ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『それを明るみに出しなさい』ヨハネによる福音書8:12〜20、エフェソの信徒への手紙5:6〜20

日曜礼拝 2024年8月25日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。 (出エジプト記13:21)

 

讃美歌

讃美歌二編の188番「きみのたまものと」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。牧師の夏期休暇をいただいた、先週一週間も、無事に、日曜日の礼拝が守られ、会衆一人一人の信仰生活が支えられたことを感謝致します。どうか今、ご奉仕くださった鈴木重正先生や奉仕者一人一人の上に、あなたの恵みが豊かにありますように。

◆私たちの神様。今週は、牧会に出て5年目・10年目を迎える牧師たちと、関西学院大学の神学部で、研修セミナーが行われます。どうか今、全国の牧師と家族の上に、また、それぞれの牧師を迎えた会衆の上に、あなたのお支えが、豊かにありますように。

◆私たちの神様。来週は、礼拝後に、洗礼を希望している人と、受洗の学びを予定しています。どうか今、新しく、この群れに招かれている人と、仲間を迎える私たちが、誠実に準備を進めていくことができますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書8:12〜20、エフェソの信徒への手紙5:6〜20(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編98:1〜9(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。

 

讃美歌

讃美歌21の172番「ハレルヤ、うたえ」を歌いましょう。最後のアーメンは、つけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

メッセージ

 SNSをはじめ、テレビや新聞、週刊誌など、様々なメディアで色んな悪事が暴露されるようになりました。被害者による告発、内部からのリーク、あるいは、ジャーナリストの取材によって、今まで隠されていた問題が、白日の元にさらされます。中には、目を覆いたくなるような、悲惨な事件も多いです。

 特に、性的虐待や、セクシャルハラスメントの問題は、被害を告発されてからも、多くの痛みが伴います。それは、私たちキリスト教会においても同じです。牧師や司祭による性暴力、組織的な隠蔽と否認、機能してない相談体制……ちょっと振り返るだけでも世間で話題になった事件や、教団・教区で議論になった問題が、思い出されてくるでしょう。

 もちろん、牧師や司祭に限りません。信徒の間で起こったセクハラや、クリスチャンの家庭で起こったDVも、第三者機関と相談することや、被害の防止を優先するより、問題を矮小化され、覆い隠される傾向があります。本当は、何がセクハラに当たるのか、被害があったとき、どのように対応すればいいのか、分かち合う必要があるでしょう。

 けれども、教会というのは聖なるところ、品行方正な人たちの集まりだから、卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談が出てくるなんてあり得ない……ましてや、教会関係者による性的虐待やセクハラなんて、口にするのもおこがましい……そんなふうに、悪事を疑うこと自体、避けようとする人もいます。

 実際、勇気を出して、問題を告発した被害者の方が、教会を攻撃していると非難され、頭がおかしいと侮辱され、「原因はあなたの方にある」と黙らされてきた事例が、数多く報告されています。事実を確認するより先に、証言を検証するより前に、訴えられた牧師や司祭が庇われて、被害がなかったことにされてしまう……そんな事例もありました。

 何なら、教会で、セクハラや虐待を防ぐための学習会を開くことさえ、「必要ない」「関係ない」と検討されないところもあります。実際、中部教区でも「まずは、ハラスメントの被害を防ぐ、学習会を行うために、委員会を設置できないか?」という提案が出ても、「相談窓口は作れない」「運用できない」という理由で、毎度、検討がストップしています。

 積極的に、問題を覆い隠す意図はないかもしれません。本当に、個々の教会を信頼しているか、内々に解決できると思っているかもしれません。しかし、無意識に、自覚なく、ネガティブなものを、なるべく表にさらしたくない……という意識が、私たちの中に出てきます。厄介な対処や対策へ、踏み出したくない気持ちがあります。

 そんな中、教会へ宛てられた手紙の中に、それも、聖書に収められている手紙の中に、気になる言葉が出てきました。「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」「彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです」……口にするのも恥ずかしいのに、それを明るみに出しなさいと命じられる。

 いったい何のことかと思うでしょう。少し前の、エフェソの信徒への手紙5章の初めの方に、それに関する具体的な注意が出てきました。「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはいけません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません」

 いわゆる「性的不道徳」「性的不品行」と呼ばれるような内容が出てきました。今でいうセクハラ発言のように聞こえます。そんなもの、教会にあるはずがない……という文脈ではなく、教会でも、そのような言動を許容しかねない空気があることを、厳しく追求した言葉です。

 6節の「むなしい言葉に惑わされてはなりません」という注意は、こういった空気が、「何の問題もない」とするような主張に対し、惑わされてはならない、という指摘になっています。何が問題に当たるのか、何を注意しなければならないのか、基本的なことに言及した、教育の言葉とも言えるでしょう。

 教会やミッションスクールに通っていれば、一度は耳にする聖句も出てきます。「光の子として歩みなさい」「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです」「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」……皆さんは、口にするのも恥ずかしい問題が、教会の中で見え隠れしたとき、何が主に、神様に、喜ばれると思うでしょうか?

 教会の印象を落とさないように、問題が明るみに出ないように、覆い隠して過ごすことか? それとも、問題と正面から向き合うために、闇を照らして、明るみに出していくことか? もしかしたら、自分自身の無知や過ちが照らされてしまうかもしれません。闇の業に加担していた、恥ずかしい姿を自覚させられるかもしれません。

 クリスチャンってそんな人だったんだ……教会ってこんなところだったんだ……そんなふうに、幻滅されるのを恐れて、闇を照らしていく勇気が、出てこないかもしれません。明るみに出すことで、清らかさが失われ、教会に「死」がもたらされ、二度と立ち上がれなくなるのでないか……そのような不安に襲われます。

 けれども、手紙の著者は、不思議なことを語っています。「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです」……ひそかに行われている、口にするのも恥ずかしいことを明るみに出せば、当然、ネガティブな反応が待っているのに、それらがみな、光になる……明らかにされて、変わっていく。

 エフェソの信徒への手紙は、宣教者パウロの書いた手紙に見られる、重要な教えの多くが要約されています。そのパウロが、もともとどんな人物であったのか、キリスト教会で知らない人はいないでしょう。イエス・キリストを神の子と信じず、ステファノの処刑にも賛成し、他の信者も殺そうとして、息巻いていた人物でした。

 信者の家を破壊して、祭司長たちと手を組んで、反キリストを扇動していた、最先鋭の人でした。彼のしてきたことは、文字通り、繰り返し聖書の中でさらされています。しかし、そのほとんどは、彼自身が人々に告白してきた言葉です。使徒言行録でも、パウロの書いた手紙の中でも、彼の犯した闇の業は、何度も証言されています。

 キリスト教徒の手を引いて、捕まえようとした自分が、その過ちで目を見えなくされ、手を引かれるようになったこと……自分自身が処刑するため、捕まえようとした信者に、手を置いて祈ってもらい、再び目が見えるようにされたこと……今まで反対してきたことを覆し、イエス・キリストの教えと業を人々へ伝えるようになったこと。

 自分がどのような過ちを犯し、どのように変えられていったのか、パウロ自身が明るみに出し、それらを光に変えられていきます。恥ずかしかった過去の姿も、闇に陥っていた自分の姿も、キリストとの出会いを語る、新たな姿に変えられます。明るみに出した彼の姿は、パウロ自身を暗闇に留め、死に至らせることはありません。

 むしろ、キリストの光に照らされて、死者の中から起こされたことを、パウロは何度も思い起こします。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」……それは、まさにパウロの経験したことでした。同じことは、他の弟子たちにも起きています。

 イエス様が敵に捕えられたとき、見捨てて逃げ出してしまったこと……「最後まで従います」と約束したのに、誰一人、約束を守れなかったこと……十字架につけられて、三日目に復活すると言われていたのに、イエス様が直接訪れるまで、誰も信じられなかったこと……中でも、弟子たちの中心人物であったペトロの過去は、多くの人が記憶しています。

 自分も敵に捕まりそうになったとき、イエス様を「知らない」と三度否定してしまったこと……しかも、呪いの言葉まで吐いたこと……目を覚まして、祈らなければならなかったとき、三度も眠りこけてしまったこと……実は、弟子としてふさわしくない、不信仰と見なされる、愚かな恥ずかしい姿を、何度も、何度も、さらしていました。

 しかし、聖書はそのことを隠しません。ペトロも、自分が陥っていた暗闇を照らし、人々に語って聞かせます。こんな自分に、イエス様がどこまでも付き合ってくれたこと、こんな自分を、イエス様が支え続け、励まし続け、新しくし続けてくれたこと……明るみに出した彼の姿は、ペトロ自身を暗闇に留め、死に至らせることはありません。

 再び、あの言葉が聞こえてきます。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」……そう、私たちが、自分の闇を照らされるとき、光の中にさらされるとき、闇が光を覆う心配ではなく、明らかにされるものがみな、光となるよう導かれる、神様の業を信頼するのが、信仰です。

 イエス様は言いました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」……それは、あなたに、私に、私たちに、言われていることです。キリストの光に、闇を照らされた者たちは、暴かれた闇によって死ぬのではなく、死者の中から立ち上がらされ、光となって、新しい生き方に変えられていきました。

 教会も、そのことを信頼していいはずです。そのことを何度も思い出して、歩んできたのが教会のはずです。だから、私たちも、恐れず闇と向き合いましょう。何が主に喜ばれるかを吟味しましょう。眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる……アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌11番「どうか平和の主が」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖句と主題

御着席ください。新年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。

 

年間聖句

「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」

 

年間主題

華陽教会では、「ここをみんなに知らせよう」というテーマで、ヨハネによる福音書17章18節を今年度の年間聖句にしています。

 

今週は、教会へ来始めたばかりの人、洗礼を希望している人のために祈り、共に、神の民に迎えられる準備をしていきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

憐れみ深い神様。私たちの生活の一部をおささげします。どうか、これらの献金を、困っている人のため、信仰生活を支えるため、教会の働きを続けるために用いてください。人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」3節を歌いましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の92番「主よ、わたしたちの主よ」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。差し支えない方はお立ちください。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。(エフェソの信徒への手紙5:11)

 

祝 福

主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。主が御顔を向けてあなた(がた)を照らし、あなた(がた)に恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。(民数記6:24〜26)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった 名、同時に視聴された 名、計 名が参加されました。牧師の休暇中も、ご奉仕くださった鈴木先生や、奉仕者の皆さんに感謝致します。

 

来週の日曜日は『既にかなえられている?』と題して、ヨハネの手紙一5:10〜21のお話をします。なお、今週は牧師が神学部の研修セミナーへ参加するため、28日(水)の聖書研究祈祷会はお休みです。次回の聖書研究祈祷会は9月4日(水)に開かれます。

 

また、来週9月1日(日)は礼拝後に昼食を挟んで受洗志願者の洗礼準備会を行います。もし、他にも受洗の学びに出てみたいという方がいましたら、自由に参加できるようにしています。

 

中高生に関しては教会でお昼を出すので、大人の方でお昼が必要な方は、実費300円で用意しますので、事前に、もしくは当日、牧師までお声がけください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。