ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『予定説って何ですか?』 ローマの信徒への手紙8:29〜30、エフェソの信徒への手紙1:4〜11

聖書研究祈祷会 2021年10月27日


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案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会も、配信と並行して開いています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の92番「主よ、わたしたちの主よ」を歌いましょう。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆全ての人の救い主である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて聖書研究祈祷会を開くことができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を探している人を導いてください。

◆私たちの神様。いよいよ、今度の日曜日には、504年目の宗教改革記念日を迎えます。華陽教会でも久しぶりに聖餐式を行います。どうか今、教会に連なる一人一人が今の在り方を見つめ直し、誠実に変わっていけるよう導いてください。

◆私たちの神様。再来週には、召天者記念礼拝も行われます。今年も遠方のご遺族の招待は控えることになりましたが、離れたところにいる人もあなたの慰めと希望を受けることができますように。どうか今、私たちに必要な言葉を届けさせてください。

◆私たちの神様。芽含幼稚園や中部学院大学と共に、華陽教会も、今年度のクリスマスに向けて準備が始まります。どうか今、限られた機会と環境でも、若者から年配の人まで、全ての人があなたの知らせを受け取ることができるように、私たちを遣わしてください。

◆一人一人を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ローマの信徒への手紙8:29〜30、エフェソの信徒への手紙1:4〜11(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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Igor LinkによるPixabayからの画像

メッセージ

神は、あらかじめ「救われる者」と「滅ぼされる者」を定めている……そんな予定説について、本やテレビなどで触れてきたことがある人も多いと思います。何だか、抗うことのできない運命論みたいで、恐ろしく感じますよね? 今月は「宗教改革」をテーマに聖書研究をしてきましたが、おそらく、今回が最も気になるテーマだと思います。

 

キリスト教は、「全ての人の救い主」であるイエス様を信じるのに、「救われる者」と「救われない者」が最初から定められている……なんて聞いたら、ちょっとおかしく感じます。神に救われる「義とされる者」と「されない者」、正しい者として「選ばれる者」と「選ばれない者」が、私たちの選択や行動に関係なく、最初から予定されている。

 

それって、罪を悔い改めても、償いや善行を重ねても、何をやっても、ある人は滅びに定められ、救いを与えてもらえない……と聞こえます。また、特に善人でもないし、信仰も厚くないけれど、ある人はどんな罪を犯していても、救われることが決定している……とも聞こえます。

 

これを「良い知らせ」と受け取る人は少数派でしょう。最初から救われる者と救われない者が予定され、覆すことができないなら、神様を信じる意味も、イエス様に従う意味もないじゃないか……と感じる人も多いでしょう。この予定説とやら、どうも教会にとって都合が良いとは思えません。信仰生活や伝道のモチベーションも下がりかねません。

 

いったい誰が、こんなこと言い出したんでしょう? おそらく、「予定説といえば、厳格な宗教改革者カルヴァンが言うようになった教理である」と思う人が多いでしょう。しかし実は、もっと前から唱えられてきたものです。有名なのは、世界史の授業でもお馴染みのヒッポのアウグスティヌスです。

 

彼は、「救いは良い行いによって獲得される」という「功績による救い」を主張したペラギウスに反対し、異端として退けたことで有名です。アウグスティヌスの主張は、「救いは人間の功績によってではなく、神の一方的な恵みによってもたらされる」という「恵みによる救い」でした。察しの良い人は、これが宗教改革でも論争になっていたことだと、すぐに気がつくでしょう。

 

そう、ルターやカルヴァンのいた時代では、神に救われるかどうかを左右する要因として、人間の行いが重視されたために、「巡礼に行けば」「献金をすれば」「贖宥状を買えば」、その行い、その功績によって正しい者とされ、神に救っていただける……という論理で、都合良く献金集めが行われ、教会の世俗化や堕落を招いていました。

 

これに反対した宗教改革者たちは、人間は自らの功績や業績によってではなく、神の恵みによってのみ救われる……という「恵みのみ」の主張を、改めて展開したんです。その大先輩であるアウグスティヌスは、人間が生まれてから死ぬまでの間、何をするか、何をしてきたかに関係なく、その人の救いが決定される以上、神は救われる者を「あらかじめ選ばれている」という予定論を考えます。

 

実は、アウグスティヌスと同じ時代の人々も、彼の後継者たちも、この点は受け入れ難いとしていました[1]。現代の私たちが予定論を受け入れづらいように、当時の人々も、あらかじめ救われる人が選ばれているなら、救われない人の運命も決定づけられている……という点に引っかかったんでしょう。

 

しかし、アウグスティヌスが強調したかったのは、「神の恵みは賜物であって報酬ではない」というところです[2]。そして、「予定論はある人々が地獄へと予定されている意味ではない」ということも合わせて強調していました[3]。よく勘違いされますが、予定論の出発点は、「誰が救われて、誰が救われないか」ではなく、「救いの源は何か」なんです。

 

神は、その人が何をやったか、何をやるかに関係なく、罪人を義人(正しい者)として選び、救ってくださる、という「無条件の選び」に重点があるんです[4]。神の選びの基準は人間の行為や功績とは関係ない、個々の人間の性質によるのではない、という考えを突き詰めたものが予定説なんです。

 

つまり、自分の力で自分を救えると思わないように、自分が救われるのは自分が功績を積んだからだと思わないように……という徹底的な謙虚さが根っこにあります。カルヴァンも、この謙虚さを継承して予定説を唱えますが、実は、彼にとって中心的な思想ではなく、取り組み方も控え目でした。あくまで、彼の整えた神学体系の補助的な教理だったんです[5]

 

そして、予定説を唱えたカルヴァンの分析は、私たちも身近に観測できる事実から出発しています。それは、ある者はイエス様を信じ、ある者は信じないという現実です[6]。神はキリストを信じる者が一人も滅びないように、この方を世に遣わされた。だけど、信じない者がいる。信仰を捨てる者がいる。

 

イエス様を信じない者がいる以上、救われない人がいることになる。神が全ての人を救おうと思っているのなら、なぜ全ての人を信じさせないのか? 信仰を与えられない人がいるのか? 神様にも、救いたくても救えない、信仰を与えられない、義人にできない罪人がいるのか? イエス様の十字架と復活をもってしても、救えない人がいるのか?

 

否、そうではない。信じない者、救われない者は、最初から神が選ばなかったから、そのように定められていたから、信仰を与えられなかった、救いを予定されなかったんだ……そんなふうに展開されていったのが、「救われる者と救われない者が、あらかじめ定められている」という予定説だったんです。

 

アウグスティヌス同様、カルヴァンも教会の人々が「救われる者」と「救われない者」を分けて、自分たちは信仰があるから救われる側、そうでない人たちは救われない側、と傲慢にならないよう注意していましたが、後の時代の関心は、どうしてもそこへ偏っていきました。

 

しかし、同じ改革長老派出身のカール・バルトは、新たに予定説を展開し、この「予定された救われない者」が捨てられないために、神は独り子であるキリストを選んで捨てられた……と語ります。予定されていた救われない者、滅びる者に、イエス様ご自身がなることで、全ての人から、死と、断罪と、滅びを取り除いたと語るんです[7]

 

私たちは、救われるために神を賛美するのでも、良い行いを積むのでもない。既に、神様から救われている、救いを決定づけられていることに感謝して、神に賛美と祈りをささげ、自分のためではなく、心から隣人のために仕えることができる……それこそが「良い知らせ」「福音」なんだと、先人たちの積み重ねてきた聖書の読み方が語っています。

 

私たちも、もう一度、自分は何によって救われるのか、その恵みにどう応答するか、聖書と向き合いながら、考えていきたいと思います。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(石川県金沢市の白銀教会)のために、教会に来られない人のために、学校へ行けない人のために、仕事へ行けない人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆石川県金沢市の白銀教会のために祈ります。今年度から新しく迎えられた先生と、教会員一人一人が支えられ、豊かな伝道にあずかることができますように。白銀幼稚園や馬場幼稚園、ミッションスクールとの関係も豊かに用いられますように。

◆教会に来られない人のために祈ります。緊急事態宣言が解除され、教会に集まることを願いながらも、病気や怪我、体力の衰え、家族のケアや仕事など、様々な事情で来られない人に、あなたの慰めと助けがありますように。

◆学校へ行けない人のために祈ります。心や体の不調のため、二次障害のため、いじめや差別のために、学校へ行けない人たちに、あなたの励ましがありますように。また、学校以外の場所を必要とする人たちにも、適切な居場所が与えられますように。

◆仕事へ行けない人のために祈ります。過労やストレスのため、パワハラやセクハラのため、必要な配慮がされないため、仕事へ行けなくなった人たちに、あなたの支えがありますように。生活の保障と回復の道筋が整えられますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌24番「イェスは今日あなたを」(©️柳本和良)を歌いましょう。

 

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

報 告

本日も教会に集まって、配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の聖書研究祈祷会は、出席4名、配信3名、計7名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

配信はここまでですが、この後2時半まで、希望する参加者が質問したり、祈ってほしいことをお願いできる「分かち合い」を持ちたいと思います。時間のある方はぜひ、ご参加ください。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。

 

[1] A.E・マクグラス 著、神代真砂美 訳『キリスト教神学入門』教文館、2002、2013年、53頁上段13行〜下段4行参照。

[2] A.E・マクグラス 著、神代真砂美 訳『キリスト教神学入門』教文館、2002、2013年、634頁下段21行〜635頁上段9行参照。

[3] A.E・マクグラス 著、神代真砂美 訳『キリスト教神学入門』教文館、2002、2013年、636頁上段15〜17行参照。

[4] A.E・マクグラス 著、神代真砂美 訳『キリスト教神学入門』教文館、2002、2013年、109頁上段1〜7行参照。

[5] A.E・マクグラス 著、神代真砂美 訳『キリスト教神学入門』教文館、2002、2013年、638頁16〜18行参照。

[6] A.E・マクグラス 著、神代真砂美 訳『キリスト教神学入門』教文館、2002、2013年、637頁下段11行〜12行参照。

[7] A.E・マクグラス 著、神代真砂美 訳『キリスト教神学入門』教文館、2002、2013年、642頁上段19行〜643頁上段12行参照。