ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ひたすら走れない』 コリントの信徒への手紙二4:7〜18

日曜礼拝 2020年10月18日(交換講壇:在日大韓基督教会岐阜教会)

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skeezeによるPixabayからの画像

*この原稿は、在日大韓基督教会岐阜教会で行う交換講壇のメッセージを基に、在宅礼拝用に整えたものです。

 

 

招 詞

希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマの信徒への手紙5:5)

 

讃美歌

マスクをしたままで讃美歌21の474番「わが身の望みは」を歌いましょう。諸事情でマスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

 

お祈り

共に祈りを合わせましょう。

 

◆愛と力の源である私たちの神様。今年度も、こうして「岐阜地区を覚える月間」の交換講壇が持てることを感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様、久しぶりに在日大韓基督教会岐阜教会の人たちと、一緒に礼拝へ出ることができ感謝致します。どうか今、華陽教会でお話しされている先生とメッセージを聞いている一人一人のことも祝福してください。

◆私たちの神様、長いこと顔を合わせないでいる間、この教会が直面してきた課題にも、華陽教会と、岐阜地区の教会で、一緒に立ち向かえますように。どうか今、私たちの間にあるつながりを、必要な仕方で用いてください。

◆私たちの神様、同じ岐阜県にある在日大韓基督教会大垣教会のことも祝福してください。隣の教会同士でも、なかなか顔を合わせることの難しい日々ですが、岐阜教会と大垣教会、そして地区との結びつきが、これからますます生かされますように。

◆私たちの神様、言葉、ルーツ、出身の違う人たちと、対等に、誠実に、豊かな関係を持つことができるように、この社会全体を導いてください。どうか今、それぞれの理解と関心が深まって、この世界が愛と平和で満たされますように。

◆私たちの間におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。コリントの信徒への手紙二4:7〜18(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

メッセージ

到達しないゴール

「目標を目指してひたすら走れ」……辛いときほど、そう言われます。もう止めたい、もう走れない、もうできない、そんな自分に「弱音を吐くな」「もう少し頑張れ」と言ってくる。けれどもこっちは、既に走るのを止めている。トボトボ歩き始めている。ごめん、続けられなかった、ゴールするのはもう無理だ……そう言って落ち込む自分がいる。

 

新型コロナウイルスが一気に広まった3月、私のいる華陽教会は「誠実な宣教を始めよう」という年間目標を立てていました。年題聖句はマルコによる福音書1章38節、「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」

 

なかなか皮肉ですよね。この聖句と目標を立てて、2020年度をスタートしようとしていたとき、まさに、ほかの町や村へ出て行けない、それどころか教会に行くこともできない、そんな事態がやって来た。宣教の目標を掲げた年に、宣教が最も困難になった。しかし、「何とかこの年を走り切ろう」……私はそう思っていました。

 

すぐに、礼拝原稿の発送と礼拝の動画配信を始めました。教会に集まれない間、自宅で動画を見ながら、原稿を見ながら、それぞれの家庭で礼拝ができるように。たとえ教会に行くこと、教会から出ていくことができなくても、あらゆるものを駆使して、聖書の言葉が広がるように。

 

教会のみんなも必死に走りました。使い慣れないスマホやパソコンを使って、孫や子どもに教えてもらって「先生、配信見れましたよ!」「原稿読めましたよ!」と次々に報告してきました。「動画の見方が分からない」と言っていた80、90歳の人が、数週間後には、「友達に教えてもらってできるようになった」と言ってくるんです。

 

今まで礼拝に来なかった家族が、一緒に動画を見るようになったところもありました。私の祖父、私の祖母、私の同級生も、いつの間にか配信を見て、聖書のメッセージを聞いていました。子育てで教会に来られない、仕事で日曜日が潰れてしまう、介護で外へ出ていけない……そんな人たちからも、ようやく礼拝ができるようになったと言われました。

 

私はがんばって走りました。礼拝の次は聖書研究祈祷会の配信を始めました。教会学校の配信も始めました。訪問聖餐の代わりにビデオ通話で小礼拝も始めました。けれども、だんだん息切れしてきて、走るのが困難になってきました。教会のことを頑張る一方で、大学の講義がちゃんと準備できないこともありました。

 

手紙を送ったり、通話したりする時間も減ってきました。一人でボーっとしたい時間が増えてきました。教会に再び集まるようになってからも、配信トラブルでバタバタし、来た人となかなか話せなかったりしていました。心の中で「全部止めたい」と思うことも出てきました。

 

年度始めとは明らかに違う自分がいます。他の牧師たちが生き生きと色んなことに取り組んでいるのを見ると、自分はなんていい加減で不完全な人間だろう……と感じます。「目標を目指してひたすら走れ」と言われるけれど、もう半分歩き始めている……信徒の中にも、私と同じような気持ちを味わっている人がいるかもしれません。

 

礼拝が再開してなお、教会に行かなくなった自分。もう行けるのに、行こうと思えない。一度立ち止まったら、走れなくなった。ゴールを目指せなくなった。本当は信仰生活を豊かにしたいのに、目標に達したいのに、足が動かない、息が整わない。このまま何も得られないで終わるかもしれない。

 

既にゴールへ到達した人たちが羨ましくなります。コロナ禍の前と同じように、教会へ毎週通うようになり、生き生きと伝道し、信仰生活を送っている人。困難の中、めげずに走り続けた人。あの人たちこそ、信仰者の模範として、目標に達し、完全な者となり、神の国へ入れる人なんだろう。

 

私はゴールから程遠い場所で走るのを止め、トボトボと歩いては立ち止まり、またトボトボと歩いては立ち止まるのを繰り返している人間です。完全な者の輪に入れず、不完全なまま歩んでいる。そんな私と、同じ気持ちを味わっている人たちに、今日は紹介したい人がいます。私たちと同じ、完全に達していない人、目標に到達していない人です。

 

ちょっとでも同じ境遇の人を知って、慰められようじゃありませんか? ただ、おそらく名前を聞いたら尻込みするでしょう。だってその人は、世界宣教の第一人者、新約聖書の4分の1を占める数々の手紙を書き残した、宣教者パウロなんですから。彼は、キリストへの信仰による義、信仰に基づく正しさに達するよう、人々に教えてきた人間です。

 

しかし、自分はまだそれを得ていない、完全な者になっていない、何とかして捕らえようと努めている段階だ……と言ってきます。いやいや、パウロ先生。あなたこそ、みんなの模範だし、信仰による義を語った人だし、その目標に到達した人、「完全な者」の範疇でしょう? あなたが到達していなければ、誰が到達すると言うんですか?

 

けれども彼は言うんです。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」「目標を目指してひたすら走ることです」……目標のものはまだ得ていない、完全な者に達していない。そうはっきり口にしている。その上で、さらにおかしなことを言う。

 

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」……目標に、完全な者に達していないのに「わたしに倣う者となれ」なんて、どうして言えるんでしょう? 不完全なのに「わたしを模範として」「わたしに倣いなさい」なんて、どうして口にできるんでしょう?

 

その上、彼は自分を模範とする人たちに、「あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」と言ってきます。不完全なわたしに倣いなさい。そして、わたしに倣うあなたを模範としている人に目を向けなさい……これは厄介です。私はもっと不完全。私を模範にされたら、良くないところを真似されるかもしれません。

 

わたしに倣う者?

パウロ先生止めてください。不完全な私に倣うなんて止めさせましょう。ほら、私はひたすら走れていますか? もうヘトヘトで歩いていますよ? それどころか、何度か立ち止まっています。こんな私を真似したら、その人も、その後に続く人も、みんな走れなくなってしまいます。もっとマシな人間に倣わせましょう。

 

これが本音です。けれど、残念ながら彼の命じたようにしかできません。牧師である私は、自分が完全に達していない、不完全な者であることを知りながら、毎週講壇に立って聖書からメッセージを語ります。「目標を目指してひたすら走りなさい」……まあ、私は時々立ち止まっているんだけど。

 

それを聞いている教会員も、実は同じように、パウロの命じたようにしかできません。大切な子どもたち、孫たち、あるいは親や兄弟、友人に、今日も教会へ行かないか「チラッ」と期待してみせる。「信仰を持つって素晴らしいよ」「あなたの人生を変えてくれるよ」って何とか伝えようとする。

 

でも自分自身、時々礼拝をサボっていたり、ろくに聖書を読んでいなかったり、人前で祈れなかったりする。隣人を赦せないし、敵を愛せないし、謙虚に生きることができない。そんな私が「信仰を持とう」「聖書を読もう」「教会へ行こう」なんて言うのもおかしな話……おかしな話だけど、みんなあるとき勇気を出して、恐る恐る言ってみます。

 

「よかったら今日、一緒に礼拝へ出てみない?」「聖書の話を聞いてみない?」「神様にお祈りしてみない?」「わたしに倣って」……そう、牧師が信徒に向かって「わたしに倣いなさい」と言うのも、信徒が家族や友人に向かって「わたしに倣いなさい」と言うのも、普通に考えてあり得ない。そんなこと言う資格はない。

 

だってまだ、到達していないから。そう言えるほどの信仰に、そう勧められるほどの段階に、自分は達していないから……だけど、どこかで気づいています。それでも、私を見て育つ者たちに、私は勧めていかなければ……私が遣わされた人たちに、私の愛する人たちに、信仰に基づく生き方へ、神の国へ至る生き方へ、到達するよう呼びかける。

 

そうして、不器用に教会へ誘います。「そんなこと言える立場なの?」と言われることを恐れながら……初めて、岐阜教会の先生(牧師)に会ったとき、ちょうどこの会堂ができる年でした。立派に会堂建築をされている様子を見て、この先生は、本当に頑張って走ってきたんだな……と思いました。みんなを率いて。

 

しかし先生は、会堂建築の業は自分から始まったものではないと言いました。古い礼拝堂が傾いている。このままにしてはいられない。だけど、お金なんてない。献金が集まるか分からない。新会堂を建てようとするのは、あまりに無謀と思われる。「会堂を建てましょう!」「みんなで祈りましょう!」なんて、とても言う気になれなかった。

 

ところが、信徒の一人がこう言います。「先生、まずは祈りましょう」……祈って献金が集まるなんて単純な話じゃありません。しかし、その方の呼びかけで、午後3時からの祈祷集会が始まります。教会が走り始めます。「会堂建築なんて現実的か?」と立ち止まろうとした牧師に、後ろのものを忘れさせ、前のものに全身を向けさせる方がいた。

 

そう、イエス様です。イエス様が会いにきたんです。教会に語りかけたキリストは、牧師の自分に、信徒を通して現れた……先生から最初に聞いたメッセージです。「わたしに倣う者となりなさい」……およそ、信徒が牧師に語ろうとは思いもしないメッセージが、見えない方によって語られていました。「私に倣って、祈りなさい」

 

そして、岐阜教会に赴任して間もない牧師は走り出します。今度は自分がみんなの模範となるように。みんなが迷わないように……すごい勢いでしたよね。牧師の間でもすごいなと言って見ていました。でも、この先生を走らせたのは、実は皆さんだと私は聞いています。そして、皆さんもこの先生に倣って、数年間走り続けてきました。

 

その間、互いに互いを模範として示されたのは、他ならぬイエス様でした。「この人の模範になろう」なんて思いもしなかった人たちが、その人の模範として示される。模範になり得ないはずの者が、目標に到達する「倣うべき者」として用いられる。それは今、ここで起きてきたことなんです。

 

私も最初に言ったとおり、教会員の模範とはなり得ない、不完全な人間です。「わたしに倣いなさい」なんて、自信を持って言えません。しかし、走り続けることを止め、半分歩き始めた私に、倣うべき背中を見せる人がいます。それは、自分も90歳近くになり衰えを感じている中で、「どうやって信仰生活を守り続けたらいいだろう?」と問いかけ続けてきた方です。

 

私に教えてもらおうとしていました。「先生、教会に行けなくなったときには、どうやって信仰を保てばいいでしょう?」「『信徒の友』で礼拝するのがいいですか?」「原稿も読めなくなったらどうしましょう?」……この方は、私が来る前から、教会を離れてしまった人、教会に来れなくなった人への訪問を、つながりを、必死に呼びかけていた方です。

 

「先生、教えてください。私たちが信仰の輪につながり続ける方法を」……私に倣おうとして、問いかけ続けるこの人の姿勢は、私が倣うべき姿そのものでした。どのような状態でも信仰生活を走り続けるため、一緒に道を探していく。その使命につながらせてくれたのは、未熟な私に倣おうとする、一人一人の背中です。

 

目を向けなさい

「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」……まだ目標に到達していない、完全に至っていないパウロから、フィリピの信徒へ言われた言葉。それは、今私が、皆さんに語ることでもあるし、皆さんが「自分に倣う誰か」へ語ることでもあります。「ほら見て、私を模範にして」「私に倣う者となって」

 

普通なら言えない言葉です。まだそこに到達していない自分には。でも、私たちはゴールに「達していない者」でありながら、「既に達した者」でもあるんです。それはパウロの言葉から分かります。「わたしたちの本国は天にある」と……「本国は天にある」……まだ地上にいる人間、どう見ても天に在住していない人間が手紙に記した言葉です。

 

でも、私たちは知っています。イエス様が、既に私を天の国、神の国へ受け入れられ、到達させてくださったことを。地上にいるにもかかわらず、私の本国は天にある。ゴールしていないにもかかわらず、既にゴールさせられている。あなたは神の民、天の国の住民です。もう、その場所が用意されています。

 

部屋も食卓も整えられ、ゴールテープが切られるのを待っている。トボトボと歩いている私、立ち止まっている私に、お祝いの食事を用意して待っている。あなたの帰るところはここだから、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたすら走りなさい。主の食卓の匂いが、聖霊の風に吹かれて、ここまでただよってきます。

 

イエス様は、神の国というゴールで私たちを迎える準備をしただけでなく、私たち全員がゴールするように、前から後ろまで行ったり来たりしながら、一緒に走り続けています。そして、今にも立ち止まろうとしている私に言います。「あなたに倣う者がいる」「あなたが走っている姿から、私に出会う者がいる」

 

パウロが言うように、この方は、私たちをご自分と同じ体に変えてしまうんです。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」

 

そうなんです。模範になりえない私を模範とし、完全に達していない私を、みんなが倣う者として走らせる……こういうことを、やってのけちゃう方なんです。あなたも、あなたを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。「そんな人いない」なんて現実から目を逸らさないでください。

 

信仰者は、自分の背中を見て育つ者、一人一人に責任を持ちます。普通なら負えない責任を、一緒に負ってくださる方がいるからです。あなたも預かり知らぬところで、あなたを模範として示されている方がいるんです。私もそうです。だから、兄弟たち。「このように主によってしっかりと立ちなさい」

 

お祈り

共に、祈りを合わせましょう。

 

◆人と人との間におられる私たちの神様。今日ここで、久しぶりに会えた方、初めて会えた方と共に、あなたの言葉、力、光を当てられたことに感謝致します。

◆あなたは立ち止まる者、膝をつく者、傷つき疲れ果てている者にも、大いなる使命を与えます。ありえない出来事に参与する力をもたらします。

◆どうか今、その導きを受け入れ、喜び、応える信仰を、私たち一人一人に与えてください。自信を失い、自らを嫌い、負い目に潰されそうな人たちを抱き上げてください。

◆私を見ている者に、私を通してあなたと出会わせてください。あなたによって、私の模範として示された人に、私を倣わせてください。

◆全ての者が、あなたにもたらされたつながりの中で、新しい生き方を見つけ、新しい変化に生き、新しい体を得ることができますように。

◆私たちと一緒に走られる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

紹 介

本日、初めて来られた方、久しぶりに来られた方で、紹介をご了承いただいた方のみ、受付の方と一緒にお立ちください。配信に乗らないようにお名前は後ほど紹介させていただきます。神様の平和が皆さんと共にありますように。

 

とりなし

共に、祈りを合わせる者として、とりなしの務めを果たしましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス・キリストが私たちに教えられた、最も基本的な祈りを祈りましょう。

主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

 

(*新来者が来られたとき)献金は神様の恵みに対する感謝の応答です。教会の維持や運営、地区や教区の働き、福祉や慈善活動への寄付に使われます。金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、受付で配られた袋をそのままお入れください。

 

◆変化と回復をもたらす私たちの神様。あなたから受ける言葉によって、私たちは新しく生かされます。今からのち、私自身の生き方が変えられていくしるしとして、 ここにささげた供え物を受け入れてください。

◆岐阜教会に集う兄弟姉妹、配信を通して御言葉を受けとった一人一人、牧会の務めを負われる高誠(コウ・ソン)先生の働きを、ますます豊かに用いてください。

◆そして、あなたの平和が実現し、あなたの栄光が現され、あなたの御名がほめたたえられますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン讃美歌『離れているけれど』(©柳本和良)を歌いましょう。マスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

主は言われます。「わたしは誰を遣わすべきか」……わたしは誰を遣わすべきか。

(イザヤ書6:8より)

 

願わくは主があなたがたを祝福し、

あなたがたを守られるように。

願わくは主がみ顔をもって、

あなたがたを照らし、

あなたがたを恵まれるように。

願わくは主がみ顔をあなたに向け、

あなた平安を賜るように。アーメン。

(民数記6:24〜26より)