルールや規範も「神への愛」と「人への愛」に基づいた、延長線上にあるんです。先人たちが、祈って、議論して、整えてきたものでもあるんです。

 

聖書に出てくる「神の掟」と社会に適用されている「人の掟」は、確かに一致するものではありません。法律は時代に合わせて変わっていくし、差別的なルールや悪用される掟も造られます。同時に、聖書が示す「神の掟」も、時代に合わせて受け取り方が変わってきます。差別を助長する方向へ適用されてしまうことも、解消する方向へ適用されることもある。

 

結局、どれだけ正しい「神の言葉」が語られていても、それを生活に適用する際は、受け手の価値観や倫理観に左右されてしまう。キリストを誘惑した悪魔さえ、聖書を根拠に働きかけてくるんですから、私たちが聖書を根拠に何か言っても、それが正しい規範だという証明にはなりません。

 

だからこそ、「神の掟」「律法」の目的を、はっきり告げたイエス様は、私たちの指針になってきます。「あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」……この2つが、どちらか一方でも欠けるなら、どれだけ聖書を根拠に語られていても、律法の目的を果たしているとは言えないでしょう。

 

ただ、「聖書に書いてあるから」という理由だけで、誰かを傷つける教えを無批判に実践したり、ただ、「聖書に書いてないから」という理由だけで、誰かを守ろうとする掟を蔑ろにするなら、それは、イエス様の語る「最も重要な掟」を骨抜きにする態度です。本当の意味で「聖書的」ではありません。

 

むしろ、神の掟は人の掟と違って、「書いてあるもの」「定められたもの」を、ただ守ればいいという態度を超えてきます。イエス様が律法学者やファリサイ派に指摘したのは、まさにそれです。ただ、書いてあることを守れていたら満足なのか? 定められたことに準じていたら正しいのか? その態度は、神の求める姿勢からは離れている……と。

 

会う度に、「聖書に書いてある教えで、先生が一番大事に思う教えは何ですか?」と聞いてくださる方がいます。私はその度に、「これを守れたら大丈夫」という答えを探しているなら、期待している答えは出せません……と、意地悪な回答をしてしまいます。だって、聖書ってそうじゃないですか?

 

これと言った答えが出されていると思ったら、覆されることの繰り返しじゃないですか? 安息日に病人を癒し、徴税人を弟子にして、罪人と共に食事をしながら、次々と律法に定められた教えを覆しながら、これこそ「神への愛」「人への愛」に生きる律法の精神だ……と示したイエス様。この方にならうなら、私たちも「書いてあるもの」「定められたもの」に、ただ従っていればいいという態度を超えなければなりません。

 

律法は「人の掟」と違って、書いてあるとおりに行動すればいいというものではありません。考えずに従っていいものでもありません。聖書は単なるルールブックやマニュアルなどではありません。聖書はあなたと対話する神の言葉です。あなたの生き方を問いかけてくる生きた言葉です。共に、与えられた言葉と向き合いましょう。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(長野県中野市の信州中野教会)のために、離れている人のために、入院している人のために、療養中の人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆長野県中野市の信州中野教会のために祈ります。この教会が、キリストの体として、地域への宣教にますます豊かに用いられますように。霊に燃え、主に仕える礼拝と証の群れとして、精一杯歩むことができますように。

◆離れている人のために祈ります。再び会うことが難しくなった身内や家族、友人に、あなたの慈しみがありますように。特に、病気や怪我、出産などで心細い時期に隔てられている人たちが、あなたを通して深く強く結びつくことができますように。

◆入院している人のために祈ります。コロナ禍で面会が制限され、外界と大きく隔てられている人たちに、あなたの憐れみがありますように。新たなつながりや結びつきがもたらされ、癒しと回復が導かれますように。

◆療養中の人のために祈ります。病院に入ることもできず、家で療養している人たちに、あなたのお守りがありますように。無事に回復するまであなたが寄り添い、新しく日常へ戻ることができるように、助けてください。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌9番「たくさん悩んでみたけれど」(©️柳本和良)を歌いましょう。

 

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

報 告

本日も、配信を通して聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の聖書研究祈祷会は、教会に集まった3名、同時に視聴された2名、計5名が出席されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の水曜日も配信等による在宅聖研を行います。教会に集まる集会の再開は「まん延防止等重点措置」の解除を目安に、2週間毎に検討し、教会員への連絡網とホームページ等でお知らせします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。