ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『吾輩は知恵である』箴言8:1、22〜31

日曜礼拝 2020年10月25日


『吾輩は知恵である』日曜礼拝 2020年10月18日

 

 

招 詞

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(マタイによる福音書10:29)

 

讃美歌

マスクをしたままで讃美歌21の224番を歌いましょう。諸事情でマスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

 

お祈り

共に祈りを合わせましょう。

 

◆愛と力の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まれたことを感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの友なる神様、先週も今週も、私たちの身近な人、離れている人の傍に居てくださったことを感謝致します。どうか今、顔を合わせることができない人たち、いつも一緒に居られない人たちを支え、回復してください。

◆私たちの母なる神様、この一週間も、欠けの多い私たちに、期待と信頼を寄せてくださったことを感謝致します。どうか今、語るべきことを語り、聞くべきことを聞き、行うべきことを行えるように、一人一人を助けてください。

◆私たちの父なる神様、コロナ禍においても、様々な形で多くの行事を導いてくださったことを感謝致します。どうか今、宗教改革記念日に向けて、召天者記念礼拝に向けて、信徒立証礼拝に向けて、アドヴェントの4週間に向けて、必要な準備をさせてください。

◆私たちと共におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。箴言8:1、22〜31(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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Free-PhotosによるPixabayからの画像

メッセージ

知恵なんてどこに?

「主を恐れることは知恵の初め」……箴言の冒頭でそう言われていますが、実際は主を恐れていても、神を信じていても、知恵ってなかなか出てきません。クリスチャンなら適切な判断ができるか? 牧師なら正しい選択をできるか? コロナ禍の間に自信を持てなくなった信仰者も多いでしょう。

 

今年度の初めには、感染症の拡大に伴い、多くの教会が会衆礼拝を閉じるか閉じないかで議論になりました。「教会に集まる礼拝をやめてはならない」という判断が良いのか悪いのか、「教会員と近所の安全を考えて礼拝を閉じる」という選択が良かったのか、今も正解を示す知恵は出てきません。

 

9年前、東日本大震災が起きたとき、感染症が広がる今と同様、「これは神の怒りですか?」とあちこちで聞かれることになりました。私たちはこの災害から、どんなメッセージを受け取るべきか? 何を聞き、何を語るべきだったのか? 今も正解を示す知恵は出てきません。

 

香港では、2019年の「逃亡犯条例」改正反対運動に、多くの牧師や信徒が署名し、デモ参加者の休憩所として、会堂を開放した教会も少なくありませんでした。しかし、信徒間でも政治的見解が大きく割れる問題に対し、教会はどう振る舞ったらいいか、今も正解を示す知恵は出てきません。

 

私たちの教団でも、洗礼を受けていない人に聖餐を行う是非について、度々議論されています。全ての人に開かれたフリー聖餐を目指すべきか、信仰告白の過程を無視しないクローズドな聖餐に限定すべきか、教団内を二分してしまったこの問題について、今も解決に至る知恵は出ていません。

 

正直に言うと、必要な知恵が望んだとおりに現れることは人生でほとんどありません。どの選択が「良い」か「悪い」か、何が「正解」で何が「誤り」か、知りたいけれど分からない。知恵が自分に降りてこない。いったい、どうしたら現れてくれるんでしょう? 私に正解を示してくれる「知恵」そのものの存在が疑わしい。

 

いるのにいない知恵

つい先ほど、皆さんと読んだ聖書箇所には、知恵が一人称で自己紹介する面白い記事がありました。箴言8章12節にこう出てきます。「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている」……思わず「吾輩は猫である」という有名な本を思い出します。擬人化された知恵が、人々にこう語りかける。

 

「主は、その道の初めにわたしを造られた」「太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた」「深淵も、水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」……創世記には、「光あれ」という言葉から始まった天地創造の業が記されていますが、水と深淵はその前から存在しています。それ以前の様子は記されません。

 

つまり、神が天地を創造する前から、創世記にも記されていない時代から、知恵は神と共に、この世に存在していたというんです。山よりも先に、丘よりも先に、大地や海よりも先に、私は存在していた、存在していたと主張してくる。全ての被造物の大先輩、だけど、そんな前からいるのに、この世で知恵を探しても、なかなか出てくることがない。

 

信じても、祈っても、知恵は自分に訪れない。存在している、存在していると主張するのに、私の前に出てこない。いっそ、人間が初めて「知恵」に触れた、「知識」を得られたのはいつだったか思い出してみましょう。聖書における「知恵」と聞いて、最初に思い出すエピソード……それはやはり、創世記の最初の方に出てきます。

 

知恵の実を食べる前

私たちの祖先が「善悪の知識の木の実」いわゆる「知恵の実」を食べてしまった、あの出来事……神様に造られた最初の人間アダムとエバは、エデンの園を与えられ、何一つ不自由なく、あらゆる木の実を取って暮らしていました。そして、知恵の実がなる「善悪の知識の木」は、園の中央、一番目立つところに置かれていました。

 

食べたら賢くなりそうだし、いつでも手に取れそうでした。確かに存在していました。ただし、その実は「取って食べるな」と神から命じられていた。「食べると必ず死んでしまう」と言われていた。原文に忠実なニュアンスで訳すと「食べたら死刑だ、分かっているな?」という言い方。

 

私たち人間は、より良く生きるために知恵を得ようとするものですが、もともとは逆だったみたいです。「良い」「悪い」と感じる全てを知ることができる知恵……それを得ることが死に直結した。アダムとエバは、賢くなろう、知恵を得ようと、神様の約束を破った結果、望まない展開を迎えました。

 

今まで何とも思わなかった裸が「悪いこと」「恥ずかしいこと」と感じるようになってしまった。イチジクの葉で腰を覆う方が、まだ「良いこと」「マシなこと」だと思うようになった。実際は、漆の仲間である植物を腰につければ、体の最もデリケートな部分が被れてしまい、もっと恥ずかしいことになってしまう。

 

でも、「良い」か「悪い」かで見るようになったら、そっちを選択してしまった。そして、神に見つかることが「怖いこと」「恐ろしいこと」だと思うようになった。今まで散々見られてきたのに、一緒にいたのに、神に見つからないよう、隠れる方が「良い」と感じた。これが、知恵を得た人間が初めてとった行動です。

 

「主を畏れることは知恵の初め」「神を恐れることは知識の初め」……あれ? もしかしてこの言葉、実は皮肉だったんでしょうか? 人間の知恵は「神を恐れること」から始まりました。神様の前で、自分がどれだけ無防備で、どれだけ愚かしい者か、認識するところから始まりました。

 

2人は約束を破って知恵の実を食べた結果、前より賢くなったけど、恥と恐怖を覚えます。「良い」「悪い」を知る知識を得て、最初に彼らが知ったのは、自分たちの行為が「マズかった」「悪かった」という事実です。「食べたら死刑だ、分かっているな?」……この後の展開は、知恵のついた2人にはすぐ予想できる。罰を受けて、死ぬ羽目になるだろう。

 

ところが、主を畏れ始めた2人に、神を恐れ始めた人間に、神様が取った行動は当初の約束と違うものでした。エデンの園を出て行きなさい。子どもを産むとき痛みを感じ、食べ物を得るため働きなさい……罪に対する罰というより、罪に対する恩赦だった。終わりではなく、始まりをもたらす指示だった。

 

神を恐れ始めたからこそ、自分たちの「悪さ」を知ったからこそ、2人はこの方の憐れみ深さ、「良い」「悪い」を超えた基準を持つ、広い心に触れていきます。知恵が私たちに示すのは、「私たちにできる正解」ではありません。私たちが間違えても新しい道へ出発させる、正しい生き方へ送り出す、神の衝撃的な姿です。

 

始めからいた方

「太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた」「深淵も、水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」……なかなかお目にかかれない、私たちが必死に求める知恵の言葉を聞いたとき、もう一つ思い出す言葉があります。

 

「初めに言があった」「この言は、初めに神と共にあった」「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」……ヨハネによる福音書の冒頭に記された、ロゴス・キリスト論と呼ばれている表現。世界の始まりから神と共に存在した、神の御子イエス・キリストを表す言葉です。箴言に出てくる知恵とそっくりの書き方ですよね。

 

そして、神の言葉を聞かないで、キリストを十字架につけてしまった人間に対し、神様がもたらしたのは、赦しと和解と新しい出発でした。過ちを犯し、失敗し、家の中に閉じこもって隠れていた弟子に向かって、復活した主は「あなたがたに平和があるように」と呼びかけ「わたしに従いなさい」と命じられる。

 

間違いなく、世界の始まりから父なる神と共にいた、神の独り子の言葉です。この方はもう見えないけれど、探してもなかなか見つからないけれど、実は私たちの内におられ、私たちを包んでいる方です。まさに、箴言に記された知恵のように、私たちの生き方を新しくする存在。

 

「御もとにあって、わたしは巧みな者となり/日々、主を楽しませる者となって/絶えず主の御前で楽を奏し/主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ」……自分に知恵は示されない、私に知恵は降ってこない、そう悩んでいる方は、今こそ思い出してください。

 

間違った選択をし、誤った行動を取り、どうしたらいいか分からないあなたを、新しく出発させる方。既に今、あなたが恥と不安を感じながらも歩み始めている道のりは、この方に、イエス様に導かれていることを。子を産む痛み、食べ物を得る苦しみがある状況でも、上手くいかない状況でも、見えない知恵が、あなたを生かそうとしていることを。

 

「主を畏れることは知恵の初め」「神を恐れることは知識の初め」……恐れが信仰に、悲しみが喜びに、死が復活に変えられる神の道を、共に歩んでいきましょう。

 

紹 介

本日、初めて来られた方、久しぶりに来られた方で、紹介をご了承いただいた方のみ、受付の方と一緒にお立ちください。配信に乗らないようにお名前は後ほど紹介させていただきます。神様の平和が皆さんと共にありますように。

 

とりなし

共に、祈りを合わせる者として、とりなしの務めを果たしましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス・キリストが私たちに教えられた、最も基本的な祈りを祈りましょう。

主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

 

(*新来者が来られたとき)献金は神様の恵みに対する感謝の応答です。教会の維持や運営、地区や教区の働き、福祉や慈善活動への寄付に使われます。金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、受付で配られた袋をそのままお入れください。

 

讃美歌

オンライン讃美歌『あなたの内なる人を』(©柳本和良)を歌いましょう。マスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げよ。(イザヤ書52:7より)

 

神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために。(詩編67:2〜3)