ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『イエスの名が強くする?』 使徒言行録3:11〜20

聖書研究祈祷会 2022年6月8日


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案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、3回目のワクチン接種を受けた人たちで、聖書研究祈祷会に集まっています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の125番「いかに幸いなことだろう」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と力の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝いたします。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。入院・治療に当たっていた兄弟姉妹が、退院・回復に向かっていることを感謝致します。どうか今、続けて、治療や療養、ケアを受けている人たちに、あなたの癒しをもたらしてください。

◆私たちの神様。日曜日には、久しぶりに会堂で集まって、ペンテコステの礼拝ができたことを感謝致します。どうか今、教会に来ることができずにいる人、配信を通して礼拝に参加している人たちも、あなたの聖霊を豊かに受けとることができますように。

◆私たちの神様。岐阜県では、少しずつ病床使用率が下がっているものの、今なお2000人近くの自宅療養者がいます。どうか今、感染が続く施設や現場の人たちが守られ、回復が導かれ、収束へと向かいますように助けてください。

◆私たちを支え、導き、送り出すイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録3:11〜20の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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Jeff JacobsによるPixabayからの画像

メッセージ

ペンテコステに聖霊を受けた弟子たちは、イエス様を「神の子」と信じないで処刑させた、祭司長、長老、律法学者をはじめ、多くのユダヤ人が集まる、エルサレム神殿へやって来ます。不思議なことに、彼らは自分たちを敵視して、捕まえようとするのが分かっているところへ、神殿や会堂へ、度々出かけていくんです。

 

何のために、対立する人たちのもとへやって来るのか? イエス様を殺した人々に、信じなかった人々に、裁きを宣告するためか? 「お前たちは間違っている」と攻撃するためか?……どうも、そうではないようです。使徒言行録3章の前半では、神殿の境内にやって来たペトロとヨハネによって、足の不自由な男が癒されるという奇跡が生じます。

 

2人は、神殿にいる人々へ、イエス様を信じていない人々へ、罰や裁きをもたらすのでなく、こう言います。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」……こうして、長年歩けず、神殿の門の前に座っていた男は立ち上がり、踊り回って、神を賛美し始めました。

 

当然ですが、境内の中にいた人たちは驚きます。それまで40年間、足を動かせなかった男が跳ね回り、ペトロとヨハネに付きまといながら、神を賛美しているからです。「あの人は、美しい門の前で施しを受けていた、足の不自由な男じゃないか?」「誰にも助けられない、治すことができないと思われていた人じゃないか?」

 

そうして、ぞろぞろと男の周りに、人だかりができていきました。「男が付きまとっている2人は、この前、十字架にかかって処刑された、ナザレの人、イエスの弟子じゃないか?」「どうやら、あの2人が右手を取って立ち上がらせたら、男の足が癒されたらしい」「何か特別な力を持っているようだ」「奇跡を起こせるだけの信心を持つ人に違いない」

 

そんなふうに見つめていると、ペトロは振り返って民衆を見回し、こう問いかけます。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか?」「わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか?」言い換えれば、男が歩けるようになったのは、私の力でも信心でもないと言うわけです。

 

普通はここで、逆の主張をするかと思います。「気づいたか? これが私たちの力だ! これが本当の信心だ! 40年間、男の足を癒せなかった信仰ではなく、今、この男を歩かせた、私たちと同じ信仰を持ちなさい! イエス・キリストを信じる者になりなさい! そうすれば、あなたも特別な力を受け、奇跡を起こせる信心に至ることができる!」

 

でも、ペトロやヨハネはそんなふうには言いません。この人を歩かせたのは、わたしたちの力ではありません。この人が歩けるようになったのは、わたしたちの信心のおかげではありません。なぜ、そういうふうに思うんですか?……実際、ペトロもヨハネも、胸を張って、自分たちの信心を強調できるような弟子ではありませんでした。

 

数週間前に、イエス様を見捨てて逃げ出したし、イエス様なんて知らないと否定してしまったし、イエス様が復活するという言葉も信じられなかった……私自身は、特別な力も揺るがない信仰も持っていない。私自身は、奇跡を起こせるような力も信心も持っていない。だけど、そんな私に付き合ってくださる方が、助けてくださる方がいる。

 

それが誰かを表したのが、ナザレの人イエス・キリストの名前です。この方は、自分が捕まったとき逃げ出した私を、自分のことを三度否定した私を、自分の言葉を信じられなかった私を、ゆるしてくれた。取り返しのつかない過ちを犯したわたしのもとへ、会いに来て、姿を見せ、平和があるようにと言ってくれた。

 

だから、わたしには金や銀はないが、特別な力も信心もないが、持っているものをあげよう。取り返しのつかないことをしてきたわたしを愛し、わたしに期待し、わたしを信頼している方が、あなたのもとにも訪れたという、良い知らせを与えよう。ナザレの人イエス・キリストの名を現そう。この方は今、ここにいる。今、あなたの前にいる。

 

自分を逮捕し、訴え、処刑した人々のいる場所に、祭司長が、長老が、律法学者がいる場所に、彼らにあおられて、「十字架につけろ!」と叫んだ者がいる場所に、この方は再びやって来た。聖霊を受けた私たちを遣わし、あなたのもとに訪れた。かつて、この方を見捨てた、私たちの家の真ん中に現れたように、神殿の境内の中にやって来た。

 

そう、ペトロとヨハネが宣言するのは、イエス様を処刑した人たちに、罰や裁きが下されるという知らせではありません。イエス様を見捨てた自分たちに、「平和があるように」と言われた復活の主が、あなたたちにも、和解と平和をもたらすためにやって来た。見なさい、この男を! あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました!

 

弟子たちが、イエスの名によって何かを宣言するとき、それは、奇跡を起こすための呪文や、神を呼び出すための儀式をしているのではありません。「イエス・キリストの名によって……」という言葉は、今ここに、イエス様が訪れていることを現す知らせです。特別な力も信心もない私のもとに、あなたのもとに、イエス様がやって来たという知らせです。

 

「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました」……この言葉はイエス・キリストの名を唱えれば、強くなる、癒される、奇跡が起こる、という説明ではありません。「イエスの名が強くした」というのは、イエス様が一緒にいて支えている、イエス様が一緒にいて守っている、イエス様が一緒にいて助けているという宣言です。

 

これは、呪文ではありません。願いが叶えられる秘訣ではありません。奇跡を起こせる儀式ではありません。これは、特別な力も信心もない私のために、イエス様が信じられるよう、会いに来てくれる、助かる道を備えてくれる、一緒にいてくれることを現す、とても大事な言葉です。

 

「イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」……そう、イエス様は、この男にも現れて、信仰をもたらし、新しく立ち上がらせてくださいました。私が、ペトロが、立ち上がらせたのではありません。私に現れたイエス様が、この人にも現れて、立ち上がらせてくれたんです。

 

この方は、あなたがたの前にも来ています。自分を十字架につけろと叫んでしまった、あなたがたの前にも来ています。あなたの罪が消し去られるように、あなたが新しく出ていけるように、平和をもたらすために来ています。だから、悔い改めて立ち返りなさい。あなたのために訪れた、イエス・キリストの名によって、立ち上がりなさい。

 

かつて、神殿にいる人々へ言われた言葉は、ペトロの言葉を聞いた人々によって受け継がれ、語り継がれ、今、私の口からも、新しく告げ知らされていきます。わたしには金や銀はありませんが、特別な力や信心もありませんが、持っているものをあげましょう。ナザレの人イエス・キリストの名によって、あなたも立ち上がり、歩きなさい」

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(神奈川県横須賀市の横須賀小川町教会)のために、在日大韓基督教会のために、フィリピン合同教会のために、日本キリスト教会のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆神奈川県横須賀市の横須賀小川町教会のために祈ります。1日に70周年を迎えたこの教会に、あなたの祝福がありますように。会衆、教師、子どもたちが守られ、ますます豊かに神の国の良い知らせを広げていくことができますように。

◆在日大韓基督教会のために祈ります。岐阜教会と大垣教会をはじめ、全国の教会にあなたの慈しみがありますように。特に、建物の建築や修繕、墓苑の取得や管理、信徒のケアが、あなたの導きのうちに進められますように。

◆フィリピン合同教会のために祈ります。中濃教会と各務原教会で、午後から礼拝を行っているUCCP-Jの人たちに、あなたの恵みがありますように。特に、医療や住居、仕事や法律で困っている人たちに、あなたの助けがありますように。

◆日本キリスト教会のために祈ります。同じ地域に、隣で活動している岐阜教会に、あなたのお支えがありますように。教会に集まる子どもたちや会衆が守られ、教師の心身が支えられますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌2番「あなたの内なる人を」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

 

主の祈り93-5A

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。


日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳

天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

 

報 告

本日も、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の聖書研究祈祷会は、教会に集まった3名、同時に視聴された3名、計6名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

華陽教会では感染症対策をした上で、聖書研究、日曜礼拝、キリスト教ABC講座に、3回目のワクチン接種を終えた人たちで集まっています。引き続き、配信を通して参加することも可能です。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。