ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『万人祭司ってどういうこと?』 ペトロの手紙一2:1〜10

聖書研究祈祷会 2021年10月20日


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案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会も、配信と並行して開いています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の409番「すくいの道を」を歌いましょう。諸事情で、マスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆父と子と聖霊なる三位一体の神様。今日もまた、あなたによって守られて聖書研究祈祷会が開けたことを感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を探している人を導いてください。

◆私たちの神様。先週は華陽教会と飛騨高山教会、蘇原教会、在日大韓岐阜教会と交換講壇を持つことができ、感謝致します。どうか今、それぞれの教会員と牧師の上に、あなたの恵みが豊かにあって、これからも交わりを続けることができますように。

◆私たちの神様。今週は幼稚園の子どもたちが一生懸命収穫したさつまいもで、焼き芋会が行われました。どうか今、知恵を絞って行事を進める先生たちと、新たな経験を積む子どもたちに、あなたからの祝福と成長がありますように。

◆私たちの神様。再来週は、去年と同様、配信と並行して召天者記念礼拝が行われます。今年度も遠方から来ることのできないご遺族に、あなたの慰めと希望がありますように。どうか今、それぞれに必要な言葉と思いを届かせてください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ペトロの手紙一2:1〜10(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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Andrys StienstraによるPixabayからの画像

メッセージ

「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司」……宗教改革の三大原理と言われる3つの中で、今日は最後に当たる「万人祭司」厳密に言うなら「全信徒祭司制」について取り上げようと思います。実は4年前、私が華陽教会に来たばかりの年は、宗教改革501年目の年で、先ほど読んだペトロの手紙一2章9節が年題聖句となっていました。

 

「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」……なかなか思い切った言葉ですよね。手紙の中で、このように言われた相手は、決して信仰歴の長い、ベテランの信徒ではありません。神学校で勉強し、これから牧師や神父になる、という人たちでもありません。

 

なんと、洗礼を受けたばかりの人、「自分たちなんて、信仰的にはまだまだ乳児」と感じているような人たちでした。その人たちに向かって、手紙の著者は「選ばれた民」「王の系統を引く祭司」と言ってきます。たぶん、読んだ人は慌てたでしょう。いやいや、自分はまだ神様のことを知ったばかり、信仰的にも自信がないし、勉強もできてない!……と。

 

皆さんは「祭司」と聞いて、どんなイメージをするでしょうか? おそらく「特別な存在」をイメージすると思います。普通の人より神に近しい、神の言葉を受け取る能力の高い人、といったところでしょうか? 自分たちより神を身近に感じ、神からパワーを得られている?

 

言い換えると、聖職者は、一般の信徒よりも霊的に、信仰的に優位にあって、特権や権威を有している。だから、信徒は聖職者の言うことを重んじて、従うようにしなければならない……そんな感覚が、皆さんの中にもあるかもしれません。しかし本来は、一般信徒も聖職者も、神の前では平等である、というのが、プロテスタント教会の共通理解です*1

 

つまり、信徒と聖職者の間に「霊的な差」とか「信仰的な差」というものはなく、あくまで、教師、長老、役員といった役割の違いとして、信徒と牧師の区別がある、という話です。むしろ、信仰によって、あらゆる権威に囚われず、隣人に対し、愛の実践と奉仕を行う……という意味で、信仰者は、誰もが「祭司」であり「聖職者」なんです。

 

牧師のことを「聖職者」ではなく「教役者」や「教師」「教職」という言い方で表すのもこういった理解から来ています。もちろん、教会の指導的役割として、牧師には皆さんの模範となるような生き方が求められます。聖書の言葉を伝えるための専門的な知識や、相談を受けるための訓練、健全な教会運営をするための学びも必要とされます。

 

もし、牧師と信徒との間に、明確な差があるとすれば、それは他の職業と同じく「専門性」ということになるでしょう。「聖霊の声をどれだけ聞いたか」とか「どれだけ奇跡的な体験をしたか」といった、「霊的な優位性」を強調して、牧師と信徒の違いや「ふさわしさ」を主張する場合は、プロテスタント教会の基本原理からは離れていると言えるでしょう。

 

ようするに、信徒の方も、牧師の私も、互いに祭司として、聖職者として、神に召された者なんです。ある人は友人に、ある人は家族に、ある人は教会へ来た人に、神を証しする祭司として、日々遣わされています。牧師の場合は、聖書の言葉を皆さんに分かりやすく伝えるメッセージという方法で、神の業、イエス様の教えを伝えますが、信徒の方々も様々な形で自らの信仰を証しします。

 

誰かのために祈ったり、自分のものを分けてあげたり、困難に寄り添ったり、証の仕方は様々です。あなたの生き方そのものが、神様の愛を伝え、イエス様の教えたことを広げていく献げ物なんです。「私なんかが祭司という特別な使命に選ばれるわけがない」「まだまだ信仰的にも幼いのに……」と思う人にこそ言わせてください。

 

神様は、他の人から捨てられたように見える石、私は要らない者だと叫ぶ石さえ、隅の親石として、家の土台として用いられる方です。かつて、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた、神の子イエス・キリストも、誰がどう見ても捨てられた者でした。王として、祭司として、立てられた者には見えませんでした。

 

周りも、本人も、「捨てられた」と口にせざるを得ない存在でした。ですが、神様はこの方を復活させ、みんなと出会わせ、誰も捨てられることのないように、誰も選ばれないことがないように、「わたしに従いなさい」と一人一人に呼びかけさせていくんです。多くの人は、この方を知った当初、出会った当初、自分が選ばれることを恐れ、戸惑います。

 

ペトロも、イエス様に呼びかけられた当初、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです(ルカ5:8)」と言い、関わることを恐れていました。自分に何か求められるのを怖がっていました。しかし、イエス様はペトロにも、他の弟子たちにも、離れようとする一人一人に呼びかけ続け、触れ続け、自分と一緒に来るまで付き合います。

 

私も本来、祭司として立てられる人間ではありません。恥ずかしくて、情けなくて、まだまだ言えない失敗や過ちがたくさんあります。しかし、イエス様を信じる限り、イエス様が私に付き合ってくれることを思い出す限り、私は信仰によって義とされた祭司であり続けるんです。

 

皆さんもどうか、自分に付き合い続けるイエス様を信頼してください。あなたも、この方を信じる信仰によって、自分が祭司として立てられていること、支えられていることを思い出し、新たに遣わされていく存在です。あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民なんです。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(富山県南砺市の福光教会)のために、全国の教会のために、海外の教会のために、召天者のご遺族のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆富山県南砺市の福光教会のために祈ります。教会と福光青葉幼稚園の歩みが守られ、子どもたちと保護者の上に、あなたのつながりができますように。福野伝道所と兼任されている牧師にも、あなたのお支えがありますように。

◆全国の教会のために祈ります。岐阜地区をはじめ、全国の諸教会に、あなたの恵みがありますように。各地の教会が、正体や目的を隠した乗っ取り被害から守られ、信徒や教会に通いはじめた人が、悪質な勧誘から守られますように。

◆海外の教会のために祈ります。不当な弾圧や迫害から、全ての教会が守られて、各々の礼拝が誠実に行えますように。教会が地域と健全な関係を築き、全ての人に、あなたの愛と平和を伝えることができますように。

◆召天者のご遺族のために祈ります。親しい方を亡くした方、きちんと見送ることができなかった人たちに、あなたの慰めがありますように。今年も召天者記念礼拝へ集まることができない人にも、あなたの希望と励ましが届きますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌23番「わたしの口は絶えず歌う」(©️柳本和良)を歌いましょう。

 

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

報 告

本日も教会に集まって、配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の聖書研究祈祷会は、出席3名、配信1名、計4名が参加されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

配信はここまでですが、この後2時半まで、希望する参加者が質問したり、祈ってほしいことをお願いできる「分かち合い」を持ちたいと思います。時間のある方はぜひ、ご参加ください。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。

*1:金井新二「宗教改革」大貫隆、名取四郎、宮本久雄、百瀬文晃 編『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2002、2008年、508頁左段26〜29行参照。