ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『祈りのエチケット(3):そこまで祈る?』 ルカによる福音書11:1〜10

聖書研究祈祷会 2020年10月7日


『祈りのエチケット③:そこまで祈る?』聖書研究祈祷会 2020年10月7日

 

案 内

華陽教会ではこれまで『信徒の友』の聖書日課に沿って、水曜日の聖書研究祈祷会をしてきましたが、先々週から4回にわたって『一人一人の祈り方』をテーマに、聖書朗読とメッセージを行っています。今日は「祈り」について考える第3回目です。

 

讃美歌

最初に、讃美歌21の62番「天にいますわたしたちの父」を歌いましょう。飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆全ての者の造り主である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様、日曜日には、久しぶりに教会へ来られた人と再会の喜びをみんなで分かち合えたことを感謝致します。どうか今、心や体の不調のため、感染リスクが高いため、日々の忙しさのために、未だ会えない人たちとも再会の日をもたらしてください。

◆私たちの神様、海外に留まらず、国内でも、学問の自由や報道の自由が侵されつつある状況です。どうか今、戦前と同じ過ちを繰り返さないよう、それぞれの機関が適切な関係を作れるように、私たちみんなを導いてください。

◆私たちの神様、お互いの国や地域で、追い出されたり、拉致されたり、閉じ込められたりする人に、あなたの助けがありますように。どうか今、諸国の間で起きている様々な問題と誠実に向き合うことができるように、私たち一人一人へ働きかけてください。

◆私たちに力を吹き込むイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書11:1〜10(新共同訳より抜粋)

 

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

 

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PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

メッセージ

身内のように呼びかける

主の祈りと言えば「祈るときには、こう言いなさい」とイエス様が弟子たちに教えた最も基本的な祈りです。祈り方が分からないという人も、まずはこの祈りを参考にします。つまり、子どもたちや初めて来た人に「祈り方を教えてほしい」と言われたら、主の祈りを基本にすればいいよ……と言えるわけです。

 

ところが、残念ながら「祈り方の基本」であるにもかかわらず、私たちの教会を含め、多くの教会では、口語ではなく、文語の難しい言葉で祈っています。これを「基本にしろ」と言われても、ちょっと難しいですよね。せっかくなので、今日はルカによる福音書に口語で書かれた主の祈りから、祈り方の基本について改めて考えたいと思います。

 

実は主の祈りって、「祈り方の基本を教えてほしい」という弟子たちに「初歩の初歩」として示されたにもかかわらず、中身は非常に大胆というか、ある意味「上級者」でないと口にしにくい内容です。たとえば、神様に向かって「父」と呼びかける、「自分の身内」として呼びかける。これって本来、ものすごくハードルの高いことですよね?

 

聞きようによっては、神を自分の身内として呼びかけるなんて何様だ! と怒られてしまいそうです。神の子であるイエス様ならともかくとして、その弟子たち、私たちまで、神様を自分の身内として呼びかける……これが許されている、というか、そう勧められているのは、初期のキリスト者にとってもギョッとする話だったでしょう。

 

それって大胆すぎません?

そう、主の祈りって、教えられてすぐ口にするのは、けっこう勇気のいる祈りなんです。続いて「御国が来ますように」という言葉がサラッと出てきます。ようするに「神の国、天の国が私たちの方へ来ますように」という祈りです。でも、おそらく多くの人は「自分が天国へ行けますように」「天国へ近づけますように」と願うのが普通だと思います。

 

まさか「天国を自分のもとへ寄越してください」「天国を私に近づけてください」なんてお願いする人、そうそういませんよね? でもこれ、「私たちが天国へ行けるように」じゃなくて「天国が私たちの方へ来ますように」って言われているんです。ショックじゃないですか? 初心者になかなか願えることじゃありません。スケールが違います。

 

でも、イエス様は「こう祈るのが基本だよ」って言いました。神様はあなたのもとに天の国を、神の国をもたらそうとしている方だ。だから、臆せずこう願いなさいと。こう祈っていいんだと……そうかと思えば、めちゃくちゃ素朴な願いも出てきます。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」

 

「今日もご飯を食べられますように!」「食いっぱぐれませんように!」……たいていは、自分でどうにかしろと言われる、自分で解決しなさいと言われる庶民的な願い、ものすごく平凡な願い。それをイエス様は取り繕わず、遠慮せず、飾らないで祈るよう教えます。ちゃんと仕事ができますように、宿題忘れませんように、生活保護が取れますように!

 

神に対して遠慮している人に、イエス様はもっと近く、もっと信頼して祈るように求めます。大胆なことも、素朴で庶民的なことも願う。同時に、ただ願うだけでなく、もっと口にしにくいことも、基本として出てきます。「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」

 

口にできない祈り

何人もの人から同じ悩みを聞きました。主の祈りに出てくる「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」という言葉、「私たちも人を赦します」という部分、これだけがどうしても言えないと……ここだけ、実は口パクしていますと。

 

笑い話じゃなくて、実際そういう人珍しくないんです。「同じだ」という人は安心してください。あなたのような人は見えないだけで、けっこう周りにおられます。自分は正直、人の罪を赦せない。赦そうという気持ちにどうしてもなれない。あるいは、本当に赦せているのか自信がない。だから、「赦します」とか「赦してくれ」って口にできない。

 

思い返すと、イエス様に「祈り方を教えてほしい」と言った弟子たちも、なかなか身内を赦せない人たちでした。よく「誰が偉いか」「誰が正しいか」で喧嘩していましたし、7回までは許しても、それ以上はもういいだろう……という気配も見られました。そんな彼らに、イエス様は「こう祈れ」と言ったんです。

 

「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」……どれだけ困難で、どれだけ非現実的なことか、弟子たちの傍にいたイエス様なら分かったでしょう。毎日口にしたところで、彼らはそう簡単に人を赦せないだろうと。むしろ、人を赦せない人間がこれを口にするのは、愚かにさえ聞こえると。

 

けれども、イエス様は「臆せずこう祈りなさい」と、「これが基本の祈りだ」とおっしゃいます。いえいえ、私にふさわしくない言葉です。私にできるとは思えません。こんなこと、私が言ったら変じゃないですか! そう拒む私たちに、イエス様は容赦なく「私を信頼して祈れ」と言うんです。

 

そう、私たちはどこかで、これが叶わない祈りだと思っています。自分が敵を赦すこと、敵に赦されること、あるいは互いに愛し合うことなんてありえない。そんなこと願ったって仕方がない。私は赦すつもりがないし、向こうもそんな気はしていない。イエス様に私を変えたり、彼らを変えたりすることは、この先決してあり得ない。

 

だから、祈ることができません。期待できないことは願えません。でも、主の祈りは私たちが自ら願えないことさえ、自ら期待できないことさえ祈らせます。自分の中になかった期待と信頼が生まれるように、願えなかったことが願えるように、求められなかったことが求められるように、小さくなった信仰を育てていくんです。

 

そう、イエス様を見捨てた弟子たちが、再び従う者となったように。復活なんて期待もしなかった彼らがイエス様を「見て」「信じて」いったように。この方が教えた主の祈りも私たちに期待できないこと、信じられないことを、願い、実現する信仰をもたらします。だから、この大胆な祈りをためらう人も、ぜひ共に声を合わせてほしいんです。

 

下手すれば迷惑?

イエス様は、主の祈りを弟子たちに教えた後も、こんな話をされました。真夜中にある人が友達の家に行き、「パンを3つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところへ立ち寄ったのに、何も出すものがないんです」と言ってきました。家の人は眠たい目を擦りながら「面倒をかけないでくれ」と断ります。

 

しかし、何度もしつように頼めば、結局その人も起きてきて、必要なものを何でも与えてくれるでしょう。だから「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる……」

 

これって、別にいい話じゃないですよね? 普通はこんな願い方したら迷惑だから、遠慮しなさいって続けるであろう話です。それなのに、イエス様は反対に「しつこく求め、しつこく探し、しつこく門をたたきなさい」とおっしゃいます。それも、迷惑を被るであろう神様に対して……誰もが「いやいやそんなことして良いはずが!」となる行為。

 

けれど、祈りってこういうものなんです。自分でも期待できないような、実現するとは思えないような無茶なことを神様に求めること、自分なんかが願っても聞き入れられない、むしろ迷惑に思われるようなことを、神様が受けとめてくださると信じること、それが「祈る」という行為なんです。実を言うと、祈りに「慎ましさ」なんてないんです。

 

今、「こんなこと私が願っていいんだろうか?」「こんなこと祈る資格が自分にあるだろうか?」と悩み、苦しみ、葛藤している人に、もう一度、この基本を思い出してもらえたらと思います。神様は求めることさえできない者に、思い描く以上のものを与えられる、こっちの予想をはるかに超える、懐の広い方だからです。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(山口県岩国市の岩国教会)のために、離れている人のために、弱っている人のために、誰かを支えている人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆山口県岩国市の岩国教会のために祈ります。この教会で代務をしている牧師を支え、教師の招聘が導かれますように。また、老朽化した会堂をどうするか、新しい道が示されますように。

◆離れている人のために祈ります。様々な事情によって離れ離れになった人、顔を合わせることが困難になった人の間に、より深いつながりと誠実な関係をもたらしてください。慰め合い、支え合い、愛し合う力が満たされますように。

◆弱っている人のために祈ります。理不尽な出来事や自らの失敗、事故や病気、怪我や衰えによって、心も体も弱っている人に、あなたの慈しみがありますように。どうか今、必要な癒しと助けがもたらされますように。

◆誰かを支えている人のために祈ります。苦しんでいる人、弱っている人の傍で、自分も痛みを追いながら支えている人がいます。最も見えにくいところで、理解されにくいところで踏ん張っている人たちに、あなたの憐れみと励ましがありますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌「心騒ぎ不安になる夜に」(©️柳本和良)を歌いましょう。こちらも、飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

以上で聖書研究祈祷会を終わります。それでは、また日曜日まで、皆さん一人一人に主の平和がありますように。