ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『神の国って何ですか?』 詩編145:10〜21

聖書研究祈祷会 2021年9月1日


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案 内

華陽教会では岐阜県の医療提供体制を受けて、会衆が集まる集会を休止し、配信等による在宅聖研を行っています。共に今、自宅にいる人も、後から見る人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の578番「平和を求めよう」を歌いましょう。同居している方がいるところは、念のため、マスクをつけて歌われるか、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆癒しと回復の主である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて在宅聖研を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を必要とする人に、語りかけてください。

◆主なる神よ。私たちはこの一週間、人に怒りをぶつけたり、傷つけたりしてきました。私たち自身も、怒りや悪意をぶつけられ、痛みや苦しみを覚えてきました。どうか今、私たちの受けた傷、私たちがもたらした痛みを癒し、回復させてください。

◆主なる神よ。迫害や、弾圧や、紛争に巻き込まれた人たちを顧みてください。痛み、悲しみ、疲れ、絶望に覆われた人たちを、慰めてください。どうか今、あなたの御手を差し伸べて、回復と希望をもたらしてください。

◆主なる神よ。祈り、賛美し、聖書を読むとき、私たちを新しくしてください。あなたから受けた恵みと慰め、励ましを、他の人にも分けさせてください。どうか今、身近な人、助けが必要な人のために、私自身も送り出し、適切な仕方で用いてください。

◆私たちを支え起こす、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。詩編145:10〜21(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像

メッセージ 

私たちが「キリスト教を信じてみようかな?」と考える理由の一つに、天国についてのイメージがあると思います。天国と言えば、「人が死んだら行く世界」「良い人だけが入れる世界」あるいは「神を信じると入れる世界」……そんなふうに捉えられていると思います。地獄はその反対で、「悪い人が、神を信じない人が行く世界」……というイメージです。

 

キリスト教を信じたら、神を信じてクリスチャンになったら、地獄に行かないで済む。天国に入ることができる。それか、先立ってしまったあの子やあの人が、先行き不安な、この子たちが、私の信仰に免じて、天国に入れてもらえるかもしれない……そんな期待を抱いて、教会の門を叩いた人もいるでしょう。

 

でも実は、「天国」「神の国」って、「人が死んだら行くところ」というイメージとは、だいぶ異なるものなんです。実際、多くの教会で使われている、新共同訳聖書や新改訳聖書には、「天国」という言葉が出てきません。60年以上前の口語訳聖書には出てきますが、最近の聖書では「神の国」「天の国」あるいは「天の御国」という言葉になっています。

 

わざわざ言い方を変えているところからも、一般的に想像されている「天国」とは、だいぶ違うんだよ……ということが、分かってくるかもしれません。じゃあ「神の国」「天の国」って、いったい何を表しているんでしょう? キリスト教が語る「神の国」って、どんな世界なんでしょう?

 

実は先日、日曜礼拝でも話しましたが、神の国って「私たちが死んだら行くところ」ではなく、「私たちの方へやって来るもの」なんです。なんなら、もう既に、私たちの方へ「近づいているもの」なんです。毎週、礼拝で『主の祈り』を祈るときにも、「神の国へ行けますように」ではなく「御国を来たらせたまえ(神の国が来ますように)」と祈ります。

 

イエス様も、ガリラヤで宣教を開始したとき、人々にこう言って始めました。「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1:15より)……そう、神の国って、私たちが生きているこの世界と関係ない、別の空間、別の世界の話じゃなくて、あなたの生きているその場所に、近づき、訪れ、触れてくる世界なんです。

 

「死んだら行くところ」なんてものじゃありません。今、あなたがいるところに近づいてきたものなんです。それって何かと言うと、神様がとりなし、介入し、治めてくれる状態です。「神の国」とは、どこか遠くて高い場所のことではなく「神が世界を治める状態」のことを指しています。もう少し硬い言い方をするなら、「神の支配」のことです。

 

「神の支配」って聞くと、力ある存在に従うことを強制される、怖いイメージがついてくるかもしれませんが、先ほど読んだ詩編の言葉に、どんな支配かが書いてあります……「主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます」「ときに応じて食べ物をくださいます」「すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます」

 

これって、まさに私たちが、現実で待ち望んでいる世界ですよね? 倒れようとする自分を支えてくれる人がいる。うずくまっているときに無視しないで、起こしてくれる人がいる。必要なときに食べ物がもらえて、誰に対しても助けがあって、望みを叶えようとしてくれる。優しく、思いやりのある統治が、行き渡った世界。

 

「神の国は近づいた」と語るイエス様は、実際、この世界に神の国をもたらしました。倒れている病人、みんなが避けている罪人に触れて、癒し、回復させ、共に食事を取りました。お腹を空かせた人たちに、提供されたわずかなパンと魚を分け、全員が満腹になるよう行き渡らせました。姦淫の罪で石を投げられ、殺されかけていた女性を、誰一人ねじ伏せずに救いました。

 

あの日、あの時、倒れかけた人の前に、うずくまっている人の前に、お腹を空かせた人の前に、神の国は近づいてきました。彼らのもとに訪れ、触れて、その叫びに答えました。イエス様がもたらした教えは、今も、私たちのもとに、神の国の到来を知らせています。「いつか」「死んだら行ける」じゃなくて、「今」「ここに」「近づいている」んです。

 

あなたの待ち望む世界、あなたの叫びを受けとめる世界は、遠い場所、遠い将来から、あなたを待っているんじゃなくて、あなたの方へ、自ら近づいているんです。神様は、「おいで」と両手を開いて待つどころか、神の国、天の国ごと、あなたの前に持ってきて、「さあ、入れ」って言うんです。やばいですよね。

 

しかも、神の支配、神の介入、とりなしは、死んだ人にも及びます。イエス様は、死んでから三日以上経つラザロの墓で、「ラザロ、出て来なさい」と呼びかけました。その声は届かないはずの彼に届き、起きないはずの彼を立たせ、言ったとおりに、墓の外へ出て来させました。彼は、みんなから「間に合わなかった」「もう手遅れだ」と思われていた人間でした。

 

イエス様はまた、ナインという町で、ある未亡人の一人息子を生き返らせます。彼は生前、イエス様と出会ったことがありませんでした。イエス様を知ることも、信じることもありませんでした。彼の死を悼む母親も、この日、初めてイエス様と出会い、ただ泣いていました。祈るとか、信じるとか、できないでいる人たちでした。

 

そのとき、イエス様は母親を見て憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言って、棺に横たわる青年へこう命じました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」……普通、死者に生者の言葉は届きません。死者に生者の言うことは聞かせられません。死んだ者にイエス様を知ってもらうこと、信じてもらうことはできないはずです。

 

しかし、この方は、死んだ者にも介入し、とりなし、治めてしまいます。青年はイエス様の言うとおり起き上がって、ものを言い始め、母親のもとに帰されました。今、近づいている神の国が、私たちのもとへ到来したとき、生者の声が届かなかった、イエス様を信じられなかった全ての者も、神様は起こされ、変化をもたらされるんです。

 

さらに、その変化は、生きている者にも及びます。今回、取り上げた詩編の言葉には、ドキッとするような言葉も含まれていました。「主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます」……悪人は、不信仰者は、天国に入れなくて滅んでしまう……という一般的なイメージが浮かぶでしょう。

 

しかし、私は「主を愛する人」「主に逆らう者」という言葉を耳にすると、復活したイエス様が、自分を見殺しにして逃げてしまった弟子たちに、語った言葉を思い出すんです。かつて、イエス様に「あなたのためなら命を捨てます」と言ったペトロは、約束を守れず、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。その彼に、イエス様は裁きの宣告ではなく、問いかけをします。

 

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」……このやりとりを3回繰り返し、イエス様は3回ともペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と、自分に従うことを命じます。その言葉は、主に逆らった、自分に逆らったペトロを変え、生涯、信仰者を世話する者へ変えました。

 

また、イエス様が生き返っても信じられず、仲間に教えられても、疑い続けた頑固者のトマスは、復活したイエス様にこう言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」……その言葉は、弟子たちの中で唯一、イエス様を「わたしの主、わたしの神」と告白する者へ、彼を変えていきました。

 

あの日、あの時、「主に逆らう者」は「ことごとく滅ぼされて」いきました。信じられない者、逆らい続ける者、背き続ける者を、イエス様は、死を超えて介入し、とりなし、支配してしまいます。信じる者が受ける洗礼は、まさに「神に逆らい続ける自分」が、水の中に沈められ、死んだあと、「信じない者ではなく、信じる者にされた自分」へ復活し、水の中から起こされる出来事なんです。

 

だから、信仰を告白し、洗礼を受けた者たちは、今、ここに近づいて、私に触れている神の国が、この世界全体に到来し、完成し、実現することを、その生き方で現そうとします。イエス様によって、神の国に触れ、自分にもたらされた新しい希望、新しい生き方をこの世で証ししながら生きていきます。

 

神の国は、私たちが、いつか行く場所でも、遠くにある場所でもありません。今、ここに近づいて、訪れて、私たちを死の恐れから解放し、みんなが復活して朽ちない身体に変えられるまで、新しい生き方を与え続ける希望です。どうか、死を恐れ、裁きを恐れ、神の支配が見えないでいる人たちに、この福音が、この知らせが、届きますように。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(京都府京都市の桂教会)のために、破壊的カルトの被害者のために、精神障がい者と家族のために、発達障がいの関係者のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆京都府京都市の桂教会のために祈ります。コロナ禍で、礼拝を含む全ての活動が難しくなった教会に、あなたの憐れみがありますように。新しい知恵と力がもたらされ、一日も早く、共に礼拝できる日が訪れますように。

◆破壊的カルトの被害者のために祈ります。カルト信者の家族たちや、二世・三世の人々に、あなたの慈しみがありますように。あらゆる関係性が破壊され、時間と労力を奪われている人たちに、あなたの呼びかけが届きますように。

◆精神障がい者と家族のために祈ります。自身や家族の状態についていけない人たちに、安心できる場所と適切な知恵が与えられますように。自分の限界に気づき、頼れる人たちと出会い、暖かい日常を手にすることができますように。

◆発達障がいの関係者のために祈ります。当事者と周りの人々が、その特性を正しく理解し、健全な療育とサポートにつながりますように。様々な手がかりや環境の改善、課題の整理と設定が適切に行われ、毎日が少しずつ生きやすくなりますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌20番「すべてを売り払い」(©️柳本和良)を歌いましょう。オンライン讃美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

 

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

 

報 告

本日も、配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅聖研祈祷会は、ライブ配信の奉仕者2名、同時に視聴された2名、計4名が参加されました。

 

来週も配信等による在宅聖研を行います。会衆が集まる礼拝の再開は2週間毎に検討し、決定次第、教会員への連絡網とホームページ等でお伝えします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。