ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『私はこの方を知らなかった』 イザヤ書42:1〜9、ヨハネによる福音書1:29〜34

新年礼拝 2024年1月4日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、感染症対策のため、礼拝の中で四度、立ち上がって讃美歌を歌う間、会堂の窓を開放し、換気の時間を作ります。どうぞ、教会員の方は、窓の開閉にご協力ください。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。(エフェソの信徒への手紙2:7)

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、讃美歌二編の189番「丘の上の教会へ」を歌います。諸事情でマスクを着用できない方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。差し支えない方は、お立ちください。

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆この世界を創造し、愛される神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。2024年を迎え、新しい年が始まりました。去年一年間、私たちを支えてくださったことを感謝致します。どうか今、この一年も、私たち一人一人の思いと言葉と行動を導き、豊かな実りをもたらしてください。

◆私たちの神様。病や怪我、障害や衰えにより、弱っている人たちへ、新しく癒しと回復がもたらされますように。どうか今、慰めと励ましが豊かにあって、それぞれが希望と平安で満たされますように。

◆私たちの神様。能登半島で起きた地震に、巻き込まれた人たちへ、あなたの憐れみがありますように。どうか今、被害の拡大が抑えられ、必要な物資が届けられ、安心して眠れる夜が来ますように。

◆私たちを新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。イザヤ書42:1〜9、ヨハネによる福音書1:29〜34(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編36:6〜10(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、讃美歌21の87番「罪なき小羊」。最後の「アーメン」はつけずに歌います。差し支えない方はお立ちください。

 

KevによるPixabayからの画像

メッセージ

2024年1月1日、元旦礼拝が終わって一息ついた頃、石川県能登半島で、震度7の地震が発生し、岐阜県でも飛騨高山で、震度5弱の揺れが発生しました。幸い、同じ地区の飛騨高山教会は無事でしたが、石川地区の輪島教会は会堂の一部と牧師館の隣が倒壊し、七尾教会も外壁に亀裂が走り、幼稚園が避難所として開放されています。
 
新年早々、大変なことになりました。テレビやネットのニュースをご覧になって、犠牲者や怪我人、安否不明な方々に思いを寄せて、不安になり、落ち着かない気持ちになっている方もいるでしょう。何とかしたいものの、緊急車両を優先するため、物資を直接持ち込むことや、ボランティアとして伺うことは、まだ控えなければなりません。
 
だんだんと被災者の状況が分かってくると、東日本大震災や、ウクライナ戦争が始まったとき、度々浮かんできた問いが、再び湧き起こってきます。神様はなぜ、この状況を許しているのか? なぜ、こんな目に遭う人たちを放っておくのか? 神様は今どこにいて、何をしているのか? これは、神の怒りによるものなのか?
 
残念なことに、被災した地域に向けて、「神を知る人が少ないから」「信仰が足らないから、このような目に遭ったのだ」と、悔い改めを迫る信者も、一定数存在します。「日本で大きな災害が起きるのは、私たちの信仰が足りないからだ」と、信徒に徹夜で祈るよう、命じてしまう指導者もいます。もちろん、そんな脅しはいけません。
 
先に言っておきますが、信仰の大小や優劣とは関係なく、災害による被害は起こります。無垢な正しい人として、悪を避けてきたヨブも、天災によって家や家族を失いましたが、それは罪を犯したからでも、信仰が欠けていたからでもありませんでした。神と共に歩んだとされる敬虔な王であっても、短い治世であったり、敵に殺されたりしました。
 
この災害は、神の怒りなんだろうか? 私たちへのメッセージなんだろうか? そのように問いかけることは自然ですが、神様の怒りや憎しみを勝手に代弁し、被災者を、自身を貶めることは、最もしてはいけないことです。自分が愛している人から「あなたは私に怒りを、憎しみを向けている」と言われることが、どんなに辛いか分かりますよね?
 
また、痛ましい現実に、ニュースに、胸が苦しくなって、神様に対する不信感、疑念、猜疑心が湧いてくる今、こんな思いを持っていたら、救われるものも救われないで、助けられるものも助けられなくなるんじゃないか?……と不安が増すかもしれません。実際、そういう声が、事件の度に、災害の度に、耳へ入ってきます。
 
だって、イザヤ書にも、本当の神を拒絶して、神の助けを信じないで、外国の力に頼ったから、審判が下ったと書かれている……神様が与えた掟を守らず、他の神々を拝んだから、敵の手によって打ち負かされたと言われている……やっぱり、罪や不信仰を追求して悔い改めを求めるべきじゃないですか……と?
 
一方で、イザヤ書40章から55章は、敵に敗北したイスラエルに対し、ひたすら責めたり叱ったり、人々を追い詰める言葉が、語られたわけではありません。むしろ、慰めと希望が語られ、捕虜となった人たちが、元の国へ帰れるように導かれる、という良い知らせ、救いに焦点が当てられていました。
 
「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」「見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に、わたしはあなたたちにそれを聞かせよう」……被災地で、傷ついた人たちを罪人として、さらに追い詰める言葉とは、大きく異なる呼びかけです。
 
また、ヨハネによる福音書にも、人々に悔い改めのバプテスマを授けた洗礼者ヨハネが「世の罪を取り除く神の小羊」として、イエス様が訪れたことを告げていました。印象的なのは、洗礼者ヨハネが、イエス様について「わたしはこの方を知らなかった」と、2度も繰り返し言うことです。
 
不思議ですよね? ルカによる福音書を見れば、洗礼者ヨハネは、イエス様の母マリアの親戚から生まれた、エリサベトの子どもです。父親は祭司ザカリアで、ヨハネがお腹の中にいた頃、マリアの訪問も受けています。聖霊によって身ごもった、親戚の男の子について、知らないはずが、聞かされていないはずがありません。

ヨハネ自身も、預言者として、自分をお遣わしになった方、神様から、救い主メシアが来られることを聞いていました。両親から、神様から、聞いていたことを踏まえれば、自分が洗礼を授ける相手が、イエス様であることは知っていたはずです。にもかかわらず、彼は洗礼を受けに来たイエス様を見て2度言います。
 
「わたしはこの方を知らなかった」……「知る」という言葉は、聖書の中でも特別な使われ方をします。相手との特別な関係があると、「その人を知っている」と言い、相手との関係が失われると、「その人を知らない」と表現します。そういえば、洗礼者ヨハネと同じく、イエス様について「知らない」と2回繰り返した人が、もう一人いました。
 
それは、イエス様が十字架につけられる前、敵に捕まったのを追いかけて、自分も捕まりそうになった、12弟子の一人、ペトロです。彼は、周りの者から、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」「確かに、お前もあの連中の仲間だ」と訴えられ、「そんな人は知らない」と2度にわたって打ち消しました(マタイ26:69〜75)。
 
イエス様を知っていたのに、信じていたのに、「関係ない」と否定しました。思わず、どうしようもなくなって、「何のことだか分からない」と言いました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったのに、いざ、その時になると挫けてしまい、「知らない」と言ってしまいました。
 
しかし、イエス様はそのことを知った上で告げていました。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)……自分を知っていたのに「知らない」と言う者のために、この方は祈り、励ましと力をもたらします。
 
実は、救い主を迎えるように、人々へ悔い改めのバプテスマを授けた洗礼者ヨハネも、自分が投獄されたとき、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(ルカ11:3)とイエス様に尋ねるほど、不安にさらされ、揺れ動いた人間でした。
 
神の声を聞き、イエス様を「神の子である」と証しした人でも、確信が持てなくなる、信じられなくなる弱さを持っていました。けれども、イエス様は、不安に揺れ動くヨハネのことを「預言者以上の者」「偉大な者」と語り、彼から水でバプテスマを受け、救いの訪れを知らせます。
 
苦難や困難を前にして、神様のことが分からなくなった、信じられなくなった、「もう知らない」と口にした、あなたや、あなたの大切な人も、洗礼者ヨハネやペトロのように、イエス様が再び出会いに来ます。「わたしはこの方を知らなかった」「そんな人知らない」と口にすることが、救いを台無しにするのではありません。
 
むしろそれは、新しく、救い主を知る、救い主に出会うための過程です。疑ったり、迷ったりすることは、不信仰に留まる道ではなく、聖霊を受けた人たちが通ってきた道のりです。神様は、あなたが自分を知らないまま、見えないままにしておきません。魂が飢えたまま、渇いたままにしておきません。
 
新しい年を迎え、一年の始めに、目の前の世界が崩れるような、終わっていくような現実を、目の当たりにした今この時も、神の言葉は生きています。「見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう」……さあ、塞いでいた耳を澄まし、閉じていた目を開いて、良い知らせを受けましょう。救い主を迎えて、新しく出発していきましょう。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、オンライン賛美歌1番「枯れた谷に鹿が」(©️柳本和良)を歌います。差し支えない方は、お立ちください。

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。
会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。
会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。
会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。
会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。
会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。
会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
一同:アーメン。

 

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

 

 

聖 餐[1]

御着席ください。ただいまより、聖餐式を始めます。感染症のリスクを避けるため、パンとグラスを取る際は、必ず自分の手で触れたものだけを手に取って、他の人の分は触らないようにお願い致します。

 

讃美歌

最初に、マスクをしたままで讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。(*ご着席いただいたままで大丈夫です)

 

主の食卓への招き

兄弟姉妹、今から神の民の祝宴が開かれます。主は言われました。「やがて人々は東から西から、北から南から来て、神の国で共に食卓に着く」

 

また、福音書は伝えています。主は十字架につけられる夜、残される人々のために杯を取り、彼らと共に飲んで教えました。神の国で、あなたがたと共に、新たに飲むその日が来ると。この食事は、やがて来たる神の国で招かれる、主の食卓の先取りです。

 

主は、救いを信じて待ち望む者に、ご自分が用意された祝宴にあずからせてくださいます。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでこの食事にあずかりましょう。また、信仰を告白していない方、共に集った兄弟姉妹も、キリストのとりなしと祝福を受けましょう。

 

感謝と聖別の祈り

世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。

 

主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。

 

私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。

 

陪 餐

ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。

 

まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。(*配餐者は手指の消毒をしてパンと杯を配る)

 

オンライン賛美歌の後ろをめくった「陪餐」のところをご覧ください。パンと杯を共に受けつつ、この場にいる人のために、神の祝福を祈りましょう。

 

(パンを手に取る)

これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」

 「アーメン」

食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。

 

(杯を手に取る)

これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」

 「アーメン」

飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。

 

陪餐後の感謝

共に、感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この食事を見ている全ての者を結び合わせてくださいました。

 

あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちが御子の体の手足であること、御国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、(着席のまま)讃美歌81番の2節、3節を歌いましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

愛と慈しみに満ちた私たちの神様。感謝と喜びをもって、ここに集めた献金と、私たちの生き方をおささげします。どうか、私たちの日々の生活によって、恵みの主である、あなたがあがめられますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」1節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌15番「わたしたちは旅人」を歌いましょう。差し支えない方は、お立ちください。

 

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に、わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。(イザヤ書42:9)

 

祝 福

見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。わたしは決して見捨てない。(『讃美歌21』93-7-6 創世記28:15より)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった11名、同時に視聴された8名、計19名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

1月1日(月)の元旦礼拝には、教会に集まった19名、同時に視聴された6名、計25名が参加されました。礼拝後、久しぶりにみんなでぜんざいも食べられました。元旦に会えなかった方々も改めて、今年もよろしくお願いします。

 

なお、能登半島地震で被害を受けた教会の再建や人道支援のために、教団と教区で募っている献金を、受付で集めています。こちらもぜひ、ご協力よろしくお願いします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。

 

[1] 以下、「聖餐式」の式文は、日本基督教団信仰職制委員会 編『日本基督教団 式文(試用版Ⅰ)』日本キリスト教団出版局、2006、2010を参照し、大きく手を加えたものを載せています。