ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『さわらぬ神に』 ルカによる福音書23:44〜56

聖書研究祈祷会 2020年10月21日


『さわらぬ神に』聖書研究祈祷会 2020年10月21日

 

讃美歌

ただいまより、聖書研究祈祷会を始めます。最初に、讃美歌21の216番「月はのぼりて」を歌いましょう。飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆人と人との間におられる私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、水曜日の聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を必要としている人を祝福してください。

◆私たちの神様、日曜日には久しぶりに、在日大韓基督教会岐阜教会と華陽教会の間で、「岐阜地区を覚える月間」の交換講壇を持つことができました。どうか今、お互いの教会、信徒、牧師の上に、あなたの聖霊が豊かに注がれますように。

◆私たちの神様、10月から11月にかけて、各務原、中濃、蘇原、田瀬、付知、坂下の教会でも、交換講壇が行われています。どうか今、それぞれの教会同士のつながりが強くされ、より豊かな宣教を果たしていくことができますように。

◆私たちの神様、心が苦しい人、体が弱っている人、魂が傷ついている人に、あなたの癒しがありますように。どうか今、すぐ会いに行くことができない人たちと、私たちの間を取り持ち、祈りと希望の輪が広げさせてください。

◆私たちに変化をもたらす、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書23:44〜56(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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Free-PhotosによるPixabayからの画像

メッセージ

実は正しかった

自分が否定していた人間が「実は正しかった」と分かったとき、皆さんはどんな反応をするでしょう? その人を非難し、攻撃したことを後悔し、必死に謝って許してもらおうとするでしょうか? 「ごめん、あれは私の方が間違っていた」とみんなに撤回して回るでしょうか?

 

無実の人が罪人として、犯罪者として糾弾された事件の一つに、タレントのスマイリーキクチさんが受けた中傷傷害事件があります。彼は、かつて起こされた「女子高生コンクリート詰殺人事件」の実行犯と疑われ、「やってないなら証拠を出せ」「事実無根なら死んで証明しろ」とネット上で何度も中傷を受けました。

 

この事件は、個人に対して誹謗中傷を行った複数の加害者が、一斉摘発された日本で最初の事件です。しかし、摘発された人の中で、キクチさん本人へ直接謝罪した人はなく、むしろ、自分が被害者であるように振る舞った人が大半だったと言われています。「私は悪くない」「疑われている向こうが悪い」「他のみんなもやっている」

 

無実を訴え続け、事件と関係ないことを主張してきたキクチさんが「本当に正しい人だった」ことが分かっても、多くの人は彼を否定し、中傷したことを悪いと思わず、謝りに来ることもありませんでした。けれども、私は第三者面することができません。なぜなら私も自分が間違っていたと分かったとき、正面から踏み出すことができないからです。

 

2011年、国内で観測史上最大の地震が東日本を襲いました。大規模な地震と津波に続いて、福島第一原発の事故により、放射性物質が拡散しました。当時からしばらくの間、私は被曝の危険を訴える様々な記事を読んで、周りにシェアしたり、拡散したりしていました。

 

その中には、福島の農産物は絶対食べない方がいいという記事やガンが増えているという記事もありました。それらを「風評被害だ」と言っている人を見ると、私はまとめて「彼らは思考停止している」と思っていました。自分なりに正しい情報をシェアしていると思い、異なる意見を主張する人はフェイクニュースを流している悪人だと思っていました。

 

けれども、それから約8年間、色んな情報を検証しなければならなくなって、過去、自分が信じていた情報、拡散していた記事の中に、偏ったデータを使ったものや検証不十分なものが含まれていたと気づいてきました。自分自身も、福島に対して極端な不安や恐怖を煽る行動を取っていたと、後から分かってしまったんです。

 

あのとき「風評被害をやめてください」と言っていた人の中には、ちゃんと検証できるデータや根拠を示して、正しいことを言っている人も存在しました。そんな彼らをまとめて「思考停止だ」「間違いだ」と評価し、非難していた私には、謝罪と撤回の責任があるでしょう。しかし、過去の間違いについて触れられたのは、Facebook上で一回だけ。

 

それ以上触れる勇気はありませんでした。あのとき一緒になって、記事を拡散した人たち、「風評被害」という言葉を批判してきた仲間から、今度は自分が「間違っている」と思われるのが怖かったからです。そして、過去と180度違って見える主張をするのも怖かった。この問題には触れないで、もうそっとしておこう。そう考えている自分がいます。

 

誰も怖がらない

どこかの誰かに似ていませんか? そう、神の子であるイエス様を「十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫んでいた群衆たち。イエス様が息を引き取るとき、全地が暗くなり、神殿の垂れ幕が裂け、「本当に神から遣わされた人だった」と分かった後も、遺体に近づきもせず、すぐ家へ帰った人たちに。

 

これって、非常に怖いシーンです。「神を冒涜し、人々に間違いを教えている」と訴えられたイエス様が、実は本当に神の子で、正しいことを言っていたと分かったとき、既に処刑が済んだ後でした。「どんな悪事を働いたと言うのか?」「死刑に当たる犯罪は何も見当たらない」そう言われたにもかかわらず、無理やり死刑を要求してこうなった。

 

自分たちの手で、自分たちの要求で、正しい人を処刑した。そのとき全地が暗くなり、太陽は光を失い、神殿の垂れ幕が真ん中から避けた。福音書によっては、地震が起きたとも、岩が裂けたとも書かれています。「やってしまった」という瞬間ですよね? 無実の人を殺してしまった、神様を怒らせてしまった……そんな恐ろしい場面です。

 

にもかかわらず、ここに集まっていた人々が自らの行動を後悔し、恐れる様子は記されません。処刑に携わった百人隊長は「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美し始めます。いやいや、賛美どころじゃありません。何てことをしてしまったんだ!と普通は震えるところです。

 

見物に集まっていた群衆は、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行きます。いえいえ、胸を打たれている場合じゃありません。さっきまで「十字架につけろ」と言って、嘲笑い、中傷していた自分自身に後悔するべきシーンです。「ごめんなさい」「赦してください」と死体に駆け寄るところでしょう。

 

けれど、みんなすぐさま家へ帰っていく。誰も遺体に近寄らない。イエス様に従っていた人たちでさえ、遠くから見ているだけでした。「ごめんなさい、止められなくて」「ごめんなさい、あなたを庇うことができなくて」そう言って駆け寄る人はいなかった。誰も赦しを乞わないし、誰も後悔を表さない。第三者が映画でも見ているような反応です。

 

唯一近づいた人

私は悪くない、巻き込まれただけなんです。私の他にも死刑を要求した人はいっぱいいます。最終的に処刑を許可したのは総督です。みんなを扇動したのは祭司長や律法学者、ほら、そこまで私は悪くない。それじゃあ、そろそろ帰ります。この件については、これ以上できることはありません。

 

「触らぬ神に祟りなし」という言葉があるように、今はなるべく速やかに、なるべく目立たないように、大勢の群衆に埋没して、離れていくのが無難です。家へ帰って、日常に戻って、自分のしたことを忘れて過ごすのが賢明です。遺体に駆け寄って謝るよりも、とにかくこの場から引いて、これ以上関わらないのがいいでしょう。

 

イエス様はしばらくの間、十字架の上に置き去りになります。しかし、たった一人、亡くなったイエス様に近づく者が現れました。それは、ユダヤ人の町アリマタヤ出身のヨセフという議員です。彼は、今までイエス様が処刑されるのを遠巻きに見ていましたが、死んでから遺体を引き取りにやって来ます。

 

そして彼は、ひっそりと用意していた墓穴へ向かいます。誰も手伝わないし、誰も近づきません。ガリラヤから来た女性たちも彼の後に続きますが、ヨセフと接触はしませんでした。不思議ですよね? イエス様を慕っていた仲間なのに、最後まで正しいと信じていた人なのに、お互い一歩も近づかない。

 

淡々と、自分たちにできる最後の後処理をしようとする……この後どうするか、相談も話し合いもありません。遺体を墓に葬り、香油と香料を塗ったら、後はもう、手を組んだって何もできないと分かっていたからかもしれません。

 

みんなに「イエス様は正しかった」「この人の教えは本物だった」と今更伝えていくことはできません。正しい人を殺してしまったという事実を伏せたい人たちから、攻撃や非難を受けるかもしれません。そもそも、自分たちの手で守れなかったことを責められるかもしれない。

 

彼らは後悔も謝罪も口にしないまま、黙ってひっそりと行動する。私たちは、この結果を負い切れない。せめて小さな後処理をします。これで勘弁してください。ここまでしかできないんです……それが、私たちの現実。

 

触れなかった神

正しい方に対して、触れること、近づくこと、謝ることができない人たち。やってしまったこと、やらなかったことの責任を負いきれず、暗い穴の中にそっと仕舞って、静かに離れていく人たち。聖書に記される人々の姿は、そのまま私自身、あるいは、あなた自身の姿です。

 

私たちは、自分の犯した罪をそのまま仕舞っておくことしかできないんでしょうか? 自分たちが否定し、見捨ててしまった方に触れることは、もう二度とできないんでしょうか?……いえ、この方は、二度と自分に近づけない、二度と自分に触れられない人たちへ自ら会いに来るんです。

 

墓穴の前で泣いていたマリアに、「なぜ泣いているのか」と呼びかけたイエス様。家の中に閉じこもっていた弟子たちに、「平和があるように」と挨拶したイエス様。この方は、自分がやってしまったこと、自分ができなかったことを前に、固まって、目を逸らし、近づくことができない私たちへ、自ら近づいてくるんです。

 

とりかえしのつかない過ちを犯し、第三者のように振る舞ってしまう私たちへ、両手の癒えた傷跡を見せながら「わたしを信じなさい」と言う。もう「信じます」「ついていきます」なんて二度と言えないはずの者たちに。神様は、私たちが触れることのできない現実に、近づくことのできない事実に、もう一度触れさせてしまう方なんです。

 

しかも、責めを負わせるためではなく、和解と命、新しい生き方をもたらすために。自分の過ちを前にして、未だ「さわらぬ神」を恐れている私自身、改めて皆さんに言いましょう。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい(ヤコブ4:8)」

 

そのとき、あなたの主は言うでしょう。「なぜ泣いているのか」……そのとき、振り返ったあなたは知るでしょう。本当に、神が近づいてくださったと……私も、自分が近づけなかった現実に近づき、謝れなかった過ちを告白し、負えないはずの責任を負っていこうと思います。共に十字架を背負って回復をもたらす、この方の御手に霊を委ねて。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(山口県宇部市の宇部教会)のために、岐阜地区の諸教会のために、在日大韓基督教会のために、UCCP-J(フィリピン合同教会)のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆山口県宇部市の宇部教会のために祈ります。教会の再建に向けて歩んでいる一人一人と牧師の上に、あなたの支えと導きがありますように。兼牧体制となった宇部緑橋教会にもあなたの恵みが豊かにありますように。

◆岐阜地区の諸教会のために祈ります。礼拝の配信を検討している田瀬・付知・坂下教会の上に、礼拝を2部に分けて行っている各務原教会の上に、9月から30分に短縮して礼拝を再開した蘇原教会の上に、あなたの知恵と知識が豊かにもたらされますように。

◆在日大韓基督教会のために祈ります。岐阜県にある大垣教会と岐阜教会、それぞれの礼拝が、これからも豊かに持つことができますように。教会の建物、施設、環境の課題が、一つ一つ解決されますように。

◆UCCP-J(フィリピン合同教会)のために祈ります。岐阜県の美濃加茂グループと愛知県の安城グループ、それぞれの礼拝が守られ、教会員一人一人の生活が支えられますように。特に、礼拝の場所、行事における課題が解決へと向かいますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌「枯れた谷に鹿が」(©️柳本和良)を歌いましょう。こちらも、飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

以上で聖書研究祈祷会を終わります。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。