ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『お前は要らない?』 マルコによる福音書9:33〜37

日曜礼拝 2022年8月7日


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案 内

華陽教会では、感染症の拡大を受け、奉仕者6〜7名、教会員3〜4名、新来者1〜4名に調整して、配信と並行して礼拝を行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマの信徒への手紙12:1)

 

讃美歌

マスクをしたままで、こどもさんびか改訂版139番「ハクナ ワカィタ サ イェス」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

 

◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、日曜日の礼拝を始めることができ、感謝いたします。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。今日は平和聖日です。77年前に広島と長崎で落とされた原爆によって、多くの命が失われました。どうか今、再び同じ悲劇を起こすことが、どの地域、どの人々との間でもないように、私たちの注意と勇気と良心を導いてください。

◆私たちの神様。会衆全員が集まれる礼拝を休止してから、一ヶ月が経ちました。新型コロナの感染は過去最大規模に広がっており、あちこちで医療提供体制が逼迫しています。どうか今、一日も早く人々の健康と日常が回復するように助けてください。

◆私たちの神様。連日、政治とカルトの結びつきやカルト2世の被害について報道されています。平和とはほど遠い現状が、それぞれの魂を蝕んでいます。どうか今、私たちの前に、隣に、後ろに存在する歪みを、変えていくことができますように、導いてください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マルコによる福音書9:33〜37、コリントの信徒への手紙一12:14〜26(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。交読詩編も同様に後からカットしています。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編13:2〜6(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(ご着席のままで大丈夫です)

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の422番「主よ、この時代に」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

jacqueline macouによるPixabayからの画像

メッセージ

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません……コリントの信徒への手紙一12章21節の言葉は、非常に分かりやすい話です。なくなったら困る部分、他に代わりがない部分について、「要らない」とは言えないよね? という問いかけは、誰もが納得するところです。

 

手がなければ、物を掴むことができません。足がなければ、歩くことができません。目があっても、頭があっても、それらの部分が欠けていれば、日常生活に困ります。明らかに必要なところです。おそらく、「私は足なんて要りません」「目がなくたって大丈夫です」と言い出す人は、きっと、ほとんど、いないでしょう。

 

でも、次の言葉には、首を捻る人も多いのではないでしょうか? 「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」……本当にそうでしょうか? 私の右耳には、生まれた頃からミミズ腫れがあります。今は表面に収まっていますが、思春期には体の成長に伴い、ミミズ腫れの一部が押し出され、皮膚から少し飛び出ていました。

 

寝ている間に引っかかったり、何度も触ったりするうちに、ピュッと血が出てしまうことも少なくありませんでした。自分の体の中で、最も弱く見える部分です。クラスメートから、「ミミズ」と呼ばれるようになった原因でもあるこの部分が、「かえって必要なのです」と言われても、その頃は、納得できなかったと思います。

 

しかも、聖書には「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」とも書かれています。端的に言って、意地悪に思えます。何で見劣りする部分を目立たせるのか? もっと見えにくいところにしてくれないのか? これが何の役に立っているのか? これのどこが必要なのか?

 

私だけじゃなく、自分の一部に、そういう思いを感じたことのある人は、きっと少なくないでしょう。確かに、足がなかったら困ります。手が要らないとは言えません。でも私の中で弱く見え、見劣りする部分が、どうして必要と言えるのか、どうして欠けてはならないのか、正直理解できません。

 

何なら、「ミミズ」「ミミズ」と呼ばれるのが嫌になって、皮膚から飛び出たミミズ腫れの一部を、自分で引きちぎったこともあります。もちろん、皮膚から飛び出たその部分が無くなっても、私は一切、困りませんでした。むしろ、成長期だったので、引きちぎったところから、また少しずつ盛り上がって、皮膚から伸びてくることが何回かありました。

 

たぶん、その度にちぎっていたから、今は飛び出ていないんだと思います。ある時、父から言われました。「ミミズ腫れそのものを手術で取ることもできるらしいけど、ノブは取りたいか……?」と。不思議なことに、私は首を横に振りました。顔にメスを当てられるのが怖いというのもありましたが、ミミズ腫れそのものが無くなると聞いて、なぜか、自分の一部を失う気持ちになったんです。

 

「要らない」と思っていたんです。「切ってしまいたい」「取ってしまいたい」と思っていたんです。それなのに、この傷が無くなると、私は、私を組み立てている何かが、失われると感じたんです。実は、人から言われるまで、私は顔の横にあるこの傷を気にしたことがありませんでした。別に弱い部分だと感じてもいませんでした。普段、自分からは見えませんし、行動に支障をきたすものでもないからです。

 

私が気にするようになったのは、この傷を見て「気持ち悪っ!」と言われたから、指をさされて「ミミズがいる!」と叫ばれたからです。同じように、私が「気持ち悪っ!」と言ってしまった相手がいました。弄ってしまった相手がいました。自分が何をしていたのか、どんな暴力をふるったのか、教えてくれたのは、この傷でした。

 

同時に、私の傷を見て、私が傷つかないように、言葉を選び、支えてくれる人たちにも気づかせてくれました。この傷と一緒にいることで、私の言葉や行動は組み立てられていきました。無邪気に破壊してきた誰かの平和を、これ以上壊さないように、回復できるように、願いながら歩むように導いてくれたのは、神様が与えてくれた私の一部でした。

 

私は最初、体の中でほかよりも弱く見える部分、見苦しい部分によって、自分の平和が壊されていると思っていました。でも、実際は違います。平和を壊すのは、本来「要らない」と言わなくていいものを「要らない」と言わせる人たちです。弱い、醜い、汚い、と笑ってしまう人たちです。

 

今も、自分の意志では変えられない、肌の色や、性的指向や、ルーツをもとに、平和を壊されている人たちがいます。暴力に晒されている人たちがいます。しかし、ほかよりも弱く見える、見苦しく思われる、私たちの一部が、かえって必要なものとして、この世界に平和をもたらします。

 

「お前は要らない」と十字架につけられた神の子が、「お前は要らない」と迫害された弟子たちが、「お前は要らない」と潰されてきたあなた自身が、この世界を回復する、キリストの体の一部として置かれています。どうぞ、あなた自身と、あなたの前に、隣に、後ろにいる人が回復し、新しくされ、平和の使者として遣わされますように。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌25番「住む家のないわたしたちに」(©︎柳本和良)を歌います。オンライン賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン賛美歌の後ろから2ページ目をご覧ください)

 

使徒信条93-4A

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)


使徒信条93-4B

わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン。

 

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、配信を見られた方、久しぶりに参加された方と、一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろから2ページ目をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の裏面をご覧ください)

 

主の祈り93-5A

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。


日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳

天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

 

愛 餐

本日は、共に礼拝をささげる全ての人と神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。配信を見ながら礼拝をささげている方も、お家にあるパンと水を用意して、一緒にこの食事にあずかれます。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。共に、神様が備えてくださった見えない食卓にあずかりましょう。

 

食卓への招き

かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」

 

また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」

 

主は、少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。

 

信仰を告白した人があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合いたい方は誰でも、パンと水を手に取って、共に食事を味わいましょう。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげます。

恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。

 

様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑い迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。

 

分かち合い

共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、このパンと水は、信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。どうぞ、用意しているパンと水を手に取って、神の祝福にあずかりましょう。

 

主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。

 

主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげましょう。

愛と平和の源である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。

 

足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者が与えられます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。(初めての方は、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください)

 

献金の祈り(例)

愛と慈しみに満ちた私たちの神様。感謝と喜びをもって、ここに集めた献金と、私たちの生き方をおささげします。どうか、私たちの日々の生活によって、恵みの主である、あなたがあがめられますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の2節を歌いましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌15番「わたしたちは旅人」を歌いましょう。

 

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。(マルコによる福音書9:37a)

 

祝 福

どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(テサロニケの信徒への手紙二3:16)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった10名、同時に視聴された9名、計19名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。

 

華陽教会では、感染症対策のため、引き続き8月末まで、奉仕者6〜7名、教会員3〜4名、新来者1〜4名の計10〜15名で集まる『調整型小規模礼拝』を行います。教会員の方は、礼拝出席希望表や牧師とのメール、電話で、出席する日を調整していきます。

 

新来者の方も、毎週一家族分、出席できるように枠を用意しています。始めて教会に来る方は、日曜日は問い合わせなしで参加できるので、ぜひお越しください。一回目の参加以降は、他の教会員と同様、ご希望を聞きながら、出席する日を調整させていただきます。

 

また、教会学校こども礼拝と聖書研究祈祷会は15名以内になるよう、始めて来る方のみ問い合わせをいただく形で調整して、集まれるようにしています。また日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。