ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『公然の当然に憮然とするパウロ』 エレミヤ書23:23〜32、ガラテヤの信徒への手紙5:2〜11

礼拝メッセージ 2018年7月1日            

【伝統に従う教会】

 スカートを履くことが嫌で嫌でたまらない女の子がいました。彼女は小学校の間、一度も自分からスカートを履いたことはありませんでした。しかし中学校にあがったら、女子はみんなスカートの制服を履かなければなりません。必死にズボンを履ける学校がないか探した彼女は、ある私立の学校で、制服の生地の指定はあるものの、スカートかズボンかの指定はされていないところを見つけました。

 

 彼女は必死に勉強し、その中学校に合格しました。入学式の日、他の生徒はみんなスカートを履いてやって来ました。しかし彼女は、校則で指定された生地を使って、自分で制服のズボンを作りました。そして、意気揚々と学校へ出かけていったのです。ところが、指定された生地のズボンで登校してくる彼女を見て、学校は翌月から新たな校則を付け足しました。「女子生徒は、指定された生地のスカートを履いてくるように!」と。

 

 公然の事実、当然の話とされていることが、世の中にはたくさんあります。たとえば今話したように、女子の制服はズボンではなくスカートだという話……みんな知っています。当然の話です。たとえ、ズボンを履いてくる女子生徒が、学校の風紀を何一つ乱さなかったとしても! スカートだとお腹が冷えやすく、電車で盗撮に遭いやすかったとしても! 学校は、世間は、女子生徒にスカートを履かせようとします。

 

 ある教会の礼拝に、素晴らしいピアニストが出席していました。その教会で時々コンサートも開催していました。礼拝はいつもオルガンで奏楽をしていましたが、青年たちの提案で、ペンテコステの日曜日は、ピアノとギターで讃美歌を歌おうという話が出てきました。しかしその提案は、圧倒的多数の信徒から却下されてしまいました。礼拝でオルガン以外を使うなんてとんでもない! 厳粛さがなくなってしまう!

 

 たとえ聖書に、太鼓やハープを演奏しながら賛美をする人たちが出てこようと、元気よく踊りまわって神様を礼拝する記事があろうと、私たちは「伝統だから」という言葉で、今の礼拝の形が変わることに抵抗します。その伝統がどのようにもたらされたのか、今はどんな意味を持っているのか、誰かに説明することができなかったとしても……「当然でしょう?」「だいだいどこの教会もそうなのですから」

 

 ほとんどの場合、私たちは「当然の話」「公然の事実」を持ち出されたら、口を閉ざしてしまいます。「そういうものだから」「当たり前だから」この言葉に対抗するほど、エネルギーを使うことはないからです。ところが、パウロは果敢にも、人々に公然と教えられていたこと、当然の話とされていたことに挑戦します。非常に攻撃的かつショッキングな言葉で……。

 

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【法を守れない人間】

 「断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」割礼……教会以外ではあまり聞かない言葉です。教会でも、その内容ゆえに、正面から説明することを避ける傾向があります。しかし、もう割り切って言わせてもらいましょう。割礼とは、男性の生殖器から包皮を切り取る儀式です。ユダヤ人の男性はみんなこれを受けていました。アブラハムの時代から続く、れっきとした伝統です。

 

 ユダヤ人にとって、割礼は神様から選ばれた民であることの証でした。創世記17章で神様はアブラハムに約束します。「わたしはあなたとあなたの子孫の神となる。あなたをますます増やし、このカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に永久の所有地として与える」……そうして、アブラハムにも約束させます。

 

 「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい。あなたたちの男子はすべて、割礼を受けるように。包皮の部分を切り取るように。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしである」……さらに、割礼を受けない男がいたら、その人は民の間から断たれるとまで言われます。ですから、ユダヤ人の男性は生まれてすぐ、赤ん坊のときに割礼を受けました。生まれて最初に守らされた掟、律法を代表するルールでした。

 

 律法を守ること。十戒をはじめとする、神様から与えられた掟を遵守すること。それこそが、かつては人々の救われる条件でした。しかし、律法を完全に守ることができた人間は、誰一人いませんでした。「友人に偽証してはならない」……もちろん、人を騙すことは悪いことです。皆さん同意するでしょう。しかし、この掟一つとっても、生涯守り切った人間がいるでしょうか?

 

 「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」……これは律法の基本中の基本、十の戒めに出てくるものの一つです。「私は人前で誰かの物を欲しがったことはない!」という人もいるかもしれません。しかし、平日に幼稚園の方へ顔を出していると、それは幻想だなと思います。

 

 私たちは幼い頃、「それ僕の!」と言って人のおもちゃを取り上げ、「私もあれ欲しい!」と先生や両親にねだりました。いいですか? 基本中の基本である掟が、我々の最も早い段階でいとも簡単に破られるわけです。なんなら、それが大人になっても続いていくことを、ここにいる大多数の人間が理解していると思います。私も先日、隣人のiPadを見て「いいなぁ……それくれない?」と欲しがったばかりです。

 

 ここからここまでを守りなさい……私たちにはルールが与えられています。日本国憲法、民法、刑法、宗教法人法……しかし、それらを何一つ犯さない人間なんてほぼいません。信号無視……これも立派な法律違反の一つです。車を運転している人間なら、「今パトカーがいたら捕まったな」と思った瞬間が何度かあるでしょう。律法に限らず、私たち人間は、はっきり定められたルール、公然の掟である法律も、実は守れていないのです。

 

 たとえ、違反切符を切られたことがなくたって、犯罪者として捕まったことがなくたって、私たちは自分たちで定めたルールを日常的に犯します。国会という最も厳正にルールを適用されるべきところであっても、こんな簡単にルールを破り続けているのです。しかも、人間と違って、神様は常に我々を見ています。我々の違反行為を見ています。隠れ場に身を隠すことはできません。神様は我々の罪を知っています。

 

【「当然」に抗議する】

 パウロはよく分かっていました。掟を守ることで、神様から認められようと、自分たちは安全だと思い込むことの愚かさを。ここからここまで出来ている自分は大丈夫。でも、あの人はここができてないからダメだ! そうやって自分たちは安全圏に避難し、人を批判することの浅はかさを。実際は、私たちの中で誰一人、安全圏に入れる者なんていないのです。

 

 ルールを守れているのではありません。破ったルールを無視しているだけなのです。公然の事実、当然の話に従うことは、私たちに安心感をもたらします。みんなやっているから。みんな納得しているから。だから私も大丈夫……そこに、パウロはガツンと石を投げました。「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は、律法全体を行う義務があるのです」

 

 ガラテヤの教会は、パウロが2回目の伝道旅行で設立した教会で、その後もちょくちょく彼が顔を出していた所でした。ところが、パウロが最後に教会を訪れた後、間もなくあるユダヤ人たちが、ガラテヤ人も割礼を受け、律法を守らなければ救われないと主張し始めました。当然でしょう? 神様を信じている人は、今までみんなそうしてきたのです。

 

 女子はスカートの制服を着て、男子は髪を伸ばさないで、社員は上司より先に帰宅せず、母親は子どもと夫を置いて出かけない……そういう人たちが、正しく無難な人とされてきました。あなたも安全圏にいたいでしょう? みんなと同じ、安心できる立場でいたいでしょう? しかし、違います。パウロははっきりと断言します。

 

 あなたは安全ではない。「公然の事実」「当然の話」に従うあなたは、何の安全も保証されない。むしろ、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います! キリスト・イエスは、律法を守れない私たちのために、律法を破っていることに気づきさえしない私たちのために、十字架にかかってくださいました。私たちの負債を、全て肩代わりして、支払い終えてくださいました。

 

 しかしなお、私たちは、ここからここまでと定められたルール、自分が守れそうな掟を大事にすることで、神様に救われようとします。悪いことをしなかったから、良いことを続けているから、神様、私を助けてください。ここまでしなければ、ここまでやっておけば、私は大丈夫ですよね……そうやって取引をしてしまいます。

 

 パウロは訴えます。あなたはあなた自身の力では救えない。イエス様があなたを救ってくださったのに、あなたはまだ、キリストではなく自分自身の力に頼るのか? 何のために守っているかも分からない、公然のルール、当然の話に従うのか? 神様は、キリストの十字架と復活を信じる全ての者を、新しいイスラエルとして、神の民としてくださったのに、あなたは目に見える割礼というしるしで、安心しようとしているのか?

 

【迫害を受ける】

 目に見えるもの、人々が同意しているもの、これに抵抗したために、パウロはひどい迫害に遭いました。なぜ我々を不安にさせるのか? 我々から安心を取り去ろうとするのか? 我々が欲しいのは、方程式のように分かりやすく、インスタント食品のようにすぐ手に入る平安なのに……けれども、それを逆手に取って、宣教者パウロは言い返します。

 

 「このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう!」……なんと、パウロは自分から、イエス様の十字架と復活が、つまずきをもたらすものだと語っているのです! キリスト教は分かりやすくない、受け入れやすくない、むしろ人々をつまずかせる話なのだと!

 

 その通りです。法律違反で捕まったことがない人に、キリスト教は「あなたも罪人の一人だ」と言ってきます。お涙頂戴の犠牲の話で終わるのではなく、死者の復活というリアリティに欠ける信じがたい話をしてきます。「敵を愛せ」とか「7の70倍まで許せ」とか、「ここまでやればいいですよね?」という私たちの線引きを簡単に超えてきます。私たちの常識を、想像を、期待を、何度も何度も超えて来るのです。

 

 かつて、預言者エレミヤは、人々に神様の言葉を語りました。「わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか」……そう、神様の言葉は私たち人間にとって、いつも受け入れやすいものではないのです。エレミヤの周りには、偽預言者がたくさんいました。「平和があなたたちに臨むと主が語られた」「災いがあなたたちに来ることはない」……偽預言者の語る言葉は、いとも簡単に人々へ受け入れられました。

 

 一方で、人々の罪と悪を告発するエレミヤの言葉は厳しく、誰も彼の言葉を聞きませんでした。当然でしょう? みんな平和の方が好きですから。災いが来るなんて聞きたくありません。自分たちの悪い行いなんて気づきたくありません。圧倒的多数が信じる平和、公然と語られる希望、その方が安心できます。

 

 たとえ後日、エレミヤの言うとおり、イスラエルに災いが降ったとしても、人々は繰り返し、預言者の言葉より、公然の事実、当然の話に従ったのです。もし、預言者の言うことを本当だと思っても、それに従うことはたいへんエネルギーのいることでした。周りを説得する。共同体を間違った方向から振り向かせる。そう簡単にできることではありません。「公然」や「当然」に対抗すれば、たいてい自分も迫害されるからです。

 

【愛の実践】

 パウロは訴えます。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」……その通りです。杓子定規な法の適用よりも、愛ある行動の方がずっと大切だ……誰もが認めます。しかし、具体的な場面でそれを実行しようとすれば、いくつもの攻撃に身を晒されます。

 

 土俵に女性が上がってはいけない……当然の話です。みんな知っています。たとえ、その上で市長が倒れ、救命スキルを持った女性が駆けつけようと「降りてください、女性は土俵から降りてください」と叫ばれるほどには……当たり前でしょう? 何百年と続いた伝統ですから。たとえ、それが明治以降の話で、それ以前は女性が土俵に上がっていた事実があろうとも……

 

 選手は監督の言うことに聞き従わなければならない……これも当然の話です。なんなら国が指定する道徳の教科書にだって書いてあります。もちろん学校だけの話ではありません。会社でも上司の言うことに聞き従わなければクビなのですから。たとえ、その指示が相手に怪我を負わせ、命の危険をもたらすものであったとしても……

 

 しばらく前に、ホームレスの人が教会に訪ねてきました。彼はお金も食べ物も要求しませんでした。ただ、一晩泊めてもらえないか聞いてきました。寝るところがなかったのです。嵐が近づいていました。しかし、私はそれを断りました。当然でしょう? 幼稚園があるのです。私は夜いませんし、人を泊められる場所もありません。たとえ断れば、彼が夜雨に打たれることになったとしても……私は正しいことをしたつもりです。

 

 しかし……パウロの言葉が刺さります。「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」……私の隣人が、今度その人が来たとき、どうやって生活保護を申請すれば保護してもらえるのか、丁寧に教えてくれました。市役所では、住所のない人間は、生活保護を申請できないという公然の決まりがありますが、実際はそれをすると法律違反です。岐阜市にも厚生省からその通知が届いています。「当然」も「公然」も、案外根拠を持たないことが多いのです。

 

 告白しましょう。私も罪人の一人です。未だ、キリストを何の役にも立たない方にしようとする、愚かな人間の一人です。本来なら、ここに立つ資格はありません。しかし、ありえない回復と、ありえない変革をもたらすキリストは、私を、私を執り成す皆さんを、変えてくださいます。

 

 かつて、この教会のルーツであるメソジスト教会の創始者であったジョン・ウェスレーは、「信仰を失った者は誰でも、聖餐を受けることによって救いの信仰に戻ることができる」という事実を発見しました。前にも少し話しましたね。

 

 彼はこう言います。「不信仰の者は祈り、聖餐を受けるべきでしょうか。その通りです。求めなさい。そうすれば与えられる。もし、キリストが罪深い、助けようのない信仰者のために亡くなられたことを知っているならば、パンを食し、杯から飲みなさい」……

 

 皆さんの前に、パンとぶどう液が用意されました。洗礼はキリスト者になるための式であり、聖餐はキリスト者であり続けるための式です。私たちの周りにある、公然の事実、当然の話に寄りかかるのではなく、ここにいるキリストとつながりましょう。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、『霊』により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」