ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『神と息子に抵抗する』 サムエル記下17:15〜23

聖書研究祈祷会 2021年3月17日


『神と息子に抵抗する』聖書研究祈祷会 2021年3月17日

 

案 内

華陽教会では、現在の医療提供体制を踏まえて、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の人数調整をした上で、聖書研究祈祷会も再開しています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の33番「キリエ・キリエ」を歌いましょう。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美をささげましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆平和と希望の主である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて聖書研究祈祷会に集まることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を必要としている人を照らしてください。

◆正義と公正の主である私たちの神様。この一週間も、たくさんの不正や過ちを犯し、止めることができませんでした。どうか今、傷ついた人に慰めを、挫けた人に励ましを、立ち止まった人に力を与え、私自身も起こしてください。

◆癒しと回復の主である私たちの神様。この一週間も、期待していた治療や変化を得られなかった人を助けてください。どうか今、失われた喜びが回復され、新しい発見がもたらされ、命が豊かにされますように、一人一人を導いてください。

◆赦しと和解の主である私たちの神様。この一週間も、怒りをぶつけてしまった相手、傷つけてしまった相手、仲直りできなかった相手のことを思います。どうか今、一方的にではなく、誠実で健全な関係が築けるように、私たちの間にいてください。

◆私たちの痛みを共に負われる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。サムエル記下17:15〜23(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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Jarmo LarsenによるPixabayからの画像

メッセージ

おそらく、いきなりさっきの聖書箇所を読んだところで「事態が全く飲み込めない」という人が多いでしょう。簡単に説明すると、この話は、父ダビデが息子アブサロムに反乱を起こされ、逃げ回っているシーンです。王が王子に殺されかけている場面……いったい何でこんなことが起こったんでしょう?

 

事の発端は13章まで遡ります。ダビデ王の息子アブサロムには、タマルという美しい妹がいました。そして、同じくダビデ王の息子であるアムノンは、妹のタマルを愛していました。母親が違ったのでしょうが、同じ父親を持つ兄弟なので、当然アムノンとタマルが結婚することは、イスラエルで許されません。

 

ところが、アムノンは病気を装ってタマルに自分の看病をさせ、隙をついて、妹である彼女を犯してしまいます。タマルは「父ダビデにちゃんと話せば、あなたと私の関係も認められ、結婚させてくれるでしょう」と説得しますが、アムノンは彼女の言葉に耳を貸さず、力ずくで辱めてしまいました。文字通りの近親相姦です。

 

妹が兄弟に犯されて憎悪を募らせるアブサロムは、彼女に「何も言うな」と口止めし、一緒に訴えることも、彼女の話を聞くこともしませんでした。タマルは絶望して、兄の家に閉じこもります。さらに、父ダビデも、どこからか事の一部始終を聞きますが、激しく怒っただけで、タマルのために対処することはありません。

 

アムノンを問い詰めることも、罰することもありません。正しく手続きを踏んで、傷ついた身内を癒し、加害者の身内に償いをさせる人間は、この中にいませんでした。かつて、ダビデに油を注いだ祭司サムエルの師匠エリは、息子たちの不正や淫行を止められなかったことで、神様に裁きを受けましたが、もはやそんなレベルを超えています。

 

さらに、アブサロムは2年が経った後、復讐のためにアムノンを呼び出して、酔っ払ったところを殺してしまいます。2年間、被害を受けた妹には沈黙を強いて、自分は復讐のために兄弟殺しを遂行する。

 

しかも、ダビデはこのことが予想できたにもかかわらず、殺害現場のセッティングに一役買ってしまいます。アムノンを憎んでいるアブサロムが「彼を自分のもとへ寄越してくれ」と言うんですから、放っておけば事件になることは自然な成り行きでした。それなのに、ダビデは止めることができません。息子の兄弟殺しを助けてしまった。

 

その上、殺人という罪を犯したアブサロムにも、ダビデは何一つ対処しません。彼を逃げるままにしておいて、人から言われるまで連れ戻すこともしませんでした。驚いたことに、連れ戻したあとも息子と顔を合わせることはなく、2年間放っておきます。とうとうアブサロムの方から「わたしに罪があるなら死刑にするがよい」と言われる始末です。

 

ようやく2人が顔を合わせてからも、ダビデはタマルのことやアムノンのことをアブサロムに追求せず、やっぱりそのままにしておきます。重大な事件が次々と起きてきたのにコミュニケーションがあまりにない。ダビデはアブサロムのことを心から愛していたという記述がありますが、その割に彼は、息子と話そうとはしないんです。

 

そんな中、一切介入してこない父親に対し、ついにアブサロムは謀反を起こし、父親を倒して新しい王になるため、各地で行動していきます。ここまで来たら、さすがに息子と向き合うとき、然るべき対処をするときです。ところが、ダビデはアブサロムが兵を集め始めた段階で、「直ちに逃げよう」と言い出します。

 

いやいや、今息子を捕えて罪を追求しないなら、本当に戦争になってしまう。家族の争いが全国民に影響する。それなのに、彼は息子から逃げ回り、一度も対峙しようとしないんです。自分の城を守るため、側室の女性たちを置き去りにし、最も立場の弱い人間を戦線に残して退避する。これで王位を剥奪されないって奇跡です。

 

なぜここまで、ダビデは息子たちの反乱を止めようとしないんでしょう? 最初から諦めたような気配さえ感じます。確かに、ウリヤの妻であるバトシェバと寝てしまったダビデ自身、アムノンがしたことに、強くは言えなかったのかもしれません。あのことが原因で、「あなたの家の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう」と神に言われていたことが頭にあったのかもしれません。

 

そのくせ、ダビデは自ら行動しない代わりに、フシャイ、アヒマアツ、ヨナタンなどの工作員を送って、息子の反乱に抵抗します。自分に敵対する者は「主の御命令で呪っているのだ」と語りながら、遠回しに神の呪いへ抵抗する。見ていてどんどん情けなくなってきます。

 

幸い、ダビデはフシャイをはじめとする工作員のおかげで、息子アブサロムの手から無事に逃げおおせることができ、ようやく会戦の準備をして反撃を始めます。けれども、その戦いも部下たちに言われるまま、自分は出陣しないで安全な町に留まります。さらに「若者アブサロムを手荒には扱わないでくれ」と言う始末。

 

自分の息子が兵を上げて、部下たちへ襲ってくるというのに、自分は表に立たないで、息子の前に立たないで、解決してくれと懇願する。結果、息子は知らないところで殺されて、ダビデは最後まで息子アブサロムと正面から向き合うことのないまま、死に別れてしまいました。

 

今回、朗読された聖書箇所自体は、不利な状況のダビデたちをアブサロムの手から神様が守った話として理解されます。でも、正直「良かったね」で済む話ではありません。本当に、ここへ神が介入しているのかも分かりません。むしろ、ダビデに不利な状況をもたらしてきたのが神様だ……と取れる記述も多々あります。

 

皮肉なことに、息子たちの罪を追求せず、介入してこないダビデに対し、神様の方も、今まで裁いてきた相手のようにはダビデに対して追求せず、介入しようとしないんです。ここって、めちゃくちゃ苦しいシーンですよね? 神様、何かダビデに言ったらどうです? 叱るなり、注意するなり、したらどうです? なぜ黙っているんです?

 

私たちが叫びたくなるとき、実は、沈黙する神の姿は、私たち自身の姿を映してもいます。ああそうか、タマルのために、アムノンのために、アブサロムのために、向き合ってこなかった私の姿がこれなのか。何も追求されなかった彼らの苦しみは、こういう痛みだったのか……神と息子に抵抗するダビデは、自分自身と否応なしに向き合わされていくんです。

 

取り返しのつかない過ちを犯した人間が、罪を追求されず、放置されることは、助かったように見えて、何の救いにもなりません。壊れていったダビデの家族がそのことをよく表しています。息子を裁きたくない、でも放っておいたら破滅する。何もしないで赦しても、顔と顔を合わせられない。

 

全ての人が葛藤する痛みを、神様も負われました。そして、人々に耐えられない裁きと追求をイエス様の十字架によって担い、完全な和解を復活によってもたらしました。顔と顔を合わせる本当の救いは、この方によって実現されます。私たちが、どうしても逃げ回ってしまう十字架も、苦しみも、この方が一緒に担って和解の道を歩ませます。

 

イエス様の系図に記されたダビデもまた、神の国でタマルと、アムノンと、アブサロムと、顔と顔を合わせて和解する日がもたらされる……その日が私たちにも訪れるように、今日も祈りを合わせましょう。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(兵庫県高砂市の曽根教会)のために、教会に来ていた人のために、心身を病んでいる人のために、被災してしまった人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆兵庫県高砂市の曽根教会のために祈ります。創立90周年を迎えたこの教会に、あなたの祝福が豊かにありますように。新しく赴任される牧師が支えられ、信徒やこども園のみんなが希望を持ってスタートを切ることができますように。

◆教会に来ていた人のために祈ります。以前、礼拝に来られていた方に、あなたの恵みがありますように。様々な事情で教会を離れた人たちが助けられ、教会の方も新しく変わることができますように。

◆心身を病んでいる人のために祈ります。心を病み、体を壊し、魂がすり減っている人にあなたの憐れみがありますように。十分な休息と、適切なケアと、新しい生きがいが得られますように。

◆被災してしまった人のために祈ります。10年前の震災や、各地で怒った地震や豪雨、台風の被害で、今も苦しんでいる人に、あなたの慈しみがありますように。これまでの課題や問題が見過ごされず、新しい歩みができますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌「祈れないときに」(©️柳本和良)を歌いましょう。オンライン讃美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

 

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来らせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを 我らが赦すごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。

我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。

国と力と栄えとは 限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

 

報 告

本日も教会に集まって、配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の祈祷会は、配信3名、出席4名、計7名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

第2部の「分かち合い」は感染拡大を防ぐため、しばらくの間休止しています。聖書研究祈祷会に初めて参加される方は、三密回避の人数調整のため、電話かメールでお問い合わせください。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。