日曜礼拝 2025年6月15日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」(イザヤ書6:8)
讃美歌
讃美歌二編26番「ちいさなかごに」を歌いましょう。最後のアーメンは、つけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆力の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。花の日こどもの日、ペンテコステと、教会の大切な行事を一つ一つみんなで迎えることができ、感謝致します。どうか今、教会に来ることが困難な人たちにも、あなたの恵みを一緒に分かち合うことができますように。
◆私たちの神様。新しく洗礼を受けた信徒の上に、あなたの恵みが豊かにありますように。どうか今、洗礼の準備をしている人、ここへ通い始めた人、それぞれにも、あなたの聖霊が豊かに注がれますように。
◆私たちの神様。病気にかかっている人、障害のある人、家族の看護や介護をしている人に、あなたの癒しと回復がありますように。どうか今、必要な環境が整えられ、孤立しないよう助けがもたらされ、新しい希望を受け取ることができますように。
◆一人一人を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって、祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。エフェソの信徒への手紙1:3〜14の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書352頁です。普段は、聖書協会共同訳も朗読していますが、本日は箇所が長いため、新共同訳のみ朗読します。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編99:1〜9、新共同訳交読詩編の112頁です。
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『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。) |
讃美歌
讃美歌21の353番「父・子・聖霊の」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

メッセージ
エフェソの信徒への手紙を読んでいると、「私たちは神様に、前もって選ばれた」という表現が繰り返し出てきます。何に選ばれたのかというと、端的に言うなら「救いにあずかる者として選ばれた」という話になります。この世界で亡くなって滅ぼされる者ではなく神の国で復活して生きる者となるように、私たちは既に「選ばれている」と言うんです。
もっと乱暴に、俗っぽい言い方をするなら「天国に迎えられる者として、選ばれた」と言う方が、イメージしやすいかもしれません。1章の4節では、私たちが生まれるどころか、「天地創造の前に」この世界が造られる前から、神様は私たちを愛し、聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになったことが記されています。
聖書において、「汚れ」というのは、神様の前でふさわしくないこと、神様に背いたり、神様を蔑ろにしたり、神様に近づけない状態と結びついています。つまり、神様が私たちを「汚れのない者にする」というのは、私たちが神様に近づけるようにする、神様のもとへ招かれて、神の国に迎えられるように、整えられることを意味します。
この手紙では、「天の国」「神の国」が完成するとき、そこに住まう者として迎えられるよう、私たちも、神の子であるイエス様の兄弟として、「天の国の相続者」とされたことが書かれています。そして、私たちが御国を受け継ぐための保証、神の国の相続者であることの証印として、聖霊が送られていると教えられます。
ちょうど、先週の日曜日は、イエス様の弟子たちが天から聖霊を受けて、教会の宣教の業が始まったことを記念するペンテコステの礼拝でした。あの日、皆さんは、聖霊を受けた実感を持つことができたでしょうか? 確かに自分も聖霊を押された、御国を受け継ぐ者とされた、という実感を持つことができたでしょうか?
正直、聖霊を受けた実感がない人もいるでしょう。何か、身体が熱くなるように感じたり、神様の声を直接聞いたり、突然知らない言葉で話し出したりすることがあれば、実感も湧くかもしれませんが、残念ながら、そこまではっきりとした実感は、なかなかできません。自分が本当に聖霊を受けたのか、「分からない」というのが、多くの人の本音です。
ペンテコステの礼拝では、新しく信仰を告白した人の洗礼式も行われました。共に洗礼式にあずかって、かつて自分が洗礼を受けたときの様子を思い出した人もいるでしょう。洗礼を受けたとき、皆さんはどんな気持ちだったでしょうか? 自分も神様に選ばれて、御国を受け継ぐ者とされた、天の国の相続者になった、という実感を得られたでしょうか?
私が洗礼を受けた中学生の頃、そのような実感はありませんでした。むしろ「洗礼を受けちゃったけど、本当に受けてよかったんだろうか?」という感覚が、後からついてまわりました。もともと、双子の弟が「洗礼を受けたい」と言い出し、私が「受けない」と言ったら、教会の人たちがどう反応するのか不安だな……というのが正直な思いでした。
牧師の息子が、家族の中で一人だけ、洗礼を受けないのはどうなんだろう? たとえ、自分だけ洗礼を受けなかったとしても、父や母は、変わらず私を愛してくれるという信頼がありましたし、教会の人たちも強制はしないだろうと思っていました。でも、「何で弟は受けたのに、あなたは受けないの?」と代わる代わる聞かれてしまうのが怖かったんです。
私が洗礼を受けた動機は不純でした。綺麗な理由ではありませんでした。誰からも強制されず、自分の意思を蔑ろにされず、いつでも相談できたのに、流されるように洗礼を受けていきました。そんな自分が、神様に選ばれて、救いにあずかる者となった……イエス様の兄弟として、神の国を受け継ぐ者の一人になった……とは思えませんでした。
本当は、まだ洗礼を受けちゃいけなかったのではないか? あのとき洗礼を受けたのはよくなかったのではないか? 皆さんの中にも、洗礼を受けたあと、こういう思いに駆られた人が、たくさんいるでしょう。というのも、私も牧師になってから、そのように明かされることがたくさんあったからです。
「自分は、まだ選ばれていない」「信仰者の基準に達していない」「天の国の相続者となる、聖霊を受ける準備ができていない」……そのような不安を話される度、自分もそのように感じていたことを思い出す度、エフェソの信徒への手紙の言葉が、新しく胸に刺さってきます。
「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」……「まだ」選ばれる基準に達していないと言う私たちへ「既に」あなたは選ばれていると、手紙の著者は語るんです。「まだ」自分は汚れていると言う私たちへ、「既に」聖なる者となるよう、あなたは神様に選ばれていると告げるんです。
イエス様の弟子たちは、前もって、イエス様が十字架につけられ、3日目に復活することを聞いていましたが、その言葉を信じられず、復活もすぐには受けとめられませんでした。自分から、復活したイエス様を迎えに行くことはできませんでした。彼らは弟子になってからも、「まだ」聖なる者、汚れのない者とは言えず、そのまま滅びるはずでした。
しかし、イエス様は前もって、弟子たちに予告していたとおり、死者の中から甦り、彼らに姿を現して「あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言って、改めて迎えに来るよう命じました。復活した自分と会っても、すぐには気づかない弟子たちへ「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と促しました。
イエス様は、自分の言葉を信じない者、自分が命じたことを守れない者を、前もって、自分の弟子として選び、彼らが信じないまま、教えを破ったまま滅びることのないように、聖霊を送ってくださいました。イエス様から選ばれて、12使徒となった弟子たちも、「まだ」聖なる者と言えないときから「既に」救いを予定されて導かれていました。
私たちの目には「滅ぶべき者」として、定められているように見える者さえ、信仰者を捕まえて処刑していた、パウロのような者でさえ、イエス様は、自分の弟子として選び、救いに定められた者として、遣わしていきました。パウロもまた、「まだ」聖なる者と言えないときから「既に」救いを証しする者として、遣わされていた一人でした。
あなたもそうなんです。実は、神様に「前もって選ばれた」という表現は、「私はまだ、救いにあずかる者として選ばれていない」と言う人たちへ、「もう」「既に」あなたは選ばれているという、驚くべき告知でもあるんです。私はまだ、聖霊を受けていない、約束の証印を押されていない……と言う人は、思い出してください。
復活したイエス様が訪れても、すぐには気づかなかった弟子たちを……姿が見えなくなってから、初めて「イエス様だ」と気づいた彼らのことを……聖霊の証印を押されても、すぐには気づかない人たちへ、イエス様が一緒に居ても、すぐには分からない人たちへ、神様は「もう」「既に」わたしはあなたを選んでいると、何度も新しく出会われます。
たとえ、自分自身が「汚れのない者」とは思えない、「聖なる者」からはほど遠いように思えても、神様は、あなたから汚れが洗い落とされるまで、聖なる者となれるまで、どこまでも付き合い続けてくださいます。イエス様を見捨てた弟子たちも、信仰者を迫害していたパウロたちも、皆、キリストのもとに一つとなっていったように、この方の救いから漏れてしまうことはありません。あなたは「既に」キリストの兄弟姉妹なんです。
恵み深い神様の栄光をたたえて、共に賛美をささげましょう。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌36番「さまよい出たこどもを」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖句と主題
御着席ください。今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。
年間聖句
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」
年間主題
華陽教会では、「信仰継承を考える」というテーマで、マルコによる福音書10:14を今年度の年間聖句にしています。
今週は、洗礼を受けた人、洗礼を受けようとしている人、教会に来ることが困難な人たちのために祈りを合わせ、信仰生活を支え合っていきましょう。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
憐れみ深い神様。私たちの生活の一部をおささげします。どうか、これらの献金を、困っている人のため、信仰生活を支えるため、教会の働きを続けるために用いてください。人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。
讃美歌
讃美歌21の92番「主よ、わたしたちの主よ」を歌いましょう。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(エフェソの信徒への手紙1:2)
祝 福
平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。(エフェソの信徒への手紙6:23〜24)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった 名、同時に視聴された 名、計 名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週の日曜日は『悔い改めればゆるされる?』と題して、使徒言行録17:22〜34のお話をする予定です。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。