ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『死ぬ人と生きる人?』 ヨハネの手紙一5:10〜21

日曜礼拝 2020年9月12日


『死ぬ人と生きる人?』日曜礼拝 2020年9月13日

 

 

招 詞

わたしたちの救いの神よ、あなたの恐るべき御業が、わたしたちへのふさわしい答えでありますように。遠い海、地の果てに至るまで、すべてのものがあなたに依り頼みます。(詩編65:6)

 

讃美歌

マスクをしたままで讃美歌21の58番を歌いましょう。諸事情でマスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

 

お祈り

共に祈りを合わせましょう。

 

◆正義と公正をもたらす私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まれたことを感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、職場で、施設で、屋外で、あなたの力が必要な人を助けてください。

◆私たちの神様、どうか今、不当な支配に苦しむ人の「父」となってください。自由を奪い、自立を妨げ、搾取と暴力を振るう者から、一人一人を守ってください。そして、全ての父親が健全な関係を築けるように導いてください。

◆私たちの神様、どうか今、傷つき悩んでいる人の「母」となってください。虐待や束縛や自己否定、身勝手な癇癪から、一人一人を守ってください。そして、全ての母親が健全な関係を築けるように導いてください。

◆私たちの神様、どうか今、悲しみ孤立している人の「友」となってください。独善的な行動や極端な承認欲求、悪質なコントロールから、一人一人を守ってください。そして、全ての友人が健全な関係を築けるように導いてください。

◆私たちの傍におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネの手紙一5:10〜21(新共同訳より抜粋)

 

神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。

 

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drippycatによるPixabayからの画像

メッセージ

信じる人と信じない人?

キリスト教をはじめとする宗教界では、信じる人と信じない人の間に、大きな線引きがなされているように感じます。これまで、あらゆる宗教において「信じる者は救われる」という教えが語られてきました。この教会も例外ではありません。逆に、「信じない人はどうなるのか?」という問いには、様々な反応が見られます。

 

信じなければ救われない、天国に行けない、永遠の命も得られない。あるいは、信じた人が、その人のためにとりなしてくれたら救われる。誰かが代わりに祈ってくれたら、代償をささげたら救われる……なるほど、それならホッとします。でも、誰一人とりなす者がいなかったら、本人も周りも信じていなかったら、その人は救ってもらえないのか?

 

自分は信じているけれど、親や子どもが信じていない。恋人や友人が信じていない。このまま信じてもらえなければ、彼らは滅んでしまうのか? 永遠の命を得られないのか? そんな不安が頭をかすめ、日に日に危機感が募っていく。

 

子ども、兄弟、親、友人……やがて来たる神の国で、彼らが死に至らないように、永遠の命を受けられるように、何か方法を探します。そして脅迫的な思いから、無理やり信じさせようとしたり、多大な献金をささげたり、奉仕に没頭したりする。もし、それを許容していたら、破壊的カルトの出来上がりです。さて、皆さんはどうでしょうか?

 

死に至る罪と至らない罪?

もちろん、信仰の強制や脅迫的な献げ物はマズいと、誰もが分かっていると思います。でも先生……それなら私の家族、親戚、友人は、どうやったら救われますか? ちゃんと永遠の命を受けられますか? そもそも私自身、本当に救われるんでしょうか? 「やっぱりお前はダメだ」って言われませんか?

 

不安が募る皆さんに、ヨハネの手紙は朗報を伝えます。「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります」……どうやら、何か罪を犯してしまっても、誰かが神にとりなせば、確かにその人は救われると、はっきり書いてあるようです。これには皆さんもホッとするでしょう。

 

しかし、問題はその次です。「(ただし)これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません」……言外に、「願っても無駄だ」という響きがあります。確かに、死に至らない罪がある。許してもらえる罪がある。けれども、死に至る罪、許してもらえない罪もある。

 

当然、みんな気になります。じゃあ「死に至る罪」って何なのか? ヨハネの手紙全体の文脈から考えて、これは「信仰を捨てること」「イエス様を神の子と信じなくなること」です。またまた振り出しに戻りました。結局、信じる人と信じない人の間に、大きな線が引かれている。死ぬ人と死なない人が分けられている。

 

何とも厳しい話です。キリスト教を信じない者、拒絶する者、あるいはヤメてしまう者……彼らは死に至る罪を犯し、今さら神に願っても、もはや赦してもらえない。永遠の命を得られない。一方、私たちクリスチャンは罪の赦しを得ることができ、永遠の命を与えられる。そんな二項対立がドンッと建てられ、心に重くのし掛かります。

 

御心に適っていないから?

死ぬ人と生きる人が分けられるって、気持ちの良いことじゃありません。多くの問題を孕んでいます。そもそも大切な人を信仰に導けない私って「永遠の命」に値するんでしょうか? 自分の信仰が、自分の生き方が、周りの信仰につながらないとき、本当に、私とイエス様は結ばれているんでしょうか? 

 

疑う私たちに、手紙の著者はこう言います。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」……でも先生、どんなに私が願っても、神様はあの人を信仰に至らせてくれません。

 

告白すると、私の身内にも、神様を信じてほしい、信仰を持ってほしいと願っている相手がいます。洗礼を受ける直前までいった友人や、教会から離れた同僚もいます。一緒に信じさせてください、一緒に礼拝させてください……そう願った祈りは、今に至るまで叶っていません。決して、死に至る罪を犯したとは思えない、私の大切な人たちです。

 

もし、この願いが「御心に適っていないから」「神の意志に反しているから」と言われるなら、私は本当に傷つくでしょう。神様は信じていない人、信じられなくなった人を、みんな切り捨ててしまうのか? どうか違うと言ってください! そう嘆きながら叫ぶでしょう。事実、この手紙を受け取った人たちも傷ついたに違いありません。

 

時は2世紀から3世紀、迫害が厳しかった時代です。信仰継承が難しく、家族や親戚に受け入れられない人も多かった。一緒に信じていた仲間が、教会を去っていくことも多々あった。そんな中、「残った者だけ救われる」「私たちだけ命を得る」と言われても、希望にはなり得なかったでしょう。もしなっていたら、それはそれで歪んだ希望です。

 

死に打ち勝ったイエス様

皆さんも「自分たちだけが救われる!」と聞いても、そんなに嬉しくないでしょう。むしろ、「救われない」「救い得ない」と言われる人を救ってほしいから、必死に祈っているんです。誰の言葉も届かなかった、誰にも変えることができなかった……そんな私やあの人をイエス様なら救い出せる! そうやってしがみついてきた。

 

実は、ヨハネの手紙に繰り返し出てくるイエス様は、まさに「自分を捨てた人」「自分を信じなくなった人」を、究極の方法で「信じる者」に変えた方でした。それは、自分の命を見捨てた相手、自分を死に至らせた相手に向かって、生き返って再会したことです。「敗北した」「救われなかった」と思われる自分自身が甦り、死に打ち勝った姿を見せた。

 

本来、イエス様が殺されるとき、見捨ててしまった弟子たちは、神の子に従うことのできなかった、死に至るべき人間でした。「死んでから3日目に復活する」というイエス様の言葉を信じなかった人々は、信仰が失われてしまった、死に至るべき人間でした。そんな彼らに対し、イエス様は死そのものを乗り越えて「わたしに従いなさい」と言われます。

 

従えなかった者が従う者に、信じなかった者が信じる者に、救われない者が救われるように、イエス様はあり得ない仕方で変えられます。「死に至るべき罪」とは、イエス様が打ち勝った「死」そのものです。信じることができない罪、信仰を失わせる罪は、イエス様に対して無力です。この方の声は、届かないところに届き、動けない者を起こします。

 

永遠の命を信じるとは、自分の手が届かない、自分にはどうにもできない死の力、不信仰、弱さに絶望しないことです。たとえ私が、私の隣人を救えなくても、私自身を救えなくても、イエス様は手を伸ばし、呼び起こし、枯れ果てた心臓を脈打たせ、動かない体に息を吹き込みます。死んでから、信仰を失ってから、何日も経った後でさえ。

 

だから、確信を持ちましょう。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」「神に願ったことは既にかなえられている」と……あなたが助けてほしい、救ってほしいと思う誰かは、必ずキリストの手を握ります、この方の声に応えます。何日経とうと、死に隔てられようと、この方は応えるまで呼び続けます。

 

その力に期待し、信頼し、感謝しつつ、友のために、家族のために、隣人のために、今日も祈りを合わせていきましょう。

 

紹 介

本日、初めて来られた方、久しぶりに来られた方で、紹介をご了承いただいた方のみ、受付の方と一緒にお立ちください。配信に乗らないようにお名前は後ほど紹介させていただきます。神様の平和が皆さんと共にありますように。

 

とりなし

共に、祈りを合わせる者として、とりなしの務めを果たしましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス・キリストが私たちに教えられた、最も基本的な祈りを祈りましょう。

主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

 

(*新来者が来られたとき)献金は神様の恵みに対する感謝の応答です。教会の維持や運営、地区や教区の働き、福祉や慈善活動への寄付に使われます。金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、受付で配られた袋をそのままお入れください。

 

讃美歌

オンライン讃美歌『離れているけれど』(©柳本和良)を歌いましょう。マスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

平和のうちに、この世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。

 

どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(テサロニケの信徒への手紙二3:16)