ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『この洗礼は大丈夫?』 マルコによる福音書1:6〜11

日曜礼拝 2022年1月9日


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案 内

華陽教会では、感染症対策のため、礼拝の中で四度、立ち上がって讃美歌を歌う間、会堂の窓を開放し、換気の時間を作ります。どうぞ、教会員の方は、窓の開閉にご協力ください。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。(ヨシュア記1:5)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、旧讃美歌457番「たのしきこえを」を歌います。諸事情でマスクを外している方は歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。(お立ちください)

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

 

◆愛と平和の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝を始めることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。冬休みが終わり、新学期の始まった子どもたちに、あなたのお守りがありますように。どうか今、学校に行けない人、行きにくい人をあなたが支え、安心できる場所と必要な力がもたらされますように。

◆私たちの神様。年末年始に、体を壊し、調子を崩してしまった人に、あなたの癒しがありますように。どうか今、適切な治療と十分な療養がもたらされ、痛みやしんどさから解放されますように。

◆私たちの神様。新しいことを始めようとしてつまずいている人、悪い状態から脱しようとしてもがいている人に、あなたの助けがありますように。どうか今、それぞれが求める以上の気づきと変化がもたらされ、新しい生き方が与えられますように。

◆私たちを支え、導き、送り出すイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マルコによる福音書1:6〜11(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編36:6〜10(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(ご着席のままで大丈夫です)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、讃美歌21の543番「キリストの前に」を歌います。(お立ちください)

 

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DEZALBによるPixabayからの画像

メッセージ

洗礼と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか? キリスト教の入信式、信仰者になるための式、教会の一員になる儀式……もちろん、それらの意味もありますが、一般社会でも、比喩的な使われ方をします。「初稽古で先輩の洗礼を受ける」「引越し先で豪雨の洗礼を受ける」

 

そんなふうに、初めての大きな経験や特異な体験、ある分野や社会に入るため、経験するべきことを表す、象徴的な意味にも使われます。その場合、たいていは厳しいニュアンスを含みます。できれば避けたい、受けなくていいなら受けたくない……と感じるようなちょっとキツそうな何かのイメージ。

 

実際、キリスト教徒になる人が受ける洗礼も、受けるまでかなり悩んだ人、渋った人、抵抗した人も多いでしょう。私自身、自分が洗礼を受けるとき、両手を挙げて「受けたいです!」と言えたわけではありません。正直、けっこう怖かった。洗礼を受ければ、ハッピーなことが待っているという感覚より、何か重いものを背負うような感覚だった。

 

今ここにいる信徒の方々も、洗礼を受けてから人生が絶好調になった……というわけではないでしょう。むしろ、洗礼を受けてから、かえってたくさんの誘惑を覚えたり、つまずきが増えてしまった人もいるでしょう。信仰が強まるどころか、揺れ動くことが多くなった。神に対して、納得できないこと、疑問に思うことが、ますます膨らんでいく。

 

果たして、自分が受けた洗礼は、ちゃんとした洗礼だったんだろうか? まだ受けるのが早かったんじゃないか? 中には、自分に洗礼を授けてくれた先生も、誘惑に弱かったり、聖書につまずいたりするところを見てしまう人もいるでしょう。洗礼を受ける人、洗礼を授ける人、両方まずかったんじゃないか? 自分は今、本当の信仰者と言えるのか?

 

洗礼は新しい人生のスタートです。古い自分が死んで、新しい自分に甦らされ、生き方が変わっていく瞬間です。しかし、そのスタートから、実は失敗だったかも、ちゃんとできていなかったかも、と考えるのは、なかなかしんどいことですよね? 新しい一年が始まるとき、スタートからつまずいているんじゃないか? と振り返るようなものでしょう。

 

それってもう、この一年全体が、新しい生き方そのものが、失敗に終わることを予感させます。私は洗礼を受けたけど、本当の信仰者とは言えません。きっと最初から、何か間違っていました、失敗していました、つまずいていました……不完全なまま洗礼を受け、不完全な信仰生活を送っている。

 

どこかで、そんな感覚に囚われていたら、今日の聖書箇所を思い出してほしいんです。まさに、救い主であるイエス様が、洗礼者ヨハネから、洗礼を受けたところです。洗礼者ヨハネというのは、イエス様が来ることをみんなに伝え、イエス様に受け入れられるよう、人々に悔い改めの洗礼を授けていた人間です。

 

色んな間違いや失敗をしてきた人々が、神の子に受け入れてもらうため、自分の罪を悔い改める。「私の過ちを赦してください」「私の罪を赦してください」と頭を垂れる。そうして、新しい自分になろうとする。それが、イエス様を迎える人々に、必要な経験であり、体験であり、準備とされました。

 

ところが、まだ多くの人の準備ができてないときに、準備させていたヨハネのもとへ、イエス様は突然やって来ます。洗礼者ヨハネは慌てたでしょう。相手は神様が約束していた救い主であり、神の子です。自分には、その方の靴紐を解く値打ちもない、と考えていた存在です。その人が何の前触れもなく、やって来ました。

 

しかも、自分に洗礼を授けてくれと言うんです。おかしいですよね? 神の子に受け入れてもらうため、人々を悔い改めさせ、準備をさせてきたのに、神の子自身が、悔い改めの洗礼を受けようとする……明らかなに変な洗礼です。そもそも、何の過ちも犯していない神の子に、悔い改めの洗礼を受けさせるなんて、とんでもありません。

 

かえって罰当たりに思えました。他の福音書で、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに……」とヨハネが言うのも無理ありません。ためらっている彼に向かって、イエス様は、「今は、止めないでほしい」と言って、自ら川に入り、ヨハネの洗礼を受けました。きっと、ヨハネの頭の中はこんな疑問でいっぱいだったでしょう。

 

「この洗礼は大丈夫?」……正直、今自分がしていることの意味、神の子がやっていることの意味が分からない。理解できないままやって、後から怒られないだろうか? 自分なんかが、神の子に洗礼を授けていいんだろうか? 自分にも、神の子にも、ふさわしくないことをしているんじゃないか?

 

実際、洗礼者ヨハネ自身も、イエス様を迎える準備が万全だったとは言えません。彼は、自らイエス様のことを人々に伝えてきたにもかかわらず、後に投獄されたとき、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と聞かずにはいられませんでした。最初に神の子が来たと信じたのに、困難を前に疑ってしまう。

 

そんな、揺れ動く信仰の持ち主から、洗礼を受けたのがイエス様でした。ところが、イエス様はこの洗礼を受けるとき、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と語ります。明らかに、うろたえ、戸惑い、揺れ動いている人間が行う洗礼も、新しい生き方をもたらす、ふさわしい洗礼だとおっしゃいます。

 

そして、イエス様自身も、洗礼を受けた後、悪魔から40日間誘惑を受けます。洗礼を受けた直後なのに、聖霊に満たされた直後なのに、いきなり誘惑がやって来る。しかも、聖霊のパワーで、すぐ追い払ったわけでもなく、40日間も、飢えと渇きに苦しみながら、悪魔の誘惑に耐えていく。

 

スタートからいきなり壁にぶつかり、伝道を始められるまで、長時間かかってしまいます。順調なスタートだと感じる人はいないでしょう。むしろ、初めからつまずいた、失敗だと感じる人が多いでしょう。洗礼を受けた多くの人が、信仰生活を始める私たちが、度々つまずく経験を、イエス様は先立って身に受けました。

 

この方は、あなたに言います。あなたも私と同じ、洗礼を受けた人間だと……水から上がったとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、神に呼びかけられた存在だと……私がどれだけ、自分のことをふさわしくないと思っても、神様は、私をふさわしい者として受け入れてくださる。自分の心に適う、神の子どもとしてくださる。

 

今このとき、新しい生活を始めようとして、つまずいている人、大きな壁にぶつかった人、誘惑を受けている人、それぞれにイエス様がついています。私たちに、聖霊でバプテスマを授けるこの方は、揺れ動く私たちと共に居続け、ふさわしく整えてくださいます。もう一度、天からの声を思い起こし、新しいスタートを切りましょう。

 

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、オンライン賛美歌6番「戻らないせかいで」(©︎柳本和良)を歌います。(お立ちください)

 

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使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン讃美歌の裏面をご覧ください)

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)

 

紹 介

(ご着席ください)本日も初めて来た方、久しぶりに来た方と、礼拝にあずかれたことを感謝致します。配信に乗らないように、新来者カードでご了承いただけた方のみ、礼拝後に紹介します。今日初めて配信を見ている方にも、神様の祝福がありますように。

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろから2ページ目をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

(お立ちください)共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の裏面をご覧ください)

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた献金封筒をお使いください。

 

献金の祈り(例)

変化と回復をもたらす私たちの神様、あなたから受ける言葉によって、私たちは新しく生かされます。今から後、私自身の生き方が変えられていくしるしとして、ここにささげた供え物を受け入れてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の3節を歌いましょう。

 

讃美歌

頌栄29番「天のみ民も」を歌いましょう。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

父がわたしを世にお遣わしになったように、わたしもあなたがたを世に遣わします。(『讃美歌21』93-6 ②)

祝 福

どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。(テサロニケの信徒への手紙一5:23)

 

報 告

本日も教会に集まって、配信を通して、日曜礼拝にご参加くださり感謝致します。先週の新年礼拝は、教会に集まった16名、同時に視聴された17名、計33名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

礼拝後、残ってお話される方は混雑を避けるため、ロビーではなく礼拝堂で、十分な間隔をとってお話しください。牧師も入り口ではなく礼拝堂にいるので、お話のある方はこちらでお願いします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。